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2006年5月30日 (火)

生き甲斐のある人生 しょうがない人生

百花爛漫に咲き競い春を彩った四月の花。
その花々が終わりを告げると、つよい晩春の日差しに燃える「つつじ」が山野に全盛と咲き誇る。
天地が若葉に包まれて香り豊かな茶摘み時となる。
『夏も近づく八十八夜』と歌われる八十八夜は初夏の季節感をふりまく。
卯の花の垣根に匂うて『矢車に 潮風つよき 幟かな』 皐月の空に悠然と泳ぐ鯉、五月の風が一番美味しいと謂う。
雄大な心境が沸き立ち、自ずと勝己(正気)みなぎる。

この絶好機、人間(かみのこ)互いに、この大気を吸養し、日々の成長を目指して伸び、栄え、太らせて頂ける。
真行の道を陽々とし暢々(のびのび)と直(ひた)すらに精進したいものである。

人間誰しも、本性は幸福で在りたいと考える。いくらかでも根性のある人なら、人の中で優れた者で在りたいとも思う。それは決して威張りたい為でも出世したい為でもない。
人間として生まれて、人間のクズになることは悲しく、多くの人から尊重される人に成りたいと希(ねが)うのが人情であり、当然であるが故に何人も持って生まれている無上に尊い本性を充分に発起(はっき)する為の努力が大切である。

誰が言い出したかは知らぬが「人間一人の生命は地球より重い」と云う。
この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性が持つ偉大さに触れているからであり、そうして大抵の人はこの言葉を聞いた瞬間に、自分の生命にかけがえがないことを考えて「尤もだ」と同感するのであろう。
人権尊重という言葉もここから生じたものであると云えるのではなかろうか。

然し、此の世の人が全部が真に生命の偉大性を知っている訳では無いようである。
一体人間は、何の為に此の世に生きているのであろうか、人間にとって本当の生き甲斐とは何であろうか、もっとはっきり云えば人生の目的は何であろうか・・・。
今の知識人と云われる人ほど、このような大事な問題を忘れているのではなかろうか?
特に今の世に時めいている政治家、教育者、大きな企業の幹部と云われる人達、さらに進んで云えば、世の多くの親達の中にも、この大事な問題を忘れている人が多いのではないかと思われる。
こうして人間の問題を忘れてしまった今の世では、多くの人々は何をすることが人生の目的に叶うのやら、何が善いことであり、何が悪いことであるのやら、方向も目的も解らぬままに、無暗に忙しく落ち着けぬイライラした気持ちで何かに追われて生きているだけのことである。いや、そのように無意味に生き、そして無意味に死んでいく、ただそれだけのことである・・・そうとも思える。この世の中には・・・

生がない人・・・生き乍らも死人の如きもの
正がない人・・・正しくないもの
精がない人・・・精根なし、怠け者
賞がない人・・・尚も、甲斐なき者
祥がない人・・・喜び事なきもの

などと、使用(しょう)・・・の・・・ない人もいる。

そのような人が友達に金を借りた。約束の日が来たので「返してくれ。」と催促された。
するとその人は「も、もう少し待ってくれ、必ず返す。」という言葉だけ返してくる。
何ヶ月か経ってまた返却を求めた。言を左右にして返さない。貸した人はしきりに催促するようになった。然し、借りている男は蔭で貸している男を罵って「あの野郎はたった五,六万の金でネチネチしつこくつきまとうなんて・・・本当にケチなやつだぜ」と・・・。

では、たったそれだけの金を返そうとしない自分はどうなのだと云いたい。
こういう理屈にならぬ理屈を捏ねることを恥としない人が、此の世にはウヨウヨ居る。
「友達」とは「友」に「達する」ことであり、人にとっては大切な存在である。
だが、時として茲に述べてきたような始末に困る友達もいる。心して選ぶべきであろうし、これは「悪寒(あかん)」と思ったら関係を考え直すべきであろう。
現代は勿論、良友に助けられることもあるが、それより得てして悪友に足を引っ張られることも少なくない。 悪徳マルチ商法などはこの典型であろう。

