歳の瀬を迎えて・・・
最近、体を壊したり、もの凄く仕事が忙しかったりと気分が落ちることがよくありました。
そこで私の尊敬する先生に手紙を書き、お返事を頂きました。
ずーっと更新も儘ならないような状態だったのですが、先生から頂いたお手紙を読み、「時間を作って更新せねば」と思い立ち、やっと更新するだけの時間を作りました。
ある意味、神職というのは季節労働者のようなもので「盆、暮、正月」はとにかく忙しいのです・・・。(言い訳です)(汗)
今回は先生から頂いたお返事に素晴らしいお言葉がたくさんあったので一部ご紹介したいと思います。長文になりますがお時間がありましたら是非一読頂ければと思います。
歳の瀬を迎えて
「暮れは一日の終わりにもあり、月末にもある。歳の暮れは其の年の終わり師走である。平素、心構えを持ち、自己自身の締めくくりのあるものは、この慌しい師走になっても平然としていられるものだ。暮れが来ようが大晦日になろうが少しも慌てる必要は無い。寧ろ本年の成果に喜び一杯、感謝感激で軈(やがて)来る新年を嬉喜としてお迎えする心構えが出来ている。実に安らぎの心で居られるものだ。それは本年の得業が見事成就されているからである。師走とは仕果(しわす:仕事を果たすの意)なのだ。」
~~中略~~
「そして御奉仕歉念(ごほうしかんねん)の一念が、まさに至誠天に通ずるのである。
暮という字は艸(クサクサ)とした気持ちで日(にちにち)を過ごして来たか、それに大きな心で日を通って来たかが暮(くらし)である。光陰矢のごとしと云うが、暮も急に足下から出てきたり、不意に沸いて出たものではあるまい。自然は今年初めの元旦から同じ時間を経て、忙(せ)かず、急がず、弛まず、止(病)まず、春から夏へ、、秋を過ぎ、順序を更(か)えず、日と月を流して冬に至ったのである。人智を越えて、学問智慧と何等関係なく昼と夜は廻り、春夏秋冬は狂いなく巡(まわ)って来る。
大自然、即ち、カミの支配する天地宇宙の運行(はたらき)の流れは、大昔から現在に至るまで、一度も歪(くる)った事は無い。大晦日が来なかった歳は歴史が始まってから今まで一度もない。太陽、ヒノカミは急かず、忙がず、慌てもしない。今日も陽々(ようよう)として暢々(のびのび)と、人類を始め万物育成の運行に余念がない。大自然の運行には行き詰まりがない。この恵み豊かなる現世に生かされる、小自然たる人間、カミノコに行き詰まりが在るは不自然なことである。平素、神の子である尊い己の本心を自覚して居らぬからであり、自尊を弁えぬからである。大自然、カミの母体に住みながら神を知らない、恰も目的も持たないで人生を迷いつつ漫歩しているからである。
然れど待ちなさい。十二月、この月は反省月となさい。茲(ここ)において大きく目覚めなさい。自我を捨てる事だ。現状で落ち込んでいるのは己のことのみを愛し、他を愛することが出来ないからである。私達人間は自分一人で、自分だけの為に生きて居るのではない。自我を捨て、人の立場になればなるほど、他人との和の度合いが強まり、人生は喜びに満ちた、生き生きとしたものになることを確信するものである。所謂『合掌の心』であり、それは拝み合い心から始まる。感謝の心であり、有難うと云う心であり、神の御心を我が心として、其の心を現世に生かすことである。
大宇宙の運行は、太陽の周りを一周り、地球が三六五回廻りきった時、鳴り響く除夜の鐘の音を聴くのである。然れど除夜の鐘が鳴ったからとて、『どれどれここらで一服』などと大自然は言わない。太陽も動いて止まづ、一秒の休みもなく、あまりにも勿体無い、有難い極みである。だが、この世の多くの人はあまりにも大なるためか、大自然の恵み、其の有難さに気が付かず、また知って居っても何時の間にやら忘恩し、自分で生れ、自分で生活(くらし)を営んでいるように錯覚を起こす。これが先ず根本の間違いである。
