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2006年2月13日 (月)

「不苦」があってこそ人生 その2

前回、中途半端な形で終わってい、間が開いてしまいましたが、その続きです。

「不苦」があってこそ人生(続編)

しかしながら、それでいて「豆も撒かずに歳をとった」などとボヤいていたが、ボヤいているうちは平安かも知れない・・・。

世の中には不公平で理屈に合わない不合理なものが充満(みちみち)ている。が、然しその中で誠に公平で合理的だと云っても良いものが一つある。

それは節分である。

どんな権力や財力を持ってしても、これだけはどうすることも出来ない。

節分を境に誰彼と容赦なく一つずつ年齢を加えていくという事であり、「俺だけは歳はいらない」という勝手な事は許されない。(※注:数え年で考えています)

それは刻々と過ぎ行く。時の流れをどうする事も出来ないに等しく・・・・・。

然し、以前教えを請うた先生が数え年78歳を迎えられたときに云っておられた。

「己、人生七八(悩)まず。やり甲斐のある歳だ。幾つになっても、七八(悩)まずにいつまでも神様の番頭役で、世の為、人の為にお役に立ちたい・・・。尽くしたい・・・。命に懸けて・・・。」

私も同様に思った。

そうだ!・・・時はこれより春。即ち、種を蒔くには絶好の時期である。

即ち豆まきは種まきであり、資本である。施しもせず、種を蒔かずに幸福を独り占めにしようと思ってもそれは叶う道理はない。

「蒔かぬ種は生えぬ」である。

れた(こころ)の(ひと)は自然に外され、く放り出されて出入りが叶わず、施す事も出来ず、まるで孤独になる。種も卸さぬ者は春の暖かき節に分けられて棄てられる。

所謂「汚仁者疎遠(おにはそと)」である。

福は内とは自らの事業の為には苦難もあり、困難に遭う事もある。それを乗り越えるのも皆様の御陰と自ら不撓不屈の精神こそ「不苦(ふく)」であり、座って考えていても決して福は来ない。「そうだ、一奮張り、手豆足豆、実行しよう!」吾家(わがや)の繁栄を知るのは善なる施しからである。

これ即ち「不苦者宇智(ふくはうち)」である。

一年にとると一月は丑(陰)の月、二月は寅(陽)の月であり、丑の陰を払い、寅の陽を迎え一陽来福(いちようらいふく)となる。

丑寅(北東)を鬼門と世間の人は言われる。つまり、虎の顔に牛の角を生やすと鬼の顔に見える処から「鬼門」と言うのだそうである。

「福は内」と大声をあげても、鬼の居る家は福の神は入れようもない。天の数は奇数、陽数であり、地にあるものは陰であり偶数である。

この陰と陽が合体しなければ何事も上手く行かない。

家庭も男と女。主人が居て奥さんがあって、夫婦一体でなければその家は栄えない。

主人は外を飛び歩き、奥さんも負けず劣らず外を飛び歩いて居ては駄目である。

家内(かない)というからには、家の中に居るのが一番良い。宀(うち)の中の女が一番安心である。

だが主婦の家族観も、新しい時代と共に「自分中心の生き甲斐」へと変化してきたようであるがどうか見るも恐ろしい・・・オッカネェー・・・・「夫苦魔女(ふくまめ)」とならず、「富久真女(ふくまめ)」になって頂きたいものである。

夫婦愛対し、男女交わって和合が出来、福が来る。

お正月に供える鏡餅。あれは夫婦の和合を形取り、陰陽を象ったものである。

幸福とは何か。

それは仕合わせから始まる。それぞれの家から始まる。

仕合わせは何から生まれる。それはそれぞれの人の愛から生まれる。

愛なき処に幸福はない。相手の心を受け入れて愛が生じる。愛することを知るものは幸いなるかな。

人を愛し、自然を愛して無限に楽しき日々を送れる。尚、感謝する事を多く知る者は幸いなり。天地に感謝し、人に感謝して喜び尽きざる者の生涯は素晴らしいものであろう。

そう成る為に先ず、「神我と共に坐します」神念(=信念)を持つ事である。その信念は如何なる境遇に出会っても、常にこころは愉快に溌剌としていられる。

境遇の変転というものは決して自己の思うようには行かぬものである。

けれども、この心の持ち方というものは修養一つで常に可能な事である。

信仰を持ち、真行の生活を営み、真業にいそしむ事でこの世は本当に住み良い人生である。    

~終わり~

会報の原稿をそのまま転載した為、かなり宗教色が強くなってしまった感がありますが、御容赦賜りたいと思います。

皆さんの今年の豆撒きは如何でしたか?

