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2006年2月25日 (土)

東西南空

最近は公私ともに大変忙しく、なかなか時間がとれません。

ブログも更新したいなあと常々思っているのですがなかなか出来ませんでした。

今回もうちの以前、発行した会報の原稿をそのまま載せさせて戴きます。

東西南空

人間の心と生活には、外見からは一寸見えないところに「汚い」ものを何となく隠そうとする習性の共通が見られます。

人に見せまいとし、見られまいとする「キタナイ」ところを日光にさらして浄化しなければ、いつまでもさっぱりとは致しません。

見えない処を「キレイ」にすることは申すまでもありませんが、清潔にして置ける平常の心掛けと気の付いた時にその場で処理する習慣が最も大切であります。

足の踏み入れる処もない状態では、どうにもならぬにも拘わらず、それに又加えて棄てに来る不道徳者も居ると、益々不潔になるばかりで・・・・・お互いが今少し注意すれば、と思うのです。

それに増しても人の慾心(よくしん)ほど穢(きたな)いものはなく、人の心ほど穢れ易いものはない。

金銭上、物質上、肉体的、名誉地位、権力、趣味興味など、数え上げれば枚挙に暇がない。

家庭の秩序や整頓や交際上の心組みにも不潔さがあります。

お互いに独り独りが努力する道徳心が起こらなければ、家庭も社会も浄(きよ)まらず和やかさも円満もない。 尽くし合う、譲り合う事が美しい人情でありましょう。

清々しい心に依って、古き慣習や伝統などの教えに基づき身体を浄め、汚れを浄め、又汚れては浄めてゆけば少しずつ向上する。 独り独りの精神が社会を明美にするのであります。

自分から行為や人情を総てのものに対して心すべき一人一人が多くなり、大勢となったその時、理想の世の中が出現するものと信じます。

神は先ず、人間に祓いを示し給うことを忘れてはならぬ。

健康上に、人情においても然り。

その本性(ほんせい)を一人残らず授けられて居る。 そしてその本性が現れた時、その人が持つ本能が大きな力となり、働きとなって特徴を現す。 その特徴を惜しまず行使したことが、そのもののあらゆる徳光(とくこう)となり益となり、実績を重ねて一切が備わり、その立場は明るくなり範(はん)となります。

茲に安住の道は拓けて潔(きらび)やかな、正しく、楽しく、実に麗しい道徳が展開されて人心は自ずと鎮まりて、不満も不平もなく、報恩感謝の扶(たす)け合い、信じ合い、譲り合う自然さが、健康を延長して自業(じぎょう)に励む処には邪心は更になく、従って悪や汚れもなく、表裏一体で毎日が楽しくて不自由知らず。 感謝が次々に来たりて全てが結構づくめとなります。

東西南空・・・・・北(汚)ない空(から)ふくの神、とせよ。

以前に書いたものですが、マスコミの現状を眺めていて何となく思い出したので書いてみました。

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2006年2月13日 (月)

「不苦」があってこそ人生 その2

前回、中途半端な形で終わってい、間が開いてしまいましたが、その続きです。

「不苦」があってこそ人生(続編)

しかしながら、それでいて「豆も撒かずに歳をとった」などとボヤいていたが、ボヤいているうちは平安かも知れない・・・。

世の中には不公平で理屈に合わない不合理なものが充満(みちみち)ている。が、然しその中で誠に公平で合理的だと云っても良いものが一つある。

それは節分である。

どんな権力や財力を持ってしても、これだけはどうすることも出来ない。

節分を境に誰彼と容赦なく一つずつ年齢を加えていくという事であり、「俺だけは歳はいらない」という勝手な事は許されない。(※注:数え年で考えています)

それは刻々と過ぎ行く。時の流れをどうする事も出来ないに等しく・・・・・。

然し、以前教えを請うた先生が数え年78歳を迎えられたときに云っておられた。

「己、人生七八(悩)まず。やり甲斐のある歳だ。幾つになっても、七八(悩)まずにいつまでも神様の番頭役で、世の為、人の為にお役に立ちたい・・・。尽くしたい・・・。命に懸けて・・・。」

私も同様に思った。

そうだ!・・・時はこれより春。即ち、種を蒔くには絶好の時期である。

即ち豆まきは種まきであり、資本である。施しもせず、種を蒔かずに幸福を独り占めにしようと思ってもそれは叶う道理はない。

「蒔かぬ種は生えぬ」である。

れた(こころ)の(ひと)は自然に外され、く放り出されて出入りが叶わず、施す事も出来ず、まるで孤独になる。種も卸さぬ者は春の暖かき節に分けられて棄てられる。

所謂「汚仁者疎遠(おにはそと)」である。

福は内とは自らの事業の為には苦難もあり、困難に遭う事もある。それを乗り越えるのも皆様の御陰と自ら不撓不屈の精神こそ「不苦(ふく)」であり、座って考えていても決して福は来ない。「そうだ、一奮張り、手豆足豆、実行しよう!」吾家(わがや)の繁栄を知るのは善なる施しからである。

