2008年4月18日 (金)

環境問題と神道文化

前回の更新よりだいぶ日が経ってしまいましたが、以前の主人の講演趣旨をまとめた原稿をそのままですが掲載させて頂きます。

「環境問題と神道文化-地球環境の危機に直面して、神道文化はどのような打開の方途を示すことが出来るか-」

現在、環境破壊は地球規模で様々な兆候を見せ、人間の存在そのものに容易ならぬ事態を引き起こしている。18世紀西欧で起こった産業革命に起因する啓蒙主義から発した人間中心主義が、近代の世俗的科学技術文明の物質的繁栄をもたらす一方で、現代の深刻な環境破壊に至る根本原因となり、その状況は刻一刻と悪化し続けている。

依然として世界経済の開発動向を支配しているこの価値観を軌道修正するには、先進と後発の諸国が共有できる環境倫理を目指すことが必要となってきているが、これまで環境問題に対してとってきた様々な対応は、あくまで科学技術による対症療法的対応であり、根本的な解決には至っていないのが現状である。

スウェーデンの哲学者アルネ・ネスは科学技術の力によって対症療法的に解決を図る(Shallow Ecology)のではなく、生態系を心で理解し、それまでの物質的繁栄重視の発想から転換を図るべく、深く、徹底的に生態系保全に努めるべきであるとした“Deep Ecology”という概念を示した。つまり科学技術で何とかしようという発想だけでは環境は守れない、人を支えている生態系を豊かにするためには人間以外の生命も含むすべての命に尊厳を認めるべきだという「生命圏平等主義」を主張したのである。

この概念は当時、聖書宗教の世界観を持つ西欧各国では非常に斬新であり大変な衝撃となったが、東アジアでは例えばそれは仏教における「殺生戒(Ahimsa)」という概念や、ジャイナ教などはこの不殺生を徹底して目指したということなどからも、こういった発想は極めて一般的なものであったといえる。しかし、我々は食事など他の生命を奪うことなくしては命を繋ぐことができないのもまた事実であり、宗教的な矛盾を常に抱えていると言える。それは農耕社会に生きる我々日本人にとって穀物、特に米は生命線であり、我々は生きるためにその「稲」という生命を摘まねばならない宿命にあるということである。

神道では「敬神崇祖」と「鎮魂」という概念がある。我々は祖先から生を享け、万物から生かされているという発想、つまり生と死とを通じた生命の霊的連帯の中で自然や人間の霊性を神とも祖先ともして祀り鎮める営みである。それは神道文化が持つ生命観であり生命連鎖という生態系、つまり自分の命を次の世代に引き継ぐことの大切さが見えてくる。そういった考えに基づいて、新嘗祭に代表される神道儀礼において自らの生命を繋ぐ「稲」という尊い生命を神饌という聖なる対象とし、象徴的行為を以てその殺生に対して意味づけすることで前述の宗教的矛盾に応えてきた。また日本人が持つ「神道文化」には「鎮守の杜」という言葉がある。日本人が「杜」には何か霊性とか神が宿るという考えを持つのは極めて自然であった。また「杜」をはじめ全ての生命を含む日本語の「自然」という言葉は名詞でもあり、形容詞でもある。そしてそれが持つ概念は「自づ」から「然る」というものであり、それこそ最良の形であると考える文化的土台に成立した宗教であることに起因して、人もこの一部であると考え、自然との共生を果たしてきたといえる。

現代の環境問題をもたらした要因の中のひとつとして現代に生きている人間だけが権利を持つという発想があり、神道文化での祖先から生を享け万物から生かされている自然的秩序の一員であるという発想は環境問題を打開する上で何らかの手がかりとなるのではないかと考える。それは旧来の精神文化への立ち返りを意味するものではなく、現在の物質文明へのアンチテーゼとなりうるのではないだろうか。そして比較文化を通じて神道文化が持つ概念が世界中で理解されるようになれば、両者を止揚させ「生命文明」と言えるような本質的かつ永続的な文明を築く一翼を担えるのではないか。

現代、世界的には爆発的な人口増加と、開発途上の国々の近代化に伴って環境破壊が致命的なところまで進もうとしている。近い将来予想される深刻な食糧不足、或いは急速な地球温暖化から懸念される氷河期の早期化。

それらに歯止めをかけるためにも、我々日本人が有する文化性、神道に含まれる宗教的規律が今こそ世界に発信され貢献するべき、そんな時代を迎えているのではないだろうか。

まさに今こそが、日本人が真に国際化を果たすべき、その時であると考えるものである。

                           代筆 田舎の神主の妻

| | コメント (12) | トラックバック (9)

2008年3月 6日 (木)

ご報告

当ブログ「田舎の神主の学び舎」管理人に変わってご報告申し上げます。

「田舎の神主」こと、当ブログ管理人は昨年より体調を崩しておりました。

それが今年に入りまして、社頭でのご奉仕のみならず、日常生活上でも支障をきたすようになり、現在療養中であります。

また社務、その他講演等も多忙を極めており、本人の体調管理の都合も含め、管理人によるブログの更新を一時停止とさせて頂きます。

管理人は「日本人の生き方、在り方としての神道」普及のために、インターネットというツールをもっと活用すべきだと日頃から強く訴えており、昨年も当ブログの更新が長きに渡り滞っているのを気にかけておりましたが、私どもから管理人自身の体調に気遣いをとの希望を申したところから少し休んでおりました。

コメントをくださっている皆様、またリンクを頂いている皆様、当ブログへ足をお運びくださった皆様にはくれぐれも宜しくと管理人も申しておりました。

また体調が回復しました暁には、必ずや更新をすると本人も意欲を持っております。

しばらくの間、当ブログは管理人の承諾の元で私が管理、運営させて頂きます。

記事の更新やコメントなどへのレスポンスが遅れることもあろうかと思いますが、責任を持って更新及びお返事申し上げる所存でございます。

どうぞ今後とも当ブログ「田舎の神主の学び舎」をよろしくお願い申し上げます。

                        代筆 田舎の神主の妻

| | コメント (16) | トラックバック (1)

2007年11月23日 (金)

ふと気がつくと・・・

前回の更新から早くも3ヶ月も過ぎていました。

相変わらず忙しいと言い訳のように繰り返しております。(反省)

何故忙しくしておりましたかと申しますと、実は・・・・。

この時期になると最早毎年恒例のようになっておりますが・・・・

第五子が誕生いたしました。(苦笑)

体重2912g 身長48.5㎝

元気な男の子であります。

去る11月の某日でありますが、母子共に健康でこの世に生を受けました。

今回は家内の妊娠中に体調の問題もあり、一時は入退院も何度かありましたが、無事に出産を終えて帰ってきてくれました。

公私ともに多忙を極めておりました故、遅くなりましたがここに御報告申し上げます。

七五三シーズンを終え、ようやく落ち着きを取り戻しましたので、更新を再開したいと思っておりますが、なにぶん年末年始を未だ控えて居る状況でありますので、マイペースに更新を続けて参りたいと思っております。