狡い人とは交際を考えるべきであろう。「狡い」と云う文字をみても「けだもの」に「交」わると書く。即ち獣のような人間と交わる人自体が狡くなると云うことであり、「朱に交われば赤くなる」だけのことである・・・・・人を誤魔化したり、騙したり、その時その場を上手くつくろって、相手を倒して喜んで「あっ、儲けた、得した」と舌を出しても、そう長くは喜びは続くものか。反って良心を持っているものは人を欺いた気持ちは何時も晴れぬであろう。それでもよいとしている者、このような者の末路は、柳の下で一人ぼっち、孤独の淋しさに気づいた時は既に遅く、どう仕様もない手遅れでなければ宜しいが・・・・。
とにかく此の世で「地獄の一丁目」とならぬ要(こと)が肝腎である。

三代(私の祖父)が残した六根清浄の大祓詞の中に「莫命傷心神是故(わがたましいをいたましむることこのゆえに)」とあるのは、自己内在の神、即ち己の良心を傷つけてはならぬ、肉体の傷は他人(ひと)には見えて判るが、然し心の古傷は人には見えねど自分が一番知っている。それは自らが、運んできた命であり、運命である。その心の古傷が・・・ちくり、ちくりと、自分を刺して、己自心を苦しめるのである。
故に人間(かみのこ)互いに心、清浄でありたいものである。
人間は誰でも本来、無上に尊く生まれているのである。今一度言い換えれば、人間は誰でも生まれ乍らに宇宙間のすべての知識を持っているのだと言っても過言ではないように思う。

一例を挙げれば、昔日、小さい我が子を連れての墓参の時であった。私の前をヨチヨチと先に行く子がお地蔵さんの前でピタリと足を止め、その方を向き「のうのうさん」と言ったと同時に、もみじのような手のひらをを合わせ・・・合掌したのである。
息子は墓地は生まれて初めて、またお地蔵様と出会うのも初めてなのに・・・。これなどは教えられた智恵ではない。
またお互いが思案に余って苦悩し、懊悩としている時、今まで想像もしなかった良い智恵に思い当たることがある。
此等は全(みな)教えられずに知っている智恵が必要に応じて泉の如く湧いてくる・・・。
悠然として流れる雲、その奥に如何に偉大なる智恵と愛があるのか・・・。
すべては無限であろう大自然の本性、その分霊(わけみたま)として、・・・腐った平和ではなく・・・、自分の一生を献げて惜しまない生き甲斐ある人生、悪誘(あくゆう)を潰す鍾馗(しょうき=勝己)たれ!

~以上 我社 5月 会報原稿をそのまま転載~

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2006年5月 8日 (月)

伊勢参拝  ~その3~

またお久しぶりになってしまいました・・・。(反省)

というわけで前回の続きです。

前回は伊勢での不思議な体験をお書きしました。

その翌日、私達一行は天橋立へと一路向かうのですがその行った先でも様々な「偶然」と出会ったのです。

まず、私達は「笠松公園」へと向かうのですが、当初の予定でバスを停めるはずであった駐車場が先方の事情により使用が出来なくなってしまったのです・・・。

「なんだかなぁ・・・。」

そんな声で車内がざわめいているときにバスガイドさんから

「あの~・・・。以前来たときに利用したことのある駐車場がこの近所にあるのですが、もし宜しければそちらに確認をとってみましょうか?・・・ケーブルカーの乗り場からは少し離れてしまいますが・・・。」

とのご提案を頂き、添乗員さんから私の方に高齢の方が多いけれども、その旨で良いかとの確認を頂いたので

「結構ですよ。そこに停められればそこでお願いします。」

とお願いをしたのです。するとバスが向かっていった駐車場の入り口の看板には

元伊勢 籠神社(このじんじゃ)」

と書いてありました。

元伊勢とはいまの伊勢の「神宮」が建立される以前にお祀りされていたとされる神社であり、私自身も以前より天橋立のそばにあるということは存じていたのですが、まさかこのような形でお参りさせて頂けることになるとは思っても居ませんでした・・・。

