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2006年7月17日 (月)

苦は楽の種!

 ガキの時分、父や母から「苦労は買ってでもせよ」などと、しばしば云い聞かされたものである。
私達は人生に於ける辛酸を寧ろ自ずから進んで求めるくらいの心構えが必要では無かろうか。
人間は此の世に生かされる限り「苦」はつきもの、「苦の娑婆」だとも人は云われる。
総ての人がこれで良いとは云えない。あらゆる人が多少の悩みや苦労は持っているものと思われる。

 1×9の答えは9、2×9は18(1+8で9)、3×9は27(2+7で9)、・・・5×9は45(4+5で9)、7×9は63(6+3で9)、9×9は81(8+1で9)・・・「9=苦」をかければ最後の答えは全て9、即ち苦・・・であるが如く、全て此の世は「苦」がつきものである。
 然れどその9(=苦)を乗り越え10「=充(みつる)」に到達すべく努力をし、真に充実した己を見出すことが賢明である。
 人間、この「苦」から逃避ばかりしていると、何時まで経ってもそれを乗り越えていく力が備わらず、何事にも挫折してしまい、虚しい人生に終わってしまう事になる。苦しみや辛い事や悲しみを、人間向上のための「有難い試練」だと素直に受け入れ、戴いて行く処に価値のある人生修行が生まれるのである。
 運営に対する苦労、対人関係に於いての悩み、嫌いな仕事、家庭上の悩み、種々雑多であるが、中には「触れ合い恐怖」なるものもあるそうで、これは現代の若者に特に多いと見聞している。
 「人」と「人」との間を「人間」と謂う。此の世は男と女の為せる社会である。成る程、うまい付き合いならそれでも良い。然し付き合いも不調をきたすと、「苦」や悩み、時と場合で怒りも生ずる・・・。一方、争いや傷つく事を避けたい心理は、一面では優しさに通ずる。・・・取り越し苦労だろうが、人は本来、一人では生きられぬように生まれついている。私は幼稚な心の発案か・・・ある意味で無頓着な人になりたいと思っている。

 そこで私の師が以前話していた言葉を御紹介したいと思う。

「私個人の生活に於いて、『宜しく衣食住を消極的にして足りる人間』、これが良いと言い切る人間、自分で行こうと決めつけた当時(ころ)、僅か四十五才の時だと記憶している。それから直ぐに実行。七十八才の『悩まない』人生が始まった。『先生はおいくつ?』『はい。七十八才です。』と嘘吹いてきた。自分自身、結構楽しい世の中であった。然れど、光陰は矢の如しとか・・・。知らぬ間に本当の七十八才を夢中で通ってしまって現在は八十六才。高齢ともなると『老苦』と云うくろうもある。尚、八十六才とは『やむ』・・・。病むに通じてか『病苦』と云う。苦労もあるが、あちこち痛むのも生きている証拠だと感謝している。様々な形で人とかかわり合い、人の世話になることで生きている・・・。人生とはそうしたものだ・・・。」

 私も年を重ねたときにそう在りたいと心から思った・・・。
多くの人とかかわり合えば、時に依っては感情の縺れも出よう・・・。だが、それをうまく乗り越えて、より深い結びつきに発展するのではないか・・・。
若い人達を如何に上手く大人社会に迎え入れるか。それは大人の側の責任でもある。
かと云って、素直の心、信じる心、従順な心、敬虔な心、勇気ある心は一朝一夕にして出来上がるものではない・・・。
ゆっくりと造り上げられるものなのである。それも幼い時ほど大事なのである。
子供の理解はとても早いもので決して分からないものではない。
例えば、赤ちゃんが必死で泣いて訴えても聞いたか聞こえないのか、母親も父親も何も答えてくれない。其のことの不安から赤ちゃんは一想(いっそう)声を張り上げて訴えるのである。
その赤ちゃんに対して、声が聞こえたら
「あぁ、聞こえるよ。もう一寸(ちょっと)待っていてね・・・。待っていてくれてありがとうネ・・・。」
と必ず声を交わしてあげることが親と子のしっかりとした「つながり」を築き上げていくものである。
 赤ちゃんの時には玩具(おもちゃ)のように扱い、可愛い、かわいいで育てて、大きくなってからは
「ああしたらいけない、こうしたらいけない」
などと
「行(い)けない、生(い)けない」
と言う。
こうして育つ子供は素直な心や信じる心、従順で敬虔な心、勇気ある心を持つことは出来得ない。
結局は親や周囲の人の態度こそが子供の心を育てていくものである。
 こういう親は肉体だけをつくって、一番大切な 、その魂や心をつくることを忘れてしまっているのである・・・。

 私達は肉体と幽体(ゆうたい)・・・精神、つまり「魂」とで成り立っている。
肉体だけをつくっても、心や魂をつくることを忘れての毎日と成っては大変なことである。
 その大切な魂は・・・生まれてからでは遅すぎる。
それは受胎する前から準備するもので、人間一人をつくり上げていくためには、気を抜いたり、惰性での生活では立派に育て上げられるものではない。
 成人となっても然り。言い換えれば、職業選び、配偶者の選択、生き方などについて「大人」としての自己の決定を行い、社会や組織の中に一定の位置付けを得る時期に入っている訳である。
 そうした踏ん切り、決着をまさにつけようとしているか、或いはその為の準備期間のただ中にある。 このことを先ず自覚してほしいものである。
 其処には「喜怒哀楽」あり、苦しみもあり、辛さもある、憂いもある。
 人間、憂いごと多き人がやさしさがあり、優秀の人の「優」である。

 また、「味わう」という言葉がある。
唯箪に体験するだけではなく、それが持つ意味を充分に理解し、感じ取っていくことである。 苦しみや悲しみをあるがままにそのものとして味わうことに依って、自分の心の糧としてゆくことが出来、そこで初めて他人の苦しみや悲しみも理解でき、温もりの心が養われていくことになるのである。
 苦労をともに味わい、噛みしめて、深みのある人生を悠然として闊歩して行きたいものである。
 今にしてみて昔の人は偉かった。
「苦労は買ってでもせよ」
と。そう・・・。
 「苦楽」と云われるとおり、苦は楽の種でもあった・・・。して、多く辛い事や苦しい事、「種々」な「め」に遭った人程、人生は喜びに満ち溢れるものである。
 それを発見できるのは、そう、感謝の心である!
苦中楽あり、楽中苦あり。晴れたり曇ったりