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2005年12月25日 (日)

季節労働者・・・

最近、更新が全く出来ません・・・。

神主という職業は本当に季節労働者のようなものなんですよね・・・。

正月、お盆、お彼岸、七五三、・・・・・・・etc そんな中でも特に正月は忙しいのです・・・。(言い訳です。・・・汗)

拙ブログを訪問して頂き、たくさんのTBやコメントを頂戴しておきながら、レスポンスが遅れまして大変ご迷惑をおかけしております・・・。(反省)

暫くは少しずつ更新と返信をして参りたいと思いますのでどうか御容赦頂きたいと思います。申し訳ありませんでした。(更に反省)

気になった事があったら書くかもしれませんが、年内の更新は恐らくこれが最後になると思います。

皆様、今年一年、有難う御座いました。

また来年も宜しくお願いいたします。

良いお年を!!

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2005年12月15日 (木)

歳の瀬を迎えて・・・

最近、体を壊したり、もの凄く仕事が忙しかったりと気分が落ちることがよくありました。

そこで私の尊敬する先生に手紙を書き、お返事を頂きました。

ずーっと更新も儘ならないような状態だったのですが、先生から頂いたお手紙を読み、「時間を作って更新せねば」と思い立ち、やっと更新するだけの時間を作りました。

ある意味、神職というのは季節労働者のようなもので「盆、暮、正月」はとにかく忙しいのです・・・。(言い訳です)(汗)

今回は先生から頂いたお返事に素晴らしいお言葉がたくさんあったので一部ご紹介したいと思います。長文になりますがお時間がありましたら是非一読頂ければと思います。

歳の瀬を迎えて

「暮れは一日の終わりにもあり、月末にもある。歳の暮れは其の年の終わり師走である。平素、心構えを持ち、自己自身の締めくくりのあるものは、この慌しい師走になっても平然としていられるものだ。暮れが来ようが大晦日になろうが少しも慌てる必要は無い。寧ろ本年の成果に喜び一杯、感謝感激で軈(やがて)来る新年を嬉喜としてお迎えする心構えが出来ている。実に安らぎの心で居られるものだ。それは本年の得業が見事成就されているからである。師走とは仕果(しわす:仕事を果たすの意)なのだ。」

  ~~中略~~

「そして御奉仕歉念(ごほうしかんねん)の一念が、まさに至誠天に通ずるのである。

という字は(クサクサ)とした気持ちで(にちにち)を過ごして来たか、それに大きなを通って来たかが(くらし)である。光陰矢のごとしと云うが、暮も急に足下から出てきたり、不意に沸いて出たものではあるまい。自然は今年初めの元旦から同じ時間を経て、忙(せ)かず、急がず、弛まず、止(病)まず、春から夏へ、、秋を過ぎ、順序を更(か)えず、日と月を流して冬に至ったのである。人智を越えて、学問智慧と何等関係なく昼と夜は廻り、春夏秋冬は狂いなく巡(まわ)って来る。

大自然、即ち、カミの支配する天地宇宙の運行(はたらき)の流れは、大昔から現在に至るまで、一度も歪(くる)った事は無い。大晦日が来なかった歳は歴史が始まってから今まで一度もない。太陽、ヒノカミは急かず、忙がず、慌てもしない。今日も陽々(ようよう)として暢々(のびのび)と、人類を始め万物育成の運行に余念がない。大自然の運行には行き詰まりがない。この恵み豊かなる現世に生かされる、小自然たる人間、カミノコに行き詰まりが在るは不自然なことである。平素、神の子である尊い己の本心を自覚して居らぬからであり、自尊を弁えぬからである。大自然、カミの母体に住みながら神を知らない、恰も目的も持たないで人生を迷いつつ漫歩しているからである。

然れど待ちなさい。十二月、この月は反省月となさい。茲(ここ)において大きく目覚めなさい。自我を捨てる事だ。現状で落ち込んでいるのは己のことのみを愛し、他を愛することが出来ないからである。私達人間は自分一人で、自分だけの為に生きて居るのではない。自我を捨て、人の立場になればなるほど、他人との和の度合いが強まり、人生は喜びに満ちた、生き生きとしたものになることを確信するものである。所謂『合掌の心』であり、それは拝み合い心から始まる。感謝の心であり、有難うと云う心であり、神の御心を我が心として、其の心を現世に生かすことである。

