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2006年6月24日 (土)

現代の人格者

・・・・・また間隔があいてしまいました。

またもや会報の原稿を転載させていただきます。・・・(サボりすぎですね・・・反省)

ネットサーフィンをしていて色々なブログやサイトをのぞきました。

そこで感じたことや思ったことを基にして書きました。

手本となるべき在り様

 万有は流転し、時は動き流れる! 
動いて止まない、大自然の運行(はたらき)が若葉の山野に何時しか知らず衣を更(か)えた。
深い緑に変えて繁茂してゆく姿は全く鮮やかである。
紫陽花が彩(さえ)て美しく、梅・雨を呼ぶか、はや初夏の季節である。
山河、人を招き渓流に若鮎のピチピチと踊る頃も遠からじ。
人もまた夏着に更えて身は軽く、心も軽い陽気な威勢(いなせ)な人でありたい。
夏こそ人生の最盛期である。

 6月は夏の始まり。
然もこの月は午の月にあたる。
午は方位で鑑(みれ)ば南(=皆身)を指す。
時間では昼の11時から13時の間、即ち正午である。
真っ昼間なるがゆえ勢いがあり、仏教では勢至菩薩(せいしぼさつ)が午年の人と云われるが如く、何事も勢い以て実行すれば目的達成に至るのである。
日中の長い時期、草木も温情と明るさを持続し、人々の成長を目指して大いに伸展してゆきたいものである。
この勢いある好季を迂闊に日を送らず、積徳すれば寒風をさすに至っても畏れ無き余裕ある自己と成れるは必然である。

 而して最盛期の夏であっても、夏ゆけば待たずして秋が、そして終歳の冬が来るように、誰彼の差別も容赦もなく人生の終点は訪れるのである・・・。
時は流れる。時と云う流れに押し流されて、長短はあれど刻一刻「生まれ故郷」に近づきつつあるのである・・・。
それこそどんな高官の士(ひと)でも、悪鬼の如く云われる極悪の人も皆、これこそ実に平等である。下流に向かう筏の如き萬人共に同じ運命にあるのである。

 6月、この月はこの年の上半期、終わりの月である。
暦の上でも分かるように夏至を過ぎ、この日を境に陽の運行は日一日と下り坂となる。
昼の時間も今日より明日、明日より明後日と短くなってゆく・・・。
「一日でも永く生きたい・・・」
この願いはきっとほぼ全ての人が同じであろう・・・。
が、而して長命といっても百歳を数える人は極希で、この人達も漏れることなくいつかは必(きっ)と命(みこと=仏)になる・・・。
人は兎角、明日の命があると思うからうかうかと成さねばならぬことを明日に延ばし、大切なる今日、我に二度と無い今日を無意味に過ごし、後悔を繰り返すのである・・・。
今の若さは、今の元気は何時迄も続くものではない。やがて来る老いの身・・・。これに備えて、今生きている尊さ、・・・いや、生かされている尊さを悟り、生きて甲斐ある人生を精進し、徳を此の世に残したいものである。
今日一日、今日一日に我の全生命を懸け、喜びと感謝に満ちて、充実した真実の命ある一日を生き続ける。世の為、人の為にと・・・。 而して真行が我が身を守り、晩年まで安楽に過ごせ得る依因(ゆえん)であろう。

 諸行は確かに無常である。然し総てのものが変化すればこそ、其処に花が咲き実も結ぶのである。
様々な古き教えに因って善くなり、更に生き抜いてこそ甦るのである。
人間、古腐っては元も子もなくなる・・・。祖先や先達の教えに従い、今までの世を生き抜いてきた諸先輩方、自己の善心を喚起しておられる御仁は例え肉体的に古くとも精神は常に若く活き活きとしている。
否、主たる精神が若ければ、従たる精神も若返っている。
茲に有難く健康の身体で過ごせ得る。従って苦しい目に、辛い目に、痛い目に遭わない。苦い薬も要らない、注射も要らぬ、暇もかからず、金のかからぬ身体で居られる。自然の恵みが手先足先まで、内臓の各部に隈無く行き渡っている・・・。
これこそが真の健康な人ではなかろうか。