しばらくの充電の間に書きたいことが貯まっております。

時間を作りながら更新を続けたいと思っておりますので、皆様今後とも拙ブログを宜しくお願い申し上げます。

| | コメント (9) | トラックバック (10)

2007年8月15日 (水)

「神への信仰」というもの

前回の文章と併せて、同じ先生がお書きになった文章で、これも当社の会報に載せたものです。会報では2ヶ月続けての掲載となりました。では早速・・・

神への信仰というもの

信仰とは読んで字の如く、あくまで「信じて仰ぐ」にある。

神様や人様の言霊を耳に、心に聞いて信じ行う「信行」し、以て実行するところに心の行い「心行」となり、信じ幸せな「信幸」となる。

迷いの心を払い光差し「心光」と書き、外面に視し身の行い「身行」をするので、幸は益々心の幸「心幸」となり、身の幸「身幸」となる。

神に願うのではない。心の願い「心願」である。願するところに根害あり、その害する己の根を掘切る「(おしえ)」を「求」めて「救」われるの文字となる。 

神の御許、教えに進み行く「進行」し、「信仰」によって神を感じ「神降」し、そこからさらに「深考」することから心改まり「心更」の信念が生じ新しき行い「新行」の大道開拓となる。

神仏のための信仰でなく、荒木の心即ち「心荒」のための「沈行」をして徳を遺憾なく発揮することにより愉快な人生を見出すことである。

その為にノビノビと「伸行」し「身行」となり「深交」の良き友が集い来るのは眞の行い「眞行」による来福であり、「深交」するので益々と和樂の日が送れるのである。

己我無(おがむ=拝む)精神無い者は不健全な自己の行動に気付かず、人を恨み、咒い、譏り、怒り、嫉み、行き詰まって震える行い「震行」し、地震の玉子のように身震いしている。自震では生きられない。自らを養い愛で給う神を感じ自神であれ。 自らの心、即ち自心は自信により自眞となし、我の尊さを知る自神となるのである。

さすれば心機一転、神の御力を戴き「振興」となる。野良も自由も蒔かぬ種は生えぬ。花を咲かせ実を結ばせる「深耕」しなければ、種は水に流され鳥に食われる。教えの種を蒔くように神起・心気・新気の種を蒔こう。用意周到の深耕をするのである。

これを患しいと云う事が「貧行」となり「診行」して見放され情けないと泣き溢し、人に拾われるのも知るや知らずや、あぁ情無い不人情の人である。

平常の「心構」が欠けている空(から)心が空駄(からだ)・・・身体・・・「身構」に油断するな。わずかなスキ間に「魔」が入り込んでくる。

私運行(しんこう)」の現世の生活は「親孝」の賜と知れ。

平素日常の神への奉祀と感謝、自己の神「自神」と共に強く祈り「志運行(しんこう)」するところに開運となる。

「心こそ 心迷わす 心なり 心の心 心ゆるすな」

                          了

今回は若干宗教色が強いテーマでしたが、私もこの先生に近い考えを持っております。

日本人の神への信仰心と現代の日常生活を考える上で、こういった規範的な要素が薄らいでいる事実は、現代が抱える様々な問題と無関係でないように思います。

古代、神話を肌で感じてきた日本人が持っていた感覚を、現代を生きる我々は失くしてしまっているのではないでしょうか・・・。

この大自然の運行と「私運行」は無関係ではないはずです。

この先生のこの原稿を読んで、私も「私運行」は「志運行」でありたいと感じました・・・。

先に述べましたが、今回のテーマは若干宗教色が強く、また読みにくかったことと思いますが、御容赦賜れれば幸いと存じます。

| | コメント (6) | トラックバック (6)

2007年8月12日 (日)

「生きる糧」というもの

更新が滞っておりました。

久々の更新なのですが、以前私の師にあたる先生が会報に寄稿してくださったものがありましたので、ご紹介させていただきます。

またこれと別に、この先生が今回のエントリの原稿と共に書かれた小文もありますので、後日掲載させていただきます。それでは・・・

「生きる糧」というもの

人に生き方を旅路にたとえたり、航路になぞらえたりしますが、長い人生には平穏な時ばかりではありません。

時には雨、風の激しい日、波の立ち騒ぐ日もあることでしょう。

誰でも平穏を望む処ではありますが、そういった航路ばかりを選んでいますと、つい惰性に流され、安流に慣れ、突然の激しい風雨や波風に遭遇した時に、ただ慌てるばかりで適切な処置が出来ず、取り返しのつかない痛手を負ってしまうことにもなります。

楽な生き方には向上性が無く、何によらず良くなる為には困難がつきまとうものであります。

望んでも手に届かなかったものが、懸命な努力によって、或いは長い時間辛抱した結果、得られるからこそ喜びとなるものであり、簡単に手に入るものの中には、その感動や満足感を見出すことは出来ません。

自ら求めてまでもその苦難に体当たりしてゆく生き方にこそ、成し遂げた時の深い喜びが与えられるものです。

昔から「苦労は買ってでもせよ」と云われているように、私達は人生における辛酸を、むしろ自ら進んで求めるくらいの心構えが大切です。苦労から逃避してばかりでは、いつまで経ってもそれを乗り越えてゆく力が備わらず、何事にも挫折してしまう虚しい人生を送る事になります。

苦しみや悲しみを人間向上の為の有難い試練だと、素直に受け入れ頂いてゆく処に価値のある人生が生まれるのです。

また、「味わう」という言葉は、ただ単に体験するだけでなく、それが持つ意味を充分に理解し、感じ取ってゆく事であります。苦しみや悲しみをあるがままに、そのものとして「味わう」ことに依って、自分の「心の糧」としてゆく事ができ、そこで初めて他人の苦しみや悲しみも理解できる、温かい心が養われていく事になるのです。

苦労を共に味わい、噛みしめて、深みのある人生を過ごしていこうではありませんか。

「なぁに、また明日がある」「先がある」と考えていると、いつの間にかどんどん日が経ち、それが一年、二年と続けば、為すべきことも為せずに終わって、後悔することになりかねません。つまり、時間は限りある自分の命をそのものであると云えます・・・。

それは「砂時計」のように、毎日毎日、自分の持っている有限の砂を少しずつ落として生きている、というようなものかも知れません。それはいったん過ぎ去った時間を呼び戻すことも叶わぬことです。

