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2006年1月31日 (火)

「感謝」と「報恩」

昨年、中学1年生の少年が母親を殴り殺したというニュースが飛び込んできました。

殴った理由は「小学6年生だった昨年から、勉強するようしつこく言われ母親に暴力をふるうようになった」との事・・・。

昨年6月にあった15歳少年による両親の殺害事件。

それもまた「父親に馬鹿にされた」という理由で両親を殺し、自宅に時限爆弾のような装置を仕掛け隠滅を図ったとの事でした・・・。

いつの頃からでしょう・・・子供達はこんなに簡単にも人に、しかも自分を産み、育ててくれた親に対して手を上げたり、或いは殺してしまったり、そのような重大犯罪が多発するようになってしまったのでしょうか・・・。

それと並行して「親」の子供に対する虐待も後を絶ちません・・・。

親が子供を「餓死」させたり、マンションの高層階から放り投げたり、或いはもっと直接的な「暴力」的な手段での虐待であったり・・・。

この国に於いて「親子の絆」というのは何処まで薄らいでしまったのでしょうか・・・。

親子ばかりではありません。

年末には小学校1年生の少女が連れ去られ殺害されるという事件も起きました。

また、直接人の命を奪うわけではないが一連のマンションの建築計算書の耐震強度偽装事件など人命を軽視するような事件が後を絶ちません・・・。

さらには、今現在マスコミを騒がせているライブドアの問題やそれにまつわる自民党執行部の対応の在り方など、人が人としての道を踏み違えていると思われるような出来事も多く見聞します。

何故、このような状況に陥ってしまったのでしょうか・・・。

常識的に考えて、人は他人に親切にしてもらえば、有難いと思って感謝し、その人のために何かをしなければならないという感覚を持つものだと思うのです。

こういう義務感の発露というのは、人間として自然な感情だと思います。

ところが、現代では義務感を発露させる「感謝や恩義」を感じなくなり、「されて当たり前」「奪えるものは何でも奪え」というような感覚に陥ってしまっているように思えるのです。

成人式で騒ぐ若者はこの典型でしょう。

行政に庇護され、教育を受けさせてもらい、安全で快適な暮らしを享受しながら、その恩義をまったく感じることができず、その恩恵を授けてくれた存在に対して無礼きわまる態度をとっているのですから・・・。

暴れて物を壊したり、大酒を喰らい、人を殴ったりするのが人間の道とは到底考えることは出来ません・・・。

それを平然としていて「若気の至り」などと気がつくときはもう遅いかも知れないのです。

人生は長いようで短いものだと思うのです。

『いろはにほへと ちりぬるお わかよたれそ つねならむ うひのをくやま けふこえて あさきゆめみし ゑゐもせすん』

むかし、小学校で現在の「五十音」を覚えるために使われた言葉です。

これはただ単に「語呂合わせ」で使われただけでなく、人生の「儚さ」を詠み込んでいるのだそうです。

『色は匂えど 散りぬるお 我が世足れぞ 常ならむ』

『花は咲き乱れ色香が漂う。人はその色香に惑わされてしまうものだ。しかしその花もいつかは散りゆく。それはこの世の平生の出来事なのだ。』

『有為の奥山 今日超えて』

『深く険しい山道を越えるように、様々な艱難辛苦を何とか乗り越えて今日まで来たけれども、』

『浅き夢見し ゑゐもせずうん』

『それはまるで浅い夢のようだった・・・。それに気が付いたときにはもう、自分の人生はお仕舞いになっていた・・・。』

という心を詠み込んでいるのだそうです・・・。

人間が人間である限りは人の道も変わるものではないと思います。

人は幸福を願わない者は居ないでしょうし、災難を喜ぶ者は居ないでしょう。

幸福は「感謝の心」からその感謝の事柄に対し「報恩の念」で応えることによって生れるものだと思うのです。

私達人間は、喜びと感謝に満ち、それに対する報恩に因って充実した真実のある一日を生きるべきだと思うのです。(師匠の受け売りですが・・・(^^;))

私の好きな言葉で「先人が木を植え、後人はその木陰で憩う」というのがあります。

ここに登場する先人と後人はたまたま同時代に生まれ落ちることはありませんが、この両者の間に会話はしっかりと成立しているのです。

先人は後人がここで憩うであろうことを期待し、自己の生が時を超えることをその木に託すのです。

そして後人は先人に感謝するのです。『有難いと・・・。

「人の生なんて所詮はちっぽけなもんだ。でも、俺の行為が後に続く人々のためになるのならば、それはそれで価値ある一生だったというべきなんだろうな」との先人の想いが一本の木に託され、その想いがわかるからこそ後世の者は感謝を抱くと共に感慨に耽るのです。