これ即ち「不苦者宇智(ふくはうち)」である。

一年にとると一月は丑(陰)の月、二月は寅(陽)の月であり、丑の陰を払い、寅の陽を迎え一陽来福(いちようらいふく)となる。

丑寅(北東)を鬼門と世間の人は言われる。つまり、虎の顔に牛の角を生やすと鬼の顔に見える処から「鬼門」と言うのだそうである。

「福は内」と大声をあげても、鬼の居る家は福の神は入れようもない。天の数は奇数、陽数であり、地にあるものは陰であり偶数である。

この陰と陽が合体しなければ何事も上手く行かない。

家庭も男と女。主人が居て奥さんがあって、夫婦一体でなければその家は栄えない。

主人は外を飛び歩き、奥さんも負けず劣らず外を飛び歩いて居ては駄目である。

家内(かない)というからには、家の中に居るのが一番良い。宀(うち)の中の女が一番安心である。

だが主婦の家族観も、新しい時代と共に「自分中心の生き甲斐」へと変化してきたようであるがどうか見るも恐ろしい・・・オッカネェー・・・・「夫苦魔女(ふくまめ)」とならず、「富久真女(ふくまめ)」になって頂きたいものである。

夫婦愛対し、男女交わって和合が出来、福が来る。

お正月に供える鏡餅。あれは夫婦の和合を形取り、陰陽を象ったものである。

幸福とは何か。

それは仕合わせから始まる。それぞれの家から始まる。

仕合わせは何から生まれる。それはそれぞれの人の愛から生まれる。

愛なき処に幸福はない。相手の心を受け入れて愛が生じる。愛することを知るものは幸いなるかな。

人を愛し、自然を愛して無限に楽しき日々を送れる。尚、感謝する事を多く知る者は幸いなり。天地に感謝し、人に感謝して喜び尽きざる者の生涯は素晴らしいものであろう。

そう成る為に先ず、「神我と共に坐します」神念(=信念)を持つ事である。その信念は如何なる境遇に出会っても、常にこころは愉快に溌剌としていられる。

境遇の変転というものは決して自己の思うようには行かぬものである。

けれども、この心の持ち方というものは修養一つで常に可能な事である。

信仰を持ち、真行の生活を営み、真業にいそしむ事でこの世は本当に住み良い人生である。    

~終わり~

会報の原稿をそのまま転載した為、かなり宗教色が強くなってしまった感がありますが、御容赦賜りたいと思います。

皆さんの今年の豆撒きは如何でしたか?

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2006年2月 8日 (水)

「不苦」があってこそ人生 その1

書きたいことは山程在るのですが、最近あまり時間がとれないので、今回はブログ用ではなく、うちの神社で発行している会報2月号の原稿記事をそのまま掲載させていただきます。若干、宗教的な色合いが強いかも知れませんがどうか御容赦賜りたいと思います。

「不苦」があってこそ人生

正月の種々の行事も終わり、二月の声を聞くと間もなく節分を迎え、さらに立春という暦の上では大分春めいた日がある。

しかし、気候的、気温的には冷たい雨や雪の降る日もあり、寒波、寒風の荒れ狂う季節でもある。随って二月、この月を如月「衣更着」とも呼ばれ、遠い昔からこの月は寒かったのであろう。

だが、厳寒の月のうちにも春の息吹と共に春の足音も、もうすぐ其処まで来ているような、時には梅一輪、梅一輪の暖かさの日もある。

そう、信仰は夏は涼しく、冬は暖かい心行きで過ごしたいものである。

この世に生かされる人の幸福の基は家庭の温かさであろうと思う。

「骨肉の争い」などの言葉が現代ではよく使われているが、これなどは非常に醜いことで、人は神の分身でありながら「下の下」の、最低の人と云う外はない。

人の幸福の基は家庭から。善き人生も、悪しき人生も、その善し悪しに依って分かれてくる。

故に、敬神崇祖の念を深め、家族が心を合わせ、忙しい中にも暇を作り大自然、即ち神様への奉仕を通じ御教示(みおしえ)に帰することで、感謝と報恩の気持ちは深められ、家庭に於ける朝な夕なの神拝の積徳、清い心で仕事に就き、安らぎの心で眠りに就けるのである。

それこそが二十四時を一層意義あらしめ、正しく、美しい人生を創りあげていくことが出来る根本である。 夭(わかい)屰(ぎゃく)の本字だそうである。

大自然、「親なる神」は私たち人類を始め、この世に於ける全ての物を愛し給うて居られ、「誠の心」を持ち、恵みお護りくだされるのである。

また、祖先は見えざる力を添えてお助け下さるもので、上を敬い、祖先を尊び、子孫を愛することに依って幸福の基が育て上げられる。要するに神仏のご加護を戴いて、家庭は円満に治まり、子孫まで正しく栄えて行くことが出来る由縁である。

円満には少しも角がない。つまり角突き合いも出来ない、争いが生じない。

いつでも和やかな心、明るい心で親切で、思いやりのある心、有難うと云う心、すみませんと云う心、感謝のあふれる家庭には悪魔も病魔も、貧乏神も入る隙もない。

随って伸々とした心が伸心(=信心)で、至って健康な身体で居られるのである。

元来、神事、神祀り、或いは昔からの行事は人間の全人格を統一する尊い道で、真に人間らしい人間として生きる為に為さねばならぬ大切なものであると思う。

で、在るけれども今の世では神棚も祀らぬ家庭が多いと見聞する・・・。

その家、その人の末路を考えると気が気でならない・・・。だが、現代では様々な観点から、止むを得ない事であり、他人のことで疝気を病んでも致し方ない。いずれにせよ、昔から繋がってきた尊い祀事も現代では「簡単」、「略式」・・・それ等はまだ良い方で、「やらない」、「面倒くさい」、「照れくさい」で済ませてしまう人が多くなって来たようで、節分の豆撒きなどもせぬ家もある。

・・・・・・・・書いてみると長いですね。という訳で無理矢理分けて、次回に続きます。

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