私達が人間として此の世に生を受け、斯く存在しているということは、それ自体が尋常なことではありません。生きとし生けるものは全(みな)等しく、火・水・風(空気)・大地と、とめども尽くせぬ大自然の恵みを受け、またそれから生産される。衣・食・住に事欠くことなく自由に生活を営んでいます。これ等の事にただ感謝と喜びを抱くだけでなく、何かを以て報いようとする事は、人間が大自然の恩恵を受ける存在、それは即ち「かみのこ」として当然の義務であると思います。つまり、世の為、人の為に何かお役に立てるようにと願う気持ちが大切なのであります。

その願いを、仕事を通じて叶えることが出来れば、これは素晴らしいことではないでしょうか。

「少しでも世の中に貢献しなければならない」という使命感を以て事に当たれば、より大きな力を発揮することができ、生気に満ち溢れた意義ある人生を過ごすことが出来るものと確信いたします。

人生の旅すがらには色々な出来事が起こるものです。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいことや煩わしいこと、苦しいこと、辛いこと・・・数限りない出来事が湧いてくるものです。それを一つ一つ味わうだけの「心のゆとり」を持ちたいものであります。

斯く云う私も、十三歳の時から奉公に出された。故郷を発つ時の私の姿は、手織り木綿の着物、持ち物といえば「行李(こうり)」でした。その衣装もお袋の朝早く、夜遅くまでの賃仕事の合間を利用して、丹精込めて作ってくれた手織りの木綿であり、母の心づくしの、唯一の贈り物でした。これが私の六十年ほど前の故郷を出る時の境遇でした。

年期奉公、二十円とかで、旦那さんもお内儀(かみ)さんもよく私を使ってくれました。 明星を頂き夜星を見て大八車を引かされれました。 毎日辛い苦労の続く私でした。

「喰いたい」「あれも欲しい」「之も欲しい」「お金を貯めたい」という欲望は、貧乏な家に育っただけに人一倍強かった事は勿論でした。

故郷を発つ時に、親父が口癖を酸っぱくなる程言っていた。

「頑張るだぞ。辛抱しろよ。腹立てるな。泥棒だけはするなよ・・・・。」

と耳が痛くなるほど聞かされたのです。小ちゃな身体で頑張ったが何せ大八車に薪の山。それを舵取る事は並大抵ではない。おまけに道はでこぼこ道。前に進むのも「ソロリソロリ」と汗がこぼれる、腹が減る。ふと七、八人の高等科(現在の中学生)一、二年生ぐらいの生徒達が荷車の後ろに廻った。「これは嬉しい。車の後押ししてくれる」と思いきや・・・?「や、ヤァ。チビ、チビ小僧だぁ!ワァイ!」と言い乍ら、てんで荷車の後部にぶら下がったのです。

後ろが重くなったので、車を引く私は舵と共に宙に浮いて足をバタバタ「止めてよ、止めてよ!」と叫ぶのですが、一向に生徒達の変わる更るぶら下がる跪拝(きはい)に、流石の私も一寸の虫にも五分の魂と、舵から手腕を離し飛び降りて、腹立ち紛れに荷車の薪を一本抜いた、その瞬間「やぁ!チビ!怒ったぞ!!やっちまえ!!!」と反対に袋叩きになってしまいました。

「この奴ら!!!」の大きな声に気が付いた。起きて見ると、自転車を転がしながら人の良さそうなおじさんが、私のそばに寄って来ました。周囲を見ると、遠くの方に、蜘蛛の子を散らしたように生徒が逃げていく姿が見えました。

「ばかぁさっしやる。可愛そうに。怪我はなかったか」「うん、大丈夫です・・・。」

と、言ったものの右腕に血が滲んでいたり、足腰に痛さを覚えました。

「ありがとうございました。」と言いつつも涙拭き拭き荷車の舵を取ると、おじさんは親切に自転車を転がしながら大八車の後を片手で押してくれました。

「こんなに沢山積んで大変だなぁ。あぁ、何処のお店?・・・あぁ・・・○○○かぁ。大変だろうが、辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。じゃあ・・・おじさんはこの辺で。」

と云うので、うしろを振り返ると、もう親切なおじさんの姿は見えませんでした。 あの時の嬉しさは忘れることも出来ず、あの優しいおじさんのお顔も忘れることは出来ません。

それに一方「チビ小僧」と云いつつ、荷車も押してくれず、ぶら下がったりし、寄って集って袋叩き、押し潰された口惜しさは生涯忘れ得ぬ事と思ったものの、「今に見て居れ!僕だって見上げるほどの大木に、成って見せずにおくものか!!!」との信念を、この私に持たしてくれた人達だと思う時、あの生徒達を恨む処か、むしろ感謝しなければならないのだと思いました。

私の人生の旅はあまりにも過酷過ぎた。だが歩んで来た道にあったのであり、歩んだ道は東でもなく、西でもなく南・・・『皆見』てくれた処から北(来た)道にあったのです。

種々のことがあった・・・。

色々な出来事が、どう仕様もない、一層のこと死んでやろうか、などと思ったこともあったが、それは私を虐待したのではない、苦しめたのではない、又恥をかかせたのでもない。

全て、大自然からの慈悲心からであり、神よりの試練(おためし)でもあったとも思われます。足らずながらも、世の為人の為に尽くしたいとの生き甲斐と、神の前に積み上げた苦労の徳が現れてき来て、両親亡き後でも思い出して喜べる無形の徳。

果たしてそれは事実となって、今日私の恵まれた生活と立場があるのだと信じます。

徳さえ積んでおけば盤石の強さである。

徳は此の世の主人である。

必要な時に必要なだけ、お与え下さる神と共に生きる生活程強いものはありません。

栄枯盛衰、生死、喜怒哀楽を超えて、悠々と神の御心に添うて生かせて貰ってきました。

「辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。」の声が、今生、心に焼き付いている

                                  

| | コメント (2) | トラックバック (1)

2007年6月30日 (土)

現代と神道 ~特別編その3~

このシリーズも今回で最終回となります。

では早速、前回の続きです。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その3

日本には古来より独自の文化性があった。またヨーロッパも同様である。

そしてここで問題とされている中東地域の各国もまた独自の文化性を有しているのである。

ある国の文化と別の国の文化が触れるとき、化学反応にも似た変化が起きる。

結合・融和して新たな文化が生み出されるか、或いは片方の文化に吸収されてしまうのか、または結合・融和もせず、吸収もされず、両者ともそのままの状態であるのか。

それが本質的な「文化の変遷」というものであろうと考える。

この「文化の変遷」は常に時の権力と密接な関係にあることは否定できない。

そして、抗争の歴史と並行しているものでもある。

前述した日本の近代化に於いても、その背景には全世界規模での「帝国主義」があり、更には強大な軍事力を背景にした欧米列強の圧力があった。

その文脈の中で自らの独立を希求し、それを成し遂げるための「近代化」が起こり、文化的変遷を生んだのである。

しかし「近代化」を推し進める中で、真の独立を求める中で、それは「国家主義」を生み、やがては「超国家主義」へと変容を遂げ、いつしか戦争へと進んでいくのである。

外圧に対して最大限の譲歩を続けながらも、時代の潮流には抗えなかった、と考える。

この現象は単に国内政治レベルという問題ではなく日本の国民的潮流であり、更に言えば全世界的潮流であったとも言うことも出来るであろう。

日本の日韓併合から支那大陸進出、満州事変及び支那事変。

アメリカの排日移民法や石油禁輸政策、更にはハルノートと、様々な諸条件が重なった上での戦争であったのは間違いない。

しかし、それらの諸条件についての言及は今回の趣旨ではないので避ける。

付言するならば、現代に生きる我々が何かを述べるのは間違いであると感じるからである。現代の価値観で歴史を裁くことは出来ないし、またそれはあまり意味を持たない行為であると考えるからである。