大宇宙の運行は、太陽の周りを一周り、地球が三六五回廻りきった時、鳴り響く除夜の鐘の音を聴くのである。然れど除夜の鐘が鳴ったからとて、『どれどれここらで一服』などと大自然は言わない。太陽も動いて止まづ、一秒の休みもなく、あまりにも勿体無い、有難い極みである。だが、この世の多くの人はあまりにも大なるためか、大自然の恵み、其の有難さに気が付かず、また知って居っても何時の間にやら忘恩し、自分で生れ、自分で生活(くらし)を営んでいるように錯覚を起こす。これが先ず根本の間違いである。

・・・人間の本質は極めて善なるものと謂う・・・然るに今世では『人は自分さえよければ良い』というような・・・この理想は何処から何時頃から出てきたのだろうか・・・。私の記憶では終戦前はごく僅かな人しか持ち得なかった思想のように思う・・・。自分さえよければ、親であろうが兄弟であろうが、師匠であろうが、良人(おっと)であろうが妻であろうと、義理も人情も恩義も務めも蹴飛ばしてしまう。これが人間の為せる道であろうか。

今の世に云わせると『やり方はどうでもいいから破壊するのだ。破壊しなけりゃ建設できない』などと云い有無を言わさず・・・。それでいて建設する方法や話の進め方なども知らない・・・。更には永年先輩たちが苦心して築き上げたものを蔑ろにし、捨ててしまう・・・。未法の、無法の世の中である。それでも自分に力がある間は良い。だが一線を退き、自分が育てた芽が育ってみたら自分とそっくりの先輩や先達の言う事を聞かぬものたちに対して、なんと思うのであろう。『そんな世の中に誰がした』とでも言うのだろうか。

何時だったか、親しい人に聞いた話であるが親の生前中は親にペコペコして財産を分けて貰ったら、親の葬式にさえ顔を出さない・・・人間の道を踏み外し違えている。学問だけでは解決できない問題だと思える。また親を邪魔にして、無理に病気でない病人にして病院に追いやる夫婦もあるとか・・・。西洋の思想にかぶれるのも結構であろうが、先ず人間の道、人間は何の為に生れて来たのかとくと考えてみたら良いと思う。犬や猫さえ、ちゃんと恩義を感じ使命を弁えている。物を壊したり、人を蹴落としたり、殺したりするのが人間の使命では在るまい・・・。太陽に古い新しいはない。人の道にも古い新しいはない。貴兄には真の哲理を究明、求道し、人間の使命で良い事のみを実践して貰いたい。

私などの教育を受けた時代は先生に真に親しみ、礼を尽くしたものである。皇室も然り。『三尺下がって師の影踏まず』とか天皇の徒歩の時は皇后は後方三尺の間をおいて御歩みなされた。また先生も然り。教職とは尊いものとし、己の人格を養い高め、子供は先生を慕い、先生は子供を愛した。ところが今の大学では企業化されて、先生は学問を切り売りし、高校や中学では卒業式に教えた子供に先生が袋叩きにあったり、放り出されたりしている。街には男だか女だか解らない者が氾濫している。世の中がもの凄い速さで変わっている。世は全(まさ)にコンピューター時代。宇宙の解明に科学陣が立ち向かっている。近々、月旅行、宇宙旅行も一般の人達に可能だと云う。然し私達は、人間が人間である事に変わりはないと思う。桜は桜で、梅は梅である。どんなに世の中が変わっても、梅の木に自然と桜の花が咲くことは在るまい。太陽は飽きることなく、東から昇って西に没し、春夏秋冬の順序も歪(くる)っては来ない・・・。

人は世の中の変化の早さについつい「焦り」がちになる。が、木の年輪でさえ一年一年、一輪ずつ大きくなるのだから、一歩一歩自分を見つめて歩いて遅くはない。如何に世の中が変わっても、自然の法則、宇宙の真理は変わらないのである。亦、人間が人間である限りは人の道も変わるものではない。正しく人の道を踏み行う人は必ず大自然、神の摂理に適うであろう。人は幸福を願わない者は居ないし、災難を喜ぶ者は居ないのである。幸福は感謝の心から生れる。私達人間は、喜びと感謝に満ちた充実した真実のある一日を生きていたい。病は神様からのお手紙。人間とかく重い病気にかかると、『もうこの世に神も仏もあるものか』と神や仏に恨み言を言いたくなるが、然し病気の中で人を怨まず神を怨まず、良かれ悪しかれ自行自受と反省する事が肝腎である。