・・・人間の本質は極めて善なるものと謂う・・・然るに今世では『人は自分さえよければ良い』というような・・・この理想は何処から何時頃から出てきたのだろうか・・・。私の記憶では終戦前はごく僅かな人しか持ち得なかった思想のように思う・・・。自分さえよければ、親であろうが兄弟であろうが、師匠であろうが、良人(おっと)であろうが妻であろうと、義理も人情も恩義も務めも蹴飛ばしてしまう。これが人間の為せる道であろうか。
今の世に云わせると『やり方はどうでもいいから破壊するのだ。破壊しなけりゃ建設できない』などと云い有無を言わさず・・・。それでいて建設する方法や話の進め方なども知らない・・・。更には永年先輩たちが苦心して築き上げたものを蔑ろにし、捨ててしまう・・・。未法の、無法の世の中である。それでも自分に力がある間は良い。だが一線を退き、自分が育てた芽が育ってみたら自分とそっくりの先輩や先達の言う事を聞かぬものたちに対して、なんと思うのであろう。『そんな世の中に誰がした』とでも言うのだろうか。
何時だったか、親しい人に聞いた話であるが親の生前中は親にペコペコして財産を分けて貰ったら、親の葬式にさえ顔を出さない・・・人間の道を踏み外し違えている。学問だけでは解決できない問題だと思える。また親を邪魔にして、無理に病気でない病人にして病院に追いやる夫婦もあるとか・・・。西洋の思想にかぶれるのも結構であろうが、先ず人間の道、人間は何の為に生れて来たのかとくと考えてみたら良いと思う。犬や猫さえ、ちゃんと恩義を感じ使命を弁えている。物を壊したり、人を蹴落としたり、殺したりするのが人間の使命では在るまい・・・。太陽に古い新しいはない。人の道にも古い新しいはない。貴兄には真の哲理を究明、求道し、人間の使命で良い事のみを実践して貰いたい。
私などの教育を受けた時代は先生に真に親しみ、礼を尽くしたものである。皇室も然り。『三尺下がって師の影踏まず』とか天皇の徒歩の時は皇后は後方三尺の間をおいて御歩みなされた。また先生も然り。教職とは尊いものとし、己の人格を養い高め、子供は先生を慕い、先生は子供を愛した。ところが今の大学では企業化されて、先生は学問を切り売りし、高校や中学では卒業式に教えた子供に先生が袋叩きにあったり、放り出されたりしている。街には男だか女だか解らない者が氾濫している。世の中がもの凄い速さで変わっている。世は全(まさ)にコンピューター時代。宇宙の解明に科学陣が立ち向かっている。近々、月旅行、宇宙旅行も一般の人達に可能だと云う。然し私達は、人間が人間である事に変わりはないと思う。桜は桜で、梅は梅である。どんなに世の中が変わっても、梅の木に自然と桜の花が咲くことは在るまい。太陽は飽きることなく、東から昇って西に没し、春夏秋冬の順序も歪(くる)っては来ない・・・。
人は世の中の変化の早さについつい「焦り」がちになる。が、木の年輪でさえ一年一年、一輪ずつ大きくなるのだから、一歩一歩自分を見つめて歩いて遅くはない。如何に世の中が変わっても、自然の法則、宇宙の真理は変わらないのである。亦、人間が人間である限りは人の道も変わるものではない。正しく人の道を踏み行う人は必ず大自然、神の摂理に適うであろう。人は幸福を願わない者は居ないし、災難を喜ぶ者は居ないのである。幸福は感謝の心から生れる。私達人間は、喜びと感謝に満ちた充実した真実のある一日を生きていたい。病は神様からのお手紙。人間とかく重い病気にかかると、『もうこの世に神も仏もあるものか』と神や仏に恨み言を言いたくなるが、然し病気の中で人を怨まず神を怨まず、良かれ悪しかれ自行自受と反省する事が肝腎である。
そう、何も悪いことをした覚えがない・・・。だがこんな重い病で苦しまねばならぬのは、私が知らぬ処で、私が或いは悪いことをしたのかも知れない・・・。若し、そうであるならば・・・。
知って犯す罪よりも知らぬ処で犯している罪の恐ろしさに目覚める。生死の境を本当に身を浮きつ沈みつしながら掻い潜った時にこうして健康で居られる事がどんなに有難いかを知り得るのである。
『過ぎし世の いかなる罪の むくいぞや 合わす掌もなき われぞかなしき』