時代的潮流に逆らうことが出来なかった日本はやがて「敗戦」という形での決着を見る。

当然のことながら、敗戦国は連合国の管理下に置かれ占領政策が開始されることとなる。

ここで、前述した「民主化」が再び行われるのである。

ここで重要な点は「連合国主体」で「民主化」行われ、先の戦争における「戦争責任」なるものの追求も始まり、その中で「戦犯」として多くの日本人が裁かれたこと。

また、連合国の民間検閲支隊(CCD)による徹底した検閲が繰り広げられ、大日本帝国憲法を排し日本国憲法が連合軍主導の下に制定され、その中で教育基本法なども改められ、それらの条件下で日本国民に対して日本文化の再教育が行われたという点である。(江藤淳著『閉された言語空間』他、参照)

この2点を踏まえて考えると、現在言われている日本の「民主化」は今から凡そ60年前の連合軍占領統治下で起こった、言わば「文化の変遷」であり、積極的に日本人が望んだものではなかったのではないかという疑義が生まれてくる。

またこの時に、前述した私の推論する「禁教令を出すに至った秀吉の思考」と同じ感覚を覚える。

つまり、中世に日本が初めて出会った「グローバリゼーション」である。

戦後の「再教育」の中で日本人は連続した歴史を失い、「民主化」の名の下に自らのアイデンティティを喪失してしまった。

しかし、当時の日本人は長きに渡る戦争によって心身ともに疲弊しており、民族的に異文化に対して排他的でない文化性も手伝って「民主化」、つまり連合国による「グローバリゼーション」を受け入れてしまったのではないだろうか。

勿論、明治維新時にも民族性を失ったが、それは外圧に対抗し自らの独立を、独自の文化性を保とうとするが故の変遷であった。

これは即ち、日本人が世界中の多数存在する異文化の中に自国の文化の存在を知らしめるためのものであったと考えるものである。

まさしく「インターナショナライゼーション」である。

この論を以て言うならば、アフガニスタンに於ける「ターリバーン」の勢力復興も、イラクに於ける軍事行動がイラク国民から見れば「テロ」でなく「レジスタンス」であるということも然るべきことである。

彼らが文化的、或いは宗教的な理由によって「民主化」を拒むのは当然であろう。

それは自らの存在を、「文化」を根底から否定される性質のものであるからに他ならないからである。

つい先日のことであるが、『イラク特措法』の延長が国会で決定された。

現在多くの日本の自衛隊員がイラクに於いて復興支援や人道支援という形で駐留している。

その姿はイラクの国民からどのように見えるのであろうか・・・。

自らのアイデンティティを破壊しようとしている、かつての日本に於ける「連合軍」の一軍として見ているのではないだろうかと危惧を覚える・・・。

そして、かつて日本が経験した「歴史の断絶」がアフガニスタンやイラクでも起こるのだろうか。

日本人とイスラム教国の人々との大きな違いは言うまでもなく「宗教観」であり、それに伴う「文化」「民族性」である。日本人の精神性の源泉の一つと言える「神道」は歴史的に見て、良くも悪くも様々な「異文化」との共存を果たしてきた。

しかしまた、その柔軟性・寛容性が日本人の最大の特性であり、戦後日本を経済大国へと押し上げた最大の要因であると考えている。

その最大の特性を活かし、また、かつての苦い経験を生かし、まさに「異文化」であるアフガニスタンやイラクに対して自衛隊の派遣だけでなく、貢献できる分野があるのではないだろうか。

米兵に守られなければ支援活動が出来ない状態の自衛隊員が、生命を危険に晒しながら、アメリカや日本の理論で言う「テロ」によっていつ破壊されてしまうか分からないインフラの整備などをするよりも、政府レベルで対策をすれば他にも出来ることはあると考える。

現代はまさに「国際化社会」である。

様々な「異文化」が混在し、同時に普遍原理としての「文明」が世界中に広がりを見せている。

しかし、「文化」と「文明」は同一のものではないということを理解せねばならない。

「文明の利器」の拡大によって生活の利便性は大きく向上したであろう。

しかし、「グローバリズム」即ち「民主主義」という「文化」の拡大によって戦争を生み、「テロ」或いは「レジスタンス」を生んだ。それによって元来そういった文化性を持たない、或いは受け入れない国々の土着文化や歴史の連続性が失われようとしている

明治維新、敗戦を経て、日本人が失ってしまった文化性、精神性も同様である。

現代の日本に目を遷せば、かつては見られなかった現象に頭を悩ませている。

少年犯罪の凶悪化、家庭内暴力の増加、性風俗の乱れなど、枚挙に暇がないが、それらは日本文化の荒廃が招いているものであろう。

それは「アイデンティティの喪失」と、現代の価値観の多様化がもたらした二元論の崩壊、つまり自己存在に対する善悪の規定の崩壊を意味すると考える。

如何なる国であっても、長い歴史を持つ国であれば、その国の淵源は大抵の場合は「神話」である。戦後に「民主化」された日本は経済的な豊かさを追い求め、資本主義社会を浸透させてきた。

その結果、現代は「唯物論」が支配的となり、「神話」の類に関しては否定的な社会になってしまった。

その理由として民主主義、資本主義を生み出したヨーロッパと「宗教文化」が決定的に違う点が挙げられる。

つまり、戦後の連合国主導の「再教育」によって自国の歴史的連続性が損なわれたと同時に、市場原理によって都市化が進み家郷社会の解体が起こった。それが意味することは、日本の土着宗教である「神道」、即ち「共同体信仰」の原理の破壊であった。

キリスト教やイスラム教などの所謂「一神教」を宗旨に持つ文化圏は、その宗教的概念に於いても、文化的性質に於いても「個人救済」或いは「個人主義」というのが中心にある。であるから故の対立構造が生まれるのは理解できる。