そう、何も悪いことをした覚えがない・・・。だがこんな重い病で苦しまねばならぬのは、私が知らぬ処で、私が或いは悪いことをしたのかも知れない・・・。若し、そうであるならば・・・。

知って犯す罪よりも知らぬ処で犯している罪の恐ろしさに目覚める。生死の境を本当に身を浮きつ沈みつしながら掻い潜った時にこうして健康で居られる事がどんなに有難いかを知り得るのである。

『過ぎし世の いかなる罪の むくいぞや 合わす掌もなき われぞかなしき』

手が二本とも無い、足も二本とも無い、達磨の様な人生を送った、中村久子さんの歌である。現在の営みは必ず次の世の中に生れてくる。故に現在が在る事は未来が在るのであり、同時に過去が在ると云うことである。

『如何なる罪の報いぞや』

私は過去にどんなことをしたのだろうか、余程悪い事でもしたのでなかったら、今生この世にこんな不自由な姿で生れてくる事はなかった、と思った。・・・けれども受けがたき人身(ひとのみ)を今、私はこうして戴いているのだ。人身を持って生れてくる事の出来ない、多くの命のことを思ったら、両手両足の無い位なんですか。この世の空気を吸わせて貰っただけででも私は幸せなのだ・・・。然し、喜んではいるのですが、有難い、感謝したいと掌を合わせて拝みたいと思ってても

『合わす掌もなき われぞ悲しき』

という気持ちを訴えておいでなのである・・・。

中村さんは合わす手はなかった。けれども『合わす心をいただいて居られた』

この処にあのお方一代の幸せ、喜びが在ったと信ずる。私達は合わそうと思ったら、いつでも合わすことの出来る掌がある。合わすことが当たり前であり過ぎて反って合わす心を失ってしまっている。其処に私達の大きな不幸、悲劇があるのではないかと思える。本来、人は神の分身なるが故、駄目な人間はこの世に一人も居ない筈である。「資本が無い」「若い」「学問が無い」から駄目な人間であるとは決められない。駄目な人間とは、行う以前に「俺は出来ない」「俺は駄目だ」と自分で決め付けていてやろうとしないだけのものである。

「やれば出来る」

この信念を持つことである。苦を越え、焦りを押えて一つの事を成し遂げた時の歓喜、自己が自己に克つ体得が大きく人の一生を支配し、最終の美を飾れるのである。反省は過去の失敗や過ちに心を腐らせ胸を痛めつけることでなく、失敗や過ちを自心の養いとすべきである。人生色々、長かりし今年一年、短かりし今年一年、色々の事に出合いし今年一年、残り少ない日は後幾日か。

不況の風は吹いている。『正月どころの沙汰でない』とふてくさる人も在るに違いない。それは不徳を悟り、欠乏している徳分を造る以外道は無い。古人は『積善の家に余慶あり』と教えている。世の中が真暗闇見えるのは、即ち己の心が暗い行為に過ぎない。人は心掛け次第で如何にも立派に成れるものである。慌しい師走の中にも安らぎの座がある。それは一年を通じ感謝篤き人の平然として居られる処の心である。この静かなる心こそ、真の尊い本性を自覚した人である。

 ~~後略~~

この先生は、神職の大先輩であります。それ故、若干、宗教的な色合いが強いかもしれませんがその辺りはどうかご容赦賜りたいと思います。

感謝の心。私も全ての幸福に通ずると信じます。

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2005年12月 3日 (土)

公衆道徳というバランス感覚

最近、街を歩いていたり、車で移動をしていると良く思うことがあるのです。

信号機は完全に赤なのにゆっくりと、そして堂々と交差点を通過する歩行者や自転車の方々。主に高校生ぐらいの若者が多いのですが、それと同じくらい多いのが50代から70代くらいの高齢の方。