「俺は後世の者に何を残せるだろうか」と。

以前に書いたエントリに引用させていただいた先生のお言葉をまた引用させていただきますが、

『古人は『積善の家に余慶あり』と教えている。世の中が真暗闇見えるのは、即ち己の心が暗い行為に過ぎない。人は心掛け次第で如何にも立派に成れるものである。』

つまり、「善い行いを重ねる人物の家には余りある慶びがある」という意味であり、人の道に沿った暮らしを営み、どんな世の中でも明るく過ごすことが重要であり、日々、「感謝」を重ねていれば自然と「報恩」の念が生まれ、そこから慶びが現れてくるのだと思うのです。

『本来、人は神の分身なるが故、駄目な人間はこの世に一人も居ない筈である。「資本が無い」「若い」「学問が無い」から駄目な人間であるとは決められない。駄目な人間とは、行う以前に「俺は出来ない」「俺は駄目だ」と自分で決め付けていてやろうとしないだけのものである。

「やれば出来る」

この信念を持つことである。苦を越え、焦りを押えて一つの事を成し遂げた時の歓喜、自己が自己に克つ体得が大きく人の一生を支配し、最終の美を飾れるのである。反省は過去の失敗や過ちに心を腐らせ胸を痛めつけることでなく、失敗や過ちを自心の養いとすべきである。』

そんな心構え、気構えを持って過ごすことが出来れば自己の過剰な欲求を発散する行為、即ち、冒頭で述べたような事件が起こることはないのではないか、と思うのです。

そして今度は後世を生きる者達の為に、先人としてそういった「心構え」や「気構え」を語り継ぎ、この国のそんな美風を「良い木」として残していくことが我々に課された使命であり、人としての務めではないか、偉そうですがそんな風に思う、今日この頃です。

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2006年1月18日 (水)

私の思う作法

先日、かついちさんから神社などの参詣、参拝についての作法について幾つかご質問を頂戴いたしましたので、その質問にお答えしながら私の考える「作法」について触れてみたいと思います。

一般的に神道の礼拝というのは「ニ礼二拍手一拝」というのが基本作法ですが、そのお社やお宮によっても作法は異なるものであり、また神道系の宗教団体ごとで作法は異なるものなのです。キリスト教でもカトリック系とプロテスタント系で礼拝儀礼が違うように、です。

初詣でも御自身の氏神様にあたる神社をお参りし、その後に現在、ご自身が信仰されている神様の祀られているお社やお宮、教会などを参拝されるのも多くの御陰を賜るためには良いことですし、御守や護摩札などもご自分の御祈祷(感謝や厄除けなど)の為に御作りになられたり、購入されるのも結構なことであると私は思います。勿論、誰かの為に祈祷されて護摩札や御守を作られたり、購入されるのも全く問題ないと考えます。

こういったことは色々なところに行かれるとそこの宮司さんが独自の見解を持っていることも少なく在りません。(私もその一人ですが・・・。)

私共の社では毎年、総代の方々と一緒にお寺さんに御篭りに入りますし、伊勢神宮にも参拝します。伊勢神宮参拝の際にはその道中でお寺さんや観音様、様々な神社仏閣にも参拝します。(伊勢神宮の神官の礼拝作法は『八手』という作法を使います。ニ拍手では無く八つ手を叩きます。参考までに。)

そこで多くのことを学び、また自分たちの信仰を深くする、そういう取り組みも必要であると考えています。ですから「こうしなくてはいけない」というものはそれほど数多くは存在しないと思います。

そして、そういう考え方こそがある意味、「神道」という信仰であると考えます。

ありとあらゆるものに柔軟に、且つ寛容に受け入れる。ある種、「曖昧」という表現をしても良いのかも知れません。

それが一神教の国々の方々や大陸系儒教の国々の方々と異なる、日本人独特の民俗性に通じているように思います。

そういう日本人の感性、民俗性、即ち「日々の周囲にある全てのものに対する感謝の心」、「他の意見を聞き入れる寛容な精神」、それらを生活に生かしていく心構えが日々必要であることを認識することが重要であると思います。

排他的な精神は神道の概念には余りありませんし、他の宗教を受け入れる土台が昔からあると思います。

それは「本地垂迹説」に代表される日本人の精神性というか「素直な心」に起因するものではないかと考えます。純粋に「この教えは素晴らしい」とか「見習うべきものがあるな」と感じる心から生れてきているのだと思います。

我々の祖先は本当に素晴らしい教えを残してくれているなぁ・・・・・。

(一人悦でおしまいです。(汗))

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2006年1月 5日 (木)

遅ればせながら・・・新年明けましておめでとうございます!!

皆様、遅ればせながら

新年明けましておめでとう御座います。

今年も宜しくお願い致します。

いや~。やっと更新できました。

まだまだ時間はあまり作れないのですが、久しぶりにまともにパソコンの前に座っています。

年末年始にコメントやTBを下さった皆様方、有難う御座いました。

レスポンス遅れて申し訳ありませんでした。これに懲りずに今年もバンバン、コメントやTB下さいね!!

今年もたくさん勉強して色々な問題を思うままに書いて行きたいと思います。

皆様今年もご指導、ご鞭撻を宜しくお願い致します!!!

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