これは世俗化を「是」としたキリスト新教系「グローバリズム」、言い換えれば「一元主義」と世俗化を許さないイスラム教「ファンダメンタリズム(原理主義)」とも言うべき概念の二項対立である。

が、しかし、日本の「神道」の概念、或いは日本人の「文化的特性」他者に対し寛容であり、且つ「異文化」を吸収・消化する柔軟性を持ち合わせているのである。

更に「鎖国時代」の限りある生活環境から培われた文化的特徴として、可能な限り対立を避けようとする特質があったと言えるのではないだろうか。

こういった日本の文化的特質から考えると、敗戦当時の日本は占領政策に対して現在の「ターリバーン」や「アルカイーダ」、イラク国民のように「テロ」或いは「レジスタンス運動」が起きにくい状況であったと考える。

そして現代、キリスト教原理以外の「文明」的要素を受け入れ、「近代化」「民主化」を成し遂げた日本人は、独自の文化性を大部分放棄し、皮肉にも、見事に「グローバル化」を果たしたと言える。

しかし、明治維新後の日本が目指したものは「グローバル化」ではなく「国際化=インターナショナライゼーション」であったはずである。

そして、方向性が変わってしまったことに気付きながらも、糺すことが出来なかったその「ツケ」が、現状に様々な形で現れているのではないだろうか。

「共同体」の原理によって生活規範が保たれていたこの国に、「一神教原理」即ち「個人主義」を背景に持つ政治システムを導入し、そのバックボーンがないまま、どこかに精神性を置き忘れたまま発展させてきた軋轢が、今ここにある。

今まさに、この教訓に学ぶべき時である。

日本が日本足るべき理由と、その存在感を世界に知らしめるためには「アイデンティティの復権」以外にあり得ないのである。

「グローバリズム」の限界が今、中東に見えているのである。

今こそ、各々の文化性を互いに認め合い、共存することこそが真の国際交流の価値であり、その最終目的たり得るものである。

それは日本人にしかできないことである。

日本の誇るべき文化特性が持つ、或いはその土着信仰である「神道」が持つ寛容性、柔軟性を遺憾なく発揮し、国際社会に貢献するべきである。

現在、世界人口は60億といわれる。

これからも爆発的な人口増加が予想される。

それは全世界レベルで「鎖国状態」に陥るということを意味しているように感じるのである。

限られた資源。限られた生活環境。世界的に食料生産に適した耕地面積は限られている。

そんな生活環境で生き抜いてきたのは恐らく、世界的に見ても「鎖国時代」の日本くらいなものであろう。

かつての精神性を取り戻し、アイデンティティの復権がなったその暁には、きっと日本人が、かつての日本人の生活が見直されることとなる。

アフリカで始まっている「もったいない運動」などはまさにその前兆と言えるだろう。

繰り返す。

我々は今一度、自国の「文化」と「宗教性」を見直し、その精神性とアイデンティティの復権を果たさねばならない時が今、来ているのである。

                   了

| | コメント (12) | トラックバック (8)

2007年6月27日 (水)

現代と神道 ~特別編その2~

前回の続きです。

今回ブログへのエントリアップに伴い、若干文章を付け足してあります。

原稿自体は少し前のものですが、時系列的に最近の事柄も入ってきますのでご了承下さい。

では早速続きを・・・。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その2

中世になると日本は若干の混乱期を迎える。

天皇・公家中心の政治体制から武家中心の政治体制へと移行していったのである。

それまで比較的安定的に国家運営が為されていたものが、数多くの戦乱が起こり、文化的にも安定しない時代が続くのである。その戦乱が収まり、文化の発展を見るのは豊臣秀吉の天下統一を経て、徳川幕府の成立を待たねばならなかった。

しかし、その中世に日本は初めて西洋の「グローバリゼーション」と出会った。

当時は「グローバリゼーション」と呼べる様な代物ではなかったかも知れないが、西洋のキリスト教一元主義を基にした「大航海時代」が後の「帝国主義時代」「民主主義の拡大」の到来を予見させるものであったと考察する。

日本の地を踏んだ最初の西洋人はキリスト教宣教師であると言われている。

彼らは種子島に上陸し、鉄砲を伝える。いや、正確には「持ち込んだ」のである。しかし、当時種子島にいた鍛冶などを行う職人たちの眼に触れ、興味を抱いた彼らは分解してその構造を知ると、世界の「最新技術」である鉄砲の製造技術は瞬く間に全国に広げることになる。そして数年後には鉄砲の保有数は世界一になったと言われている。

そんな環境の中でキリスト教宣教師が九州に上陸し、布教を開始する。

布教活動の中で彼らは時の権力者であった大名に取り入り、信者を多数獲得していく。

また、当時天下に最も近いと言われた織田信長に謁見し、直に布教の許可を得ている。

そして彼らは勢力を伸ばし、特に九州に於いてはキリシタン大名の権力を背景に寺社仏閣の破壊行為に及ぶのである。しかし、時を同じくして国内では世に言う「本能寺の変」が起こり、権力の座は信長から秀吉へと移っていった。すると、秀吉はキリシタンが大名の力を借りて領民を半ば強制的にキリシタンにしていることと、それら領民に寺社仏閣の破壊を命じていることに関して疑義を呈するのである。そして彼らに質問状を送るが満足な回答が得られず「伴天連追放令」を出すに至ったのである。

この時、西洋人達は武力の行使も吝かではなかったはずである。

しかし、彼らはそれをしなかった。またそれは何故か。

前述した通り、当時の日本は鉄砲の保有数世界一であった。

つまり、彼らが持ち込んだはずの世界的最新兵器の大量製造が可能な技術力を有し、しかもその技術が全国に広がっており、武力による制圧が不可能と考えていたからに他ならないのである。また、技術が広がっていたことはその当時、職人が国内での移動を比較的容易に行えたことを証明するものでもある。

「伴天連追放令」の後に「切支丹禁教令」が出され、日本国内、特に九州におけるキリシタン弾圧が繰り広げられた

ここで推考しなければならないのは、秀吉が最終的に禁教令を出すに至る彼の思考である。

あくまで個人の思考であるが故に推論の域を出ることはないが、彼が追放令、禁教令と順を追って弾圧への態度を硬化させていく背景には、彼らの寺社仏閣の破壊行為やそれまでの九州地域の領民の生活を強制的に変えさせたことにある様に考えられることである。

つまり「日本独自の既存文化への破壊行為」を通して破壊されるであろう、前述の「日本人の特性」に対して、秀吉は体制の維持が極めて困難な状況に陥る可能性があり許容出来ないと考えたであろうと推考出来るのである。