手が二本とも無い、足も二本とも無い、達磨の様な人生を送った、中村久子さんの歌である。現在の営みは必ず次の世の中に生れてくる。故に現在が在る事は未来が在るのであり、同時に過去が在ると云うことである。
『如何なる罪の報いぞや』
私は過去にどんなことをしたのだろうか、余程悪い事でもしたのでなかったら、今生この世にこんな不自由な姿で生れてくる事はなかった、と思った。・・・けれども受けがたき人身(ひとのみ)を今、私はこうして戴いているのだ。人身を持って生れてくる事の出来ない、多くの命のことを思ったら、両手両足の無い位なんですか。この世の空気を吸わせて貰っただけででも私は幸せなのだ・・・。然し、喜んではいるのですが、有難い、感謝したいと掌を合わせて拝みたいと思ってても
『合わす掌もなき われぞ悲しき』
という気持ちを訴えておいでなのである・・・。
中村さんは合わす手はなかった。けれども『合わす心をいただいて居られた』
この処にあのお方一代の幸せ、喜びが在ったと信ずる。私達は合わそうと思ったら、いつでも合わすことの出来る掌がある。合わすことが当たり前であり過ぎて反って合わす心を失ってしまっている。其処に私達の大きな不幸、悲劇があるのではないかと思える。本来、人は神の分身なるが故、駄目な人間はこの世に一人も居ない筈である。「資本が無い」「若い」「学問が無い」から駄目な人間であるとは決められない。駄目な人間とは、行う以前に「俺は出来ない」「俺は駄目だ」と自分で決め付けていてやろうとしないだけのものである。
「やれば出来る」
この信念を持つことである。苦を越え、焦りを押えて一つの事を成し遂げた時の歓喜、自己が自己に克つ体得が大きく人の一生を支配し、最終の美を飾れるのである。反省は過去の失敗や過ちに心を腐らせ胸を痛めつけることでなく、失敗や過ちを自心の養いとすべきである。人生色々、長かりし今年一年、短かりし今年一年、色々の事に出合いし今年一年、残り少ない日は後幾日か。
不況の風は吹いている。『正月どころの沙汰でない』とふてくさる人も在るに違いない。それは不徳を悟り、欠乏している徳分を造る以外道は無い。古人は『積善の家に余慶あり』と教えている。世の中が真暗闇見えるのは、即ち己の心が暗い行為に過ぎない。人は心掛け次第で如何にも立派に成れるものである。慌しい師走の中にも安らぎの座がある。それは一年を通じ感謝篤き人の平然として居られる処の心である。この静かなる心こそ、真の尊い本性を自覚した人である。
~~後略~~
この先生は、神職の大先輩であります。それ故、若干、宗教的な色合いが強いかもしれませんがその辺りはどうかご容赦賜りたいと思います。
感謝の心。私も全ての幸福に通ずると信じます。
| 固定リンク
この記事へのコメントは終了しました。
コメント
いざりうおさん、こんばんは。
コメント&TB有難うございます。
リンク先拝見させて頂きました。
興味深い記事でしたのでそちらの方にコメントさせて頂きます。
有難うございました。
投稿: 管理人 | 2005年12月23日 (金) 22時25分
おこがましくも日本人の宗教心についてエントリーしましたのでトラックバックさせていただきました。
ご高覧いただければ幸いです。
投稿: いざりうお | 2005年12月21日 (水) 12時05分
非国際人さん、こんばんは。
コメント有難うございます。
>一歩一歩、自分を見失わず、正しく人の道を歩んでいかなければなりません。師走でせわしないこの時期だからこそ、肝に銘じて行きたいですね。
私もしっかりと心に留めて行きたいと思っております。
わざわざお読みいただき有難うございました。
今後とも宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2005年12月20日 (火) 22時25分
こんにちは。トラックバックいただきましてありがとうございます。
読ませていただきました。堂々とした素晴らしい文章ですね。これだけの長さ(しかも一部)でありながら全然よどみがありません。大変に書きなれた方、そして思索をめぐらせることに慣れていらっしゃる方ですね。私など大したこともしていないのに毎日忙しい振りして生きておりますが、本当に恥ずかしくなってまいります。