うーん・・・・・。

モラルというか常識というか、人に対する認識の不足というか・・・・・。

単純に、「自分がされて厭なことは誰だって厭」だと思うのですが・・・・・。

年端のいかない子供達ならともかく、大の大人、いい年したおっちゃんやおばちゃん、子供連れの主婦の方などなど・・・・・。

道路の歩き方、自転車の乗り方、そしてその他諸々の所謂、「公衆道徳」といった感覚が忘れ去られているように感じているのです・・・。

恐らく、こういう歩行者や自転車の方は「だって、交通弱者の保護の法則があるんだから車の方が気をつければいいでしょ」などと思っておられるのでしょう・・・。

先日、私の住む町の小学校で、ある生徒が給食の時間に「いただきます」を言わなかったことを教師が注意し、その生徒が帰宅した後、両親にその旨を伝えたそうです。

すると、両親が学校へ出向き、その注意した教師に向かって「家は一度だって給食費を滞納したことは無い!!払うものをきちんと払っているのだから『いただきます』なんて言わせるのを強要しないでもらいたい!!!」と仰ったのだそうです・・・。

またある日、電車に乗ると車内の床に「ベタッ」と座り込んでいる高校生の3人組がいました。それを発見し、私が「そんな所に座ってると皆さんの邪魔だ!」と一言言うと「チッ」などと舌打ちをし、「なんだぁ」とぶつぶつ文句を言いながらも車内の方々の視線のプレッシャーに負けたのか、次の駅でバツが悪そうに降りていきました。すると隣に立っておられた50~60代くらいの中年の男性が「全く、今時の連中はなっちゃいないな・・・ブツブツ」と小声で仰っていました。

しかしその時、その男性のポケットから携帯の着信音が・・・。そして「マナーモード」にしていない事を悪びれる様子も無く、大きな声で「もしもし?あっ、今?電車。大丈夫、大丈夫。」・・・・・。

半分呆れながらも「車内での通話は皆さんに迷惑ですよ」と注意するとチラッとこちらを見た後は完全無視!!そのまま通話を続けられておられました・・・。少し腹が立ったので「『人のフリ見て我がフリ直せ』と言いますよ」と言ってしまいました。結局最後まで通話を続け、電話を切った後に私に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で「最近の若いのは目上に対する礼儀も知らんのか・・・・・」と一言。私は呆れてものも言えませんでした・・・。

そして最近のニュースでは「子供に引ったくりをさせる母親」や「母親に毒物を飲ませ観察する女子高生」や「通りすがりの幼児を殺す大人」など、今までの感覚ではありえなかったであろう犯罪が多発しています。

例えば「BSE問題」や「耐震建築計算書偽造問題」などもそういった、「自分が食べる、住む訳ではないからまぁいいか。」というような利己的な感覚から生じたものと言えるのでしょう。

そして現在の自民党の執行部のように、これまで党に対し大きく貢献されて来られた方々を「処分」と称し力を削ぎ、或いは失脚させる様な政治家の在り方がまかり通り、更にライブドアや楽天、村上ファンドのような法的に正論であっても、人道的に決して褒められない様なものの進め方が横行する世の中で、そういった事件や出来事が起こることは必然なのかもしれません・・・・・。

「法律で守られているんだから我々は保護されて当たり前。悪いのは自分よりも大きな車の方だ」

「金さえ払えばそれでいい」  「若いのはなってない」

「拝金主義」や「勝ち組絶対主義」、そして「行き過ぎた個性の尊重」

それらが「新自由主義」の目指すべき姿であるならば、誰にとっても住みにくい、暮らしにくい時代の到来なのかもしれません・・・・・・・。

誰もが自分が大事で、自分がかわいいのは当たり前。

しかし、それは全ての人が同じことです。

皆が皆、同じように自分が大事で自分がかわいいのです。自分だけではないのです。

だから人間には「思いやり」だとか「尊敬の念」が必要なのだと思うのです。

全ての物事に、全ての人達に「感謝の念」を持って「敬意」を払い、「思いやり」を持って接すること。  

そういう人として当たり前の「公衆道徳という、人と人とが付き合う上で、ルールとも言うべきバランス感覚」が不足してはいけないと思う、今日この頃です・・・・・・・・・。

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