秀吉のこれらの政策は、当時の社会情勢を鑑みるに、極めて的を射ていたと言えるだろう。

この後、天下を取り、実権を握った徳川家康も江戸に幕府を開き、禁教令を出し、幕府として「鎖国政策」を打ち出すのである。

その結果300年近くの平和と、所謂「町人文化」の隆盛、後の近代化に繋がる国内の産業体制を確立させるに至るのである。この国内における繁栄の背景には高度な技術力を有した職人や、高度な流通システムを醸成させた商人など、所謂「民間の智恵」が大きな働きを有していたことを付記しておく。

そして近世末期、西洋との再会の時を迎えるのである。

その時、世界はまさに弱肉強食の「帝国主義」の時代を迎えていた。

その文脈の中で凡そ300年続けられた「鎖国政策」によってもたらされた、安定した日本社会が仇となり、幕府はその無能さを露呈することとなる。

対外交渉に慣れていない幕臣、平和の中で近代兵器の保有数を制限してきた幕府に対し、屈強な軍事力を背景に交渉を進める欧米列強には抵抗する術がなかったと言っても過言ではない。

外圧に迫られ、幕府は致し方なく開国に踏み切ったのである。

300年近く続いた「鎖国政策」の崩壊と同時に日本はその「帝国主義」という世界の荒波へと漕ぎ出さねばならなくなったのである。

こうして日本は明治維新を迎え、「近代化」への道筋を辿ることとなるのである。

その後は前述した通りであるが、「民主化」がいつ為されたかという点について、ここまでの論に於いて考えられる点は2点である。

一つは敗戦後の高度経済成長を迎える以前の連合軍統治時代か、もう一つは明治維新の際、「近代化」を促す為に欧米列強の政治システムを導入した際か、のどちらかであろう。

国家的な「民主化」という観点からならば後者であろう。

明治維新後に議会が発足し、立憲君主制という政治システムが採用され、国家の運営に民意が反映される仕組みが成立したからである。

また、現代的文脈から考えれば「民主化」とは人民が主権を握ることであり、国民主権の憲法が制定され、それが施行されて初めて為されると解釈すれば前者であると言える。

しかし、この理論はあくまで欧米の、言い換えれば「キリスト教文化圏」の観点ではないだろうか。即ち「グローバリゼーション」的理論なのではないかと疑義を覚えるのである。

振り返ってみると、最も日本が「民主的」であった時代は或いは「近世」なのではないだろうか。

鎖国時代の日本は限られた生活環境限られた物資で生活をせざるを得ない島国であって、その中で育まれた地方自治の在り方などは実に民主的である。

都市部の自治体制、農村部に於けると幕府との年貢米・供出米の交渉とその為に行われる村落の寄り合いや代表者の選任、町火消し等の自警団の組織化など、都市管理については領民達に一任されていたと考えられている。これは前述した「民間の智恵」の連続性の賜物と言えるだろう。

つまり、国家の政に関して民は口出し出来ないが、反対に民の暮らしに幕府が直接介入することは殆どなかったと考えられるのである。

斯様な生活様式は民主的と言えないのか。否、十分に民主的であろう。

それも極めて「日本的」とも言うべき、国の実情と政策が見事にかみ合ったスタイルであると言える。この様な政治体制であったからこそ、300年近くもの長きに渡り戦乱が起こらなかったのではないだろうか。

また、ヨーロッパでは複数回に及ぶ「黒死病(ペスト)」の大流行により人口の大多数を失い、壊滅の危機に瀕したこともある

しかし、日本では古代から現代に渡って大規模な「疫病」に悩まされることはなく、疫病による国家滅亡の危機などなかったのである。

それは何故か。 答えは簡単である。

日本は風土的に、また土着信仰の観点からも「清浄」を好む文化を有しているのである。

具体的に言えば、「穢れ」を忌み嫌う信仰を持つ民族であったが故に入浴する習慣があったという点である。

これはキリスト教にはない感覚である。キリスト教に於いて肉体に関心を持つと言うことは「姦淫」を意味し、罪となる。故に、裸になって自らの身体を清浄に保つための手入れにあたる行為である入浴が習慣化するはずもない。また、衛生設備が皆無であったので排泄物やゴミの類が道路や裏庭に積まれ悪臭を放ち、人間には蚤や虱が湧き不潔そのものであった。

しかし、キリスト教は霊魂の救済こそが徳行であり、肉体そのものをなるべく目から遠ざける人こそが有徳の人であった。

然ればこそ、疫病が広がるのも宜なるかなである。

しかし、悪疫や厳しい自然環境を、ヨーロッパ人は知恵を絞り「大航海時代」経て「産業革命」を達成し、自らの与えられた諸条件の中で克服していくのである。

その中でも特筆すべきは「ルネッサンス」「宗教改革」さらには「啓蒙主義」などを通じて散見される彼らの「知識欲」の対する貪欲さである。こういった文化性こそが、世界から尊敬を集めるヨーロッパたる所以であるのではないだろうか。

主に日本の「近代化」「民主化」を例にとり、対比としてヨーロッパの文化性を考えてきたが、斯様に考察を進めるとどちらもある意味では優れた文化であり、ある意味では劣っていると考えることも出来るのである。

まさに「文化」には優劣の付けようがない、と言ったところであろうか。

日本の文化や神道という民俗信仰も島国という空間的条件あってこそ、イスラム教も砂漠の中にある国であってこそ、キリスト教も然り、資本主義も民主主義も然り、諸々の空間的条件や生活に関する時間的経過によって生み出された、その環境で生き抜く術であると言い換えることも出来るのではないだろうか。

そう考えてみると、「民主化」という概念が正しいものであるかどうかは捉え方により、観点により、その空間的条件により変化するのではないか、と考えるのである。

                            つづく

前回、暫くぶりの更新に対し、多数のコメントをお寄せいただきまして有り難う御座いました。

一時は本当に「ブログが続けられるかどうか」と悩みましたが、閉鎖や休止宣言をしなくて良かったと、心から感謝致しました。

これからもマイペースですが、更新していこうと思います。

| | コメント (4) | トラックバック (3)

2007年6月25日 (月)

現代と神道 ~特別編その1~

暫くぶりの更新になってしまいました。

本当に有難いことではあるのですが、余りの忙しさに目が回るようでありました。

一時、このブログもあまりに更新が出来ない現状から閉鎖、若しくは休止宣言でもしようかとも思いましたが、少しずつでも更新しようと思いまして、思い留まっておりました。

今回は「手抜き」と思われてしまいそうですが、以前にあるところに寄稿しようと書いたのですが結局使わなかった文章です。

その時に使いたかったのですが、若干趣旨が異なってしまったため使用できなかったものです。比較的長文でありますので、3回に分けて掲載しようと思っております。

長い前置きになりましたが掲載致します。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性

キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、神道にせよ、仏教にせよ、全てが各々の土着の信仰であり、文化を形成してきたものである。

社会学者M.ウェーバーはプロテスタンティズムが資本主義社会を生み出したと言った。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)