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コメント

spiralさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。
お褒め戴けて大変恐縮です。
私も似たような考えを持っています。
伝統文化というのはその国で国民が生きていく為の「指針」のようなもので、それを見失うと言うことは国民性が疎外され、生きていく術を他国の文化やアイデンティティーに委ねると云うことであるような気がします・・・。
spiralさんの仰る通り、

>現在迷走を続ける日本が立ち直るには、先人が育んできた伝統文化に学び、日本人として如何に生きるべきかを知らなければならないと思います。

私も同感です。

色々と焦りがちになりますがくれぐれもご無理をされず、どうかお体の方御自愛下さいます様、心よりお願い申し上げます。

投稿: 管理人 | 2006年2月18日 (土) 22時30分

大変素晴らしい記事を書いて下さり、ありがとうございました。
私は、伝統文化というのは、「生き方」を示したものだと思っています。
ですから、現在迷走を続ける日本が立ち直るには、先人が育んできた伝統文化に学び、日本人として如何に生きるべきかを知らなければならないと思います。

投稿: spiral | 2006年2月17日 (金) 03時06分

ichiroさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。
お褒めいただいて恐縮です。(^^;)
いつもichiroさんのブログとても勉強になります。
難しい内容なのでなかなかコメントできませんが・・・。
自分の講演や会報などの原稿を書くときには役立たせていただいております。
引用させて頂くようなときは必ずお断りに参りますのでどうかご安心を。m(_ _)m
またichiroさんに心の平安だと言われるようなものを書き続けていけたらいいな、と思います。

投稿: 管理人 | 2006年2月14日 (火) 23時28分

学兄のブログも見ていると、心の平安を得ることができます。もっとも一瞬ですが・・・。あまり平安がえられるとも思われない私のブログも、時には役立つこともあるのかもしれませんが・・・。

投稿: ichiro | 2006年2月14日 (火) 22時50分

milestaさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。
現代において女性の役割ということについては賛否両論在るとは思いますが「母性復権」ということが大変重要な課題であると個人的に考察致します。
修養とは日々、養い作り上げられていくものでありと思います。
私は「神道」の道で修行をしている過程でエントリに書いたような心構えを養っていけたら・・・と思っています。
宗教や信仰の力によって手助けしていただくことは「御守護」という概念がピタリと当てはまるような気がします。
あくまで「守り」そして「護られる」ということです。
神棚をお祀りしたり、氏神様に詣でお参りをする。これが神様を「守る」事であり、それを行うことによって「護られる」のだと思います。
神棚や氏神様というのは「神道」の中での話ですからご自身が信仰されている対象をしっかりと「お守り」していく事が肝要なのではないかと思います。
神棚はなくともお祀りしていこうという心持ち、それと敬神の念が大切だと思います。(こんな事言っていると我社の総代の方々に叱られそうですが)(苦笑)

投稿: 管理人 | 2006年2月13日 (月) 22時08分

雲ちゃんさん(?)、初めまして、こんばんは。
コメント有難う御座います。
かなり、宗教的な色合いが濃いためか確かに「理想論」と、とられがちな内容かも知れませんね・・・。
もっと勉強します。

>人にはいろいろ欲しくない何かを神様くれるもんね

これについては私は「分相応」ということではなかろうかと思います。私は神学の道に生きる者ですから「因果応報」ということで在ろうと思います。
忌憚のないご意見有難う御座います。
今後とも宜しくお願い致します。

投稿: 管理人 | 2006年2月13日 (月) 21時54分

今日、地域の教会に行く用事がありました。リーダー格の女性が「今は女性も高等教育を受けるようになって立派な仕事をしているけど、妻としての役割、母親としての役割を忘れている。」と話していました。
帰って来てこの記事にある「修養」という言葉を見て、学生時代に『修養とは何か~教養との違い』というレポートを書いたことを思い出しました。
高等教育を受けて「教養」が身に付いても、「修養」が備わった人間になるとは限りません。修養を積む手助けをしてくださるのが宗教・神様ではないかと、そんなことを考えました。

神棚もない家に住む者(私のことです)が何言ってるんでしょうね。(笑)

投稿: milesta | 2006年2月13日 (月) 12時04分

面白かったよ 意義あるが落語みたい
なんか、わかるけど理想論みたい
人にはいろいろ欲しくない何かを神様くれるもんね

投稿: 雲ちゃん | 2006年2月13日 (月) 09時03分

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