ここに書かれております通り、一歩一歩、自分を見失わず、正しく人の道を歩んでいかなければなりません。師走でせわしないこの時期だからこそ、肝に銘じて行きたいですね。
素晴らしい内容のお手紙をご紹介いただきまして、大変ありがとうございました。
投稿: 非国際人 | 2005年12月20日 (火) 10時34分
いざりうおさん、こんばんは。
わざわざ有難うございました。
TBの調子が悪かったようで申し訳ありません。
以前も同様のことがありまして重ね重ね申し訳ありませんでした。前回の時にniftyに問い合わせた所、「混み合っているので不都合が生じました」との事でした。どうも週末はあまり芳しくないようです・・・。お手数をおかけいたしました。
それといつも貴重な情報を有難うございます。
吉田松陰のエントリーは全く同感です。
ドイツの裁判の件もいざりうおさん同様、危機感を募らせております・・・。
また勉強させていただきます。
有難うございました。
投稿: 管理人 | 2005年12月18日 (日) 23時30分
ドイツが暴走を始めた
ドイツ連邦最高裁判所は現地時間12日、世界中いかなる国から発信するIT情報といえどドイツ国内からアクセス可能である限り、いかなる地域に住んでいる外国人に対してもドイツの法律が適用されるという判断を示しオーストラリア在住のホロコースト否定論者に有罪判決を下した。(要旨)
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20001218205.html
http://hotwired.goo.ne.jp/news/culture/story/20001219207.html
日本だけかと思っていたら、ドイツにも馬鹿な裁判官が居るものだ。
この判決は自分たちが嫌悪するナチスドイツが行ったことと傲慢さそっくりそのまま。
精神構造遺伝子はしっかりと受け継いでいるということか。
この論理で行けば、放送局も、携帯電話も、挙句の果ては手紙でさえも適用可能となってしまう。
アメリカも国家反逆罪など適用可能な法律があればイラク戦争を合法化できることとなる。
投稿: いざりうお | 2005年12月18日 (日) 18時38分
新しいエントリーをトラックバックさせていただこうと試みましたが何故か駄目でしたので、コメントで紹介させて頂きます。
エントリー名「吉田松陰いでよ!」
(http://izariuo.blog32.fc2.com/blog-entry-31.html#comment)
投稿: いざりうお | 2005年12月18日 (日) 03時57分
喜八さん、こんばんは。
コメントの補足をわざわざ有難うございます。
いやいや、喜八さんのご指摘によってだけではなく、私自身、今回のエントリに関しては「つめ過ぎたかな?」という印象を持っておりましたので、「うーん、やっぱりか」という先入観でレスしてしまいました・・・。お手数をおかけして申し訳ありません。
わざわざ有難うございました。
投稿: 管理人 | 2005年12月16日 (金) 23時14分
田舎の神主さん、こんばんは。
> 読みにくくて申し訳ありません・・・。(汗)
> もう少し文章のレイアウトを考えて書くようにします・・・。(反省)
いえいえ、とんでもありません(汗)。
私の言葉がたりなかったようです。
大変に失礼しました。m(__)m
どうやってもコンピュータの画面では長文は読みにくいのです。
それで私はしばしば印刷して読むことにしています。
気を入れて読もうというときは「必ず」プリントアウトすることにしています。
じつはブログやホームページの記事を書くときも最低1回は印刷して読み直すことにしています。
つまり、これは私のクセなのです。
田舎の神主さんのブログ記事が読みにくい、ということは「まったく」ありません。
誤解を招くような書き方をしてしまい、大変に失礼しました!