グローバル化に対しテロなどの報復行為が是認されるべきではないが、視点を変えるとキリスト教原理の各国から観れば「テロ」であり、イスラム原理の各国から観れば「レジスタンス」と言えるのである。彼らの文化は資本主義ではないし、民主主義では有り得ない。ムスリムは「世俗化」すること自体が罪であるから、彼らの原理に添うことは万死に値するものだからである。

しかし現状に於いては「文明」という、言うなれば「普遍原理」「文化」という「変遷」を伴う同一のものではないにも拘わらず、その「変遷」に対して他者から強要が行われている。

「グローバリゼーション」という名の欧米軍事列強による「民主主義拡大政策」がそれである。仮に強要、強制の類の行為を受けたとすれば、彼らは「クルアーン」に則って「聖戦=ジハード」を起こす。しかし、それは決して「テロ」と呼ぶ類のものではなく、彼らにとっては「アイデンティティ・ウォー」に他ならないのである。

それが「ターリバーン」や「アルカイーダ」がイスラム諸国から支持を得ている最大の要因であると共に、アメリカが言うところの「文明とテロの戦争」という認識が彼らと如何に遠いところにあるかという証明とも言える。

私の立ち位置は彼らの行為を是認はしない。が、しかし、こういった戦争を招き起こしたアメリカ、それを黙認、是認した日本をも含む欧米諸国(中には反対している国もあるが)も同様に肯定することは出来ない、というものである。

それは即ち「民主主義」と「宗教」が相容れない存在なのではなく、「グローバリゼーション」の名の下に彼らの「アイデンティティ」が蹂躙されることが、彼らには我慢ならない、受け入れられないという考察からである。

仮にイスラム国家において民主化が進められるということがあるのならば、それは彼ら自身によって発議され推し進められるべきであり、アメリカの手によって行われるべき性質のものではないのである。アメリカも9.11以来この類の戦争を展開してきたが、この9.11同時多発テロ(私はこの名称を使うべきではないと考えるが便宜上使用する)も考えてみれば、中東情勢(特にパレスチナ問題)におけるアメリカの国策としてのイスラエル保護に端を発しており、2001年というキリスト教にとっては「特別な年」(ミレニアム=千年帝国の新たな建国・または復活の年)に起こっているという事実を見逃してはならない。

ユダヤ教に起源を持つ両宗教の歴史的構図と現代の「世俗化」されたキリスト教の繁栄が生んだ「驕り」が、本来優劣は存在しないハズの「文化」を、異質のものである「文明」の優劣にすり替え、「文明」の粋である軍事力を持って制した、或いは中東においてイスラエルが行っている軍事行動を容認、援助した事実は、これからも欧米人や日本人が言う「テロ」を益々頻発させるきっかけになることであると考える。

彼らの「行動」を決起させるその「元凶」を絶たない限り、つまり「グローバリゼーション」「インターナショナライゼーション」の違いが見出せない限り、この争いは無くなることはないであろうし、「民主化」が「善」で「非民主主義国家」が「悪」であるという二元論では解決出来ないであろう。

日本が「民主化」を成し遂げた経緯には、「明治維新」からその痕跡を辿ることが出来る。それは日本が当時の欧米列強に対抗する為に「近代化」を最優先課題とし、富国強兵政策を実現する為、積極的に彼らの文化、特に政治システムや軍事体系を取り入れ、日本人の精神的、肉体的改造に踏み切ったゆえである。

しかし「彼ら」にはそういった意志がない。

むしろ拒んでいるのである。

彼らからすれば、これが「強要・強制」でなくてなんなのであろうか・・・。

ここで日本の「民主化」の経緯を考察したい。

異教徒として「資本主義・民主主義」を導入し、象徴として天皇を国民の中心に据え国家の統合を図り、先の大戦へと進み、壊滅的な敗戦。しかし戦後の高度経済成長を経て、世界的な経済大国となった日本を、その先駆けとして世界的視線はどのように見ているのか。

それは極めて「前近代的」な視線である

日本人のイメージは「勤勉であり、礼儀正しく、協調性に優れている」というものが多数であろう。また逆説的にいえば「猿真似が上手い、感情を表さないので何を考えているか解らない、集団で行動するしか脳がなく個人では何も出来ない」等とも言うことが出来よう。

前述した様な日本人のイメージに見られる共通点は何か。

勿論それはかつての日本人の「生活様式」である。

「水田耕作」の文化であり、近世の「鎖国政策」に代表的に見られる「島国文化」である。

狩猟民族が稲作の普及によって定住農耕民族へと変容し、共同体中心の文化が構築された。

また、狩猟個体の絶対数に生活が左右される狩猟生活と異なり、農耕生活は比較的安定的な食糧の供給が約束された上、共同体に於いて創意工夫が成されればその成果に応じた収穫が期待できるようになる。つまり「勤勉性」の確立である。

更に農耕に於いて重要な要素として周囲との信頼・協力関係が前提とされるのである。

そこに求められるものは「協調性」であり、周囲との関係を維持する上で「礼節を重んじる」のも然るべきことであったと考えられる。

これらの特性は、おおよそ日本に稲作が伝来し、それが普及していった「弥生時代」に起源を求めることが出来る。

その後、遣隋使、遣唐使の派遣によってもたらされた「儒教」や「仏教」がこれらの特性を強化する後天的要素として広がりを見せるのも或る意味必然であったとも言える。

しかし、それらの要素が定着する為の前提として「土着」の「信仰・儀礼」があった。

現代的に言えば「神道」である。

それらの後天的要素が入ってきた時には先人は「本地垂迹説」を説き、また生活規範を強化する為の徳目として説いたのである。

つまり、あくまで日本国家は神々の支配する国であり、その国家体制の維持という政策的観点に於いてこれらを利用・活用し、日常に浸透させていったのである。

                                                  つづく

また少しずつではありますが更新して参りたいと思います。

| | コメント (7) | トラックバック (1)

2007年4月 4日 (水)

「御加護」ということ

このところ、公私ともに立て込んでおりまして更新が滞っておりました。

最近は社務、講演等に精力的に臨んでおりましたところ、体調不良に陥りましてすっかり御無沙汰してしまいました。

過日のことですが、今年も昨年同様、伊勢の方へ行って参りました。

また、今年は京都の伏見稲荷大社をお参りし、その後は新撰組の足跡を辿りながら、幕末期に所縁のある所へを観光して参りました。

京都での宿泊は「京の奥座敷」と言われる「湯ノ花温泉」の旅館にお世話になりました。

ところがここで若干のハプニング・・・。

今回の旅行に同行された総代の方が突然、風呂上がりに卒倒され、救急車騒ぎを起こしてしまいました。

その場でご本人から「数日前から体調が優れなかった」とのお話を頂き、その旨を救急隊の方に説明をし、とりあえず近隣の病院へ搬送との運びになり、私が同乗致しました。

然し乍ら、救急隊の方々も旅館からの搬送であったためか、どうやら急性アルコール中毒か、湯あたりくらいとしか捉えて居られなかったようでありました。

ところがその搬送中、その方の容態が急変し、一時は心肺停止状態になってしまったのです。

救急隊の方々が大慌てで緊急措置をされ、事無きを得ました。

そして救急車の車内は緊迫した状態で病院へと急いだのでした。

そして病院へ到着。 救急救命処置室に運ばれ、隊員の方から先生に御説明していただき、そのまま緊急入院。 そこでくだされた診断は「不整脈による突発性心臓発作」とのことでありました。