「60回目にして本当の『お伊勢さん』と『元伊勢』の両方をお参りさせてもらえるとは・・・。 なんて有難いんだろう・・・。私はこの旅行に35回続けて参加させてもらってるけど・・・。ずっと来ていて本当に良かった・・・・・。」

総代の方の一人がしんみりと仰っていました。父も感慨耽って

「今回の旅行は本当に60回という『還暦』にふさわしいものだな。なんて有難い・・・。」

と言っていました。

偶然ではあるけれどもせっかく『元伊勢』に来られたのだから、ということでここでも正式参拝をさせて頂きました。そして神殿にて参拝を終えた後、社殿から外へ出るといきなり

「○○先生?(○○=私の本名です)先生じゃありませんか!!わぁっ!こんな所でお会いできるなんてっ!」

とお声をかけてこられた老年の女性がこちらに向かってやってきました。

私は全く見覚えがない・・・。するとその女性は私の横をすり抜けて父の所へやってきました。

そして皆さんから聞くところに依ると、その女性は以前、家のご近所に住んでらして、今はこちらの現地(天橋立付近)にご結婚を機に越してこられたいた、我社の崇敬者の方なのだそうです。

祖父の代の時に良く来られていた大変熱心な崇敬者の方だったそうです。

そしてその女性を宿の宴会にもご招待し、総代の方々や父といっしょに昔話に花を咲かせておりました・・・。

そして私も色々な昔の話を聞かせていただきました。

父が若かった頃の話。私があまり記憶にない祖父の話。総代や崇敬者の方々の話。

そして祖父や父がその方にした「信仰」に対する教えについての話・・・。

その方は話の結びに次のようなことを仰いました。

「若先生、あなたは『今の時代の人』かも知れない。でもあなたのお祖父さんやお父さんは今のような時代を危惧なさっていた・・・。お父さんは今でも真剣に考えて『信仰』とはどんな時代に於いても変わらず大切なことだ、という教えを体現なさっているんだよ。時代がどんなに変わろうとも、人が人である以上人の道、『人道、道徳』は変わらないんだ・・・。そのことを肝に銘じて、ここにいる皆さんやあなたの周囲にいる方々、救いを求めてこられた方々にそういう教えを説いてあげられるような、そんな立派な人になって下さいね・・・。それが今の大先生(父のことです)、なくなったお祖父さん先生の意志を次に繋げていくことなんだ。だからあなたは『今の時代の人』であると同時に『意志を継ぐ者』でもあり『未来へつなぐ者』でもあるんだよ。」

と言うとにっこり笑って私のグラスにビールを注いだ後、立ち上がって父の所へ行ってしまいました。

私の頭の中を色々な思考が巡らせ、何となく黙っていると、それに気が付いた総代の方の一人が私の所へやってきて

「若先生、偶然ってのはこうも重なるもんかね?不思議だよ。たった2,3日の旅行でこれだけのことが起こるんだからさ・・・。巡り合わせってのは本当に何処にどんなことが転がってるか分からないよ。でも有難いねぇ・・・。」

本当に不思議でなんだかとても有難く、温かい気持ちになりました。

宴会も終わり、部屋に戻り父に「なんだかものすごい不思議な気分だ」と言うと

「そうだな・・・。俺も後何回、伊勢参拝に来られるか判らないけど後悔は残したくないものだな。もしかしたら今回は祖父さんが俺とお前にそれを教えてくれたのかも知れないな・・・。全く根拠はないけれども・・・・・。なんだかそんな気がしてきたよ・・・・・。」

本当に色々な「偶然」に巡り会った今回の伊勢参拝旅行でした・・・。

そこで気付かせて頂けたことは確かに父の言う通り、祖父が教えてくれたものなのかも知れません・・・・・。相変わらず根拠はありませんが・・・。

ただ、「生命の縦の繋がり」「生命の連鎖」というものを、肌を以て実感したことは違えようのない一つの事実だと確信しております。

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