投稿: 喜八 | 2005年12月16日 (金) 21時58分
いちろうさん、こんばんは。
コメント有難うございます。
私も神道を学んで居りますと、その奥の深さに迷い込むことも多くあります。それはこの手紙の先生が以前「歴史と人の懐の深さの分だけ道があり、深みがあるのです」と仰られていました。
人類史など地球の歴史から考えれば「ほんの一瞬」なのかもしれません。
だからこそ、おおらかに緩やかに、されど弛まず、日々を過ごして行くのが大切なのだと思います。
と言いながら私も反省することが多いのですが・・・。(汗)
投稿: 管理人 | 2005年12月16日 (金) 20時56分
喜八さん、こんばんは。
コメント有難うございます。
先生から頂いた御手紙は実際はもっと長いのですが、かなりプライベートな部分にも教えを頂いたので残念ですが、ご紹介できないのです・・・。いつでも、誰に対しても真摯にお答えくださる、本当に素晴らしい方です。同じ神職として、そして人として日々、教えを請うて居ります。
>PCの画面だと長文は読みにくいのでプリントアウトして熟読することにします。
読みにくくて申し訳ありません・・・。(汗)
もう少し文章のレイアウトを考えて書くようにします・・・。(反省)
投稿: 管理人 | 2005年12月16日 (金) 20時43分
mergeさん、こんばんは。
コメント&TB有難うございます。
>強いて云えば、日本人ですから日本の神々にすがるのが自然だと感じているぐらいでしょうか。ですから私にとっての神さまは天照大御神です。ついつい寝坊してしまいますが朝起きて太陽を拝みます。そして、人間も太陽に育まれる自然と同じなのですから、私も自然と同じように自分の役目をきっちりと果たさねば、と心新たにします。
素晴らしいですね。因みに私どもの社には幾つかの祀神がありますが、その祀神の最たるものは天照大神です。
この手紙の先生も毎朝、必ず太陽に向かって手を合わせてられるのだそうです。実際、とても大事なことだと思います。
私もmergeさんと同様、
>そう祈ってもすぐに心が騒いで迷ったりするので、ほとほと自分が嫌になります。
と思います。然し、「人の日々の務めとは、感謝と自戒と自改(自己を改めること)、そして実行である」と先生も良く申されます。
毎日、手を合わせ、感謝すると同時に己を戒め、そして改め、実行へと移していく・・・その繰り返しで良いのだ、ということであると解釈しております。
お互い紆余曲折しながら試行錯誤をこれからも繰り返していきましょう。きっとそれが「人の務めであり、役割である」と思います。
今年も残り少ないですが全力で頑張っていきましょう!!
こちらこそ、これからもどうぞ宜しくお願いします。
投稿: 管理人 | 2005年12月16日 (金) 20時30分
おおらかな気持ちで日々をすごすことの重要性を再認識させらました。日本神道の哲学研究の深さと高さを垣間見ることができました。もっとも、日常生活では、この哲学に反した行動をとることもままあります。トホホ。
投稿: いちろう | 2005年12月16日 (金) 14時10分
田舎の神主さん、こんにちは。
これだけの懇切丁寧な返信をくださるとは凄い先生ですね。
週末にゆっくり読ませていただきます。
PCの画面だと長文は読みにくいのでプリントアウトして熟読することにします。
投稿: 喜八 | 2005年12月16日 (金) 12時50分
感動で胸がいっぱいです。素晴らしいお師匠様をお持ちで、とてもうらやましいかぎりです。私が傲慢でいけないのか人生の師となる方にはまだ巡り会えておりません。そのかわりに過去の文豪たちにその姿を見ているような所があります。
夏目漱石の「則天去私」という言葉が大好きです。"私を無くして天に則して生きる”、一日でもはやくそんな境地に辿り着きたいと思っています。そして本当に心から人のために有用な人間になりたいと思います。
昨今の世の中では、「神」と口にするだけで変な目でみられてしまうときがありますが、私は神の存在を信じています。よく気分が落ち込むと神さまに毒突きます。でも特定の宗教団体に入っているわけではありません。強いて云えば、日本人ですから日本の神々にすがるのが自然だと感じているぐらいでしょうか。ですから私にとっての神さまは天照大御神です。ついつい寝坊してしまいますが朝起きて太陽を拝みます。そして、人間も太陽に育まれる自然と同じなのですから、私も自然と同じように自分の役目をきっちりと果たさねば、と心新たにします。しかしそう祈ってもすぐに心が騒いで迷ったりするので、ほとほと自分が嫌になります。
素晴らしい記事をありがとうございました。このお手紙のように静謐とした心境になりたいものです。もっとコメントしたいのですけれど、なにを書いて良いのかわからないほど感動しております。もう一度、否三度も四度も読み返してみます。そしてなにかわかることがありましたら、ブログのほうに書いてみたいと思います。
ブログを更新するのはなかなか大変ですけれど、書くことによって精神が安定するときが多いし、こうやって非常に意義のある交流が持てるので、私も出来るかぎり実のある物を書いてゆきたいと思います。
それにしても素晴らしいお手紙でした。残り少ない今年を全力で生きてみます。これからもどうぞよろしくお願い致します。
長々と失礼しました。
投稿: Merge | 2005年12月15日 (木) 19時02分