 どんな事が現れてもビクビクしない、悩まない、驚かない、心に屈託がない、自分が苦労することに依って人が助かる、たった一つの心をあちらこちらに配達しない・・・所謂心配しない、全てを処理して苦労を苦労としない・・・。
ひたすら尽くして世が明るくなると喜ぶ心には苦労が苦労でなくて、凡てが明るく解決されてサラサラと事が片付いていく。
自分(おのれ)を正しく生かそう、と思う者は自分本位では駄目なのである。
それは他人が正しく生きるのを邪魔しないことで初めて自己を正しく生かすことも出来るのである。
「自分を益々生かす、自分の仕事をいよいよ完全にする。」
この要求が自分自身にない人には人類の意志、思惑は感ぜられない。
世の為、人の為に、学んで弛まず、教えて疲れないものにして、初めて人類の意志に忠実な、己の生命、他人の生命の完成の為に働く人と云えよう。
人間の内で尊敬される人とは、かかる素晴らしい生き方の御仁であり、自己完成に忠実な人は、つまりそういう御仁である。

 人間、「此の世に嫌々生きて来た」では仕方があるまい・・・。
神の分身たる尊い筈の人間が「此の世を嫌がってやっと生きて居る」では、それは不自然の人生、生き方である。
それは人間の目的をあまりにも知らない・・・「哀れな人達よ」と云っても失言ではあるまい・・・。
「人間とは何か?何しに此の世に生まれさせられて来たか」を知り、悟るべきであろう。
己自身が悪運命に泣くと云うことは、全てのものに「調和」が欠けているからである。

 この恵み豊かな大自然の懐に住み、生かされ乍らも、その有り難さ、勿体なさに気付かない・・・。真に尊い自己の本性を悟ることの出来ぬ哀れな人である。
斯くの如き人達が一歩歪(くる)うと恐ろしい悲劇が何処でも転がっている・・・。
親子、夫婦、嫁と姑、友人関係、仕事上の関係、学校での師弟関係など、日常生活で繰り返される対人関係の中で、人は傷つけ、傷つけられ、殺しもし殺されもする・・・。

自己中心性・・・。

そこから出てくる言葉や態度、或いは行いがどれだけ人々を傷つけ、毒しているか・・・。
存在そのものが与える影響も実に大きいのである。人々を動物にするか、阿修羅にするか・・・、日常の関係で決まってしまう。
そのようにして一人ひとりの上に蓄積した怨念や欲情の狂いが、大自然、神仏との関係を遮断し、困難を呼び、禍を招くのであろう・・・。
禍というものは「無理と思ったこと」それ自身の変化ではないか?
「不自然」「不調和」なエネルギーが種々(いろいろ)と逃げ場を失った、挙げ句の果ての限界的爆発と考える。

 人間相互の行為は、その奥底に、皆それぞれ、それだけの深い理由があると見聞する。
人から苦しめられるのは、苦しめられるだけの罪を持っているからであり、褒められるのは、褒められるだけの訳があるからではなかろうか。何事も理由なしに出てくるものではなかろう。
 人を尊び大切に思う心が在ってこそ、人への助言が生きてくるものである・・・。
心の奥底に好意を持っていない人は如何にその言葉や態度が慇懃丁寧を極め足りても、何処やら冷たいところがあり、寄りつきにくいところがある。
言葉や態度に一時の冷静さや峻厳さがあっても、その心の底に好意が潜んでいる際には、なんとなしに一種の感銘を受けるものである。・・・よしや、一時は恨んでも、後になって有難く、懐かしく思うものである。

 要するに根本に於いて相互に好意を持ち合うことが、一番簡単で、一番徹底した礼儀だと思う。この真の意味の礼儀が行われさえすれば、世の中は期せずして楽しく、暢やかに有難くなるであろう・・・。
思いやりの心、好意ある言葉。こういうものをいくら振りまいた処で、損する訳でも減る訳でもない。人に接しては、常に相手に対して良い感じ、暖かい気持ち、平和な、愉快な、なんとなしに懐かしい、有難い、という感じを与えたいものである。

 それには洋々たる度量、臨機応変の才と縦横諧謔(じゅうおうかいぎゃく)の才とが必要である。 その昔、我が国で武技の達人が尊敬の的であったように今は学問というものがそれになっている。

 なれど今度は「真の人格」が標準に成らねばならぬ。
偽善や虚偽で、自己と世間とを誤魔化しているような「偽の人格」、ドーナツ人格者(注釈)を志してはならない! 
ひからびた道徳の絆に尚、黙々として繋がれている人々よ!
目を上げて天を仰げ!地を見よ!
何のこだわりもなくスラスラと伸展して止まぬ大自然の自由さを味わえ!
善なる心構えは如何なる環境にあれ、怨み、妬まない心が確立する。
斯くして幸福と平和な世は其処から地上に築かれるのであろう!
 

注釈:ドーナツのように表面は膨れあがっているが、中身が空洞な人のことを指す。

当社 会報今月分 原稿転載

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