先生が仰るには「いつ心臓が止まってそのまま亡くなってしまってもおかしくない状態だった」との由。

ご本人が気付かない所で「不整脈」という爆弾のような病を抱え込まれていたのです。

そして私が宿に戻ると、皆さんがお集まりになって状況の確認にいらっしゃったのです。私が御報告申し上げると、

「まったく、お伊勢への旅行に来て倒れるなんて・・・。」

とある総代の方が仰いました。

然し、私は反対に思えて仕方ありませんでした。

お伊勢参りに来たのだからこそ、この様になったのかも知れない・・・。

皇太神宮の御祭神は言うまでもなく天照大神です。

日の大神です。

潜在的な病をお持ちだったからそれを神々しい御光で照らして下さったのではないか・・・。

だからこそ、救急車の中で思い違いをされていたであろう隊員の方々にその病状を知らせるために発作が起こった・・・。しかも結果的に事無きを得られるように・・・。

そのことがあったからこそ、病院でもスムーズな治療を受けることが出来たではないか・・・。

仮にそのまま旅を続けていたら・・・。

何も気付かずにご自宅に一人戻られて、そこで発作を起こしていたなら・・・。

現在は御家族の看病の下、ペースメーカーの埋め込み手術を受けられるそうで、手術に備え治療に専念するよう入院されていらっしゃいます。

「神の御加護」・・・・・。

その奥の深さを垣間見た・・・そんな気がした旅でした。

追伸:私もまだ、体調の方も完調ではありませんので、御報告までと云うことで更新させて頂きました。体調が整いましたら、また逐次更新して参りたいと思っております。

| | コメント (2) | トラックバック (12)

2007年2月11日 (日)

現代と神道 ~紀元節~

皇紀2667年おめでとう御座います。

本日、建国記念日(紀元節)の良き日を皆様と共にお迎えできましたことは誠に慶賀の極み、心よりお慶び申し上げます。

拙ブログに於いて、これまで幾度か「現代と神道」ということでエントリを書いて参りましたが、今回は「紀元節」、現在で言うところの「建国記念日」とはいったい何なのか、ということについて考えて参りたいと思います。

一言で「紀元節」について申し上げるならば、初代天皇であらせられる「神武天皇」が天皇に即位され、国を開いたとされる、その日であります。

つまり、今日のこの日は「神武元年の正月」にあたり、神武天皇の即位礼が行われたその日である、ということなのです。

そして神武四年の秋に行われた「鳥見山霊畤」「大嘗祭」にあたり、『日本書紀(神武紀)』には

『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天より降鑑(くだりみそな)はして、朕が躬を光助(てらした)すけたまへり。今諸の虜(あだども)既に平ぎ、海内無事(あめのしたしづか)なり。天神を郊祀(まつ)りて、用(もち)て大孝(おやにしたがふこと)を申べたまふべきなり。乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山に立つ。・・・略・・・用て皇祖天神を祭りたまふ。』

とあります。これは天孫降臨から始まったこの地上世界の統治がやっと形を成し、自らの御東征によって一頻り完了したことを、御祖先に対してご報告成されている様を表されていると思われます。

つまり、125代の今上陛下まで続く「御大礼(即位礼、大嘗祭)」の御代始めは、この『神武創業』に立ち帰る所作の現れであり、「皇祖皇宗の遺訓」即ち天照大神から神武天皇を通じて残された教えを国家経営の基本として受け継ぐための儀礼であり、祖先祀りの原型であると考えられます。

そしてこの「紀元節」「報本反始」即ち「神武創業」のその日に立ち帰る、日本人にとって大変意味のある重要な日であるのです。

ここで考えたいのは、「神武創業」はどのような物語であったか、ということであります。

以前にもこのシリーズで何度か『古事記』について取り上げたことがありましたが、やはりこの物語のルーツを求めるにあたって『古事記』が非常に重要な書物であるといえます。

その『古事記』について、平成10年に行われた国際児童図書評議会世界大会に於いて皇后陛下の御講演があり、その中に次のような御言葉があります。少し長いですが、抜粋しながら引用させていただきます。

・・・前略・・・

『私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語(注:古事記)を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は正確な史実ではないかも知れませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。』

・・・中略・・・

『この本(注:古事記)は、日本の物語の原型とも言うべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみを持つ上で、これは大層楽しい入り口ではないかと思っています。』

・・・中略・・・

『それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。』

・・・後略・・・

恥ずかしながら、私も常々「日本は『古事記』の国」と講演をする時などに申し上げるのですが、皇后陛下のこの御講演の御言葉からの受け売りであります。

「建国記念日」「紀元節」を考える時に、恐らく多くの人々は、なくてはならないはずの『民族の起源伝承』がスッポリと抜け落ちているのではないでしょうか・・・。

悲しいことに、現在この国で多くの場面で使われる暦は「西暦」即ち「キリスト教暦」なのであります。

が、しかし、日本は「聖書の国」ではありません。「古事記の国」であるはずなのです。

この「紀元節」に改めて、先人の残した教え・・・日本古来の在り方とその伝承が如何にして受け継がれているのか、我々日本人は考えねばならないと思うのです。

フィンランドの子供達は『カレワラ』を読んで育つ・・・ならば日本の子供達は『古事記』を読んで、もっと日本の神話に親しみを持ち、理解を深めることで自分たちの淵源を知ることで、自分達の生まれたこの国に愛着を持ち、そしてまた祖先祀りの大切さを知ることが出来るのではないでしょうか。

天皇陛下の御代始めの如く、自らの生に感謝し、自らを育んでくれたこの郷土に感謝する。そして、今のこの恵まれた時代を築いてくれた祖先に対しても自然と感謝の念を抱くことが出来るのではないでしょうか・・・。

そして、そんな未来を築くことが出来るのは、今の我々ではないでしょうか・・・・・・。

この「紀元節」に気分を一新して、

さぁ!皆さん!『古事記』を読んで、自分達のルーツを見つめてみませんか!!!

| | コメント (8) | トラックバック (10)

«新年を迎えるにあたり(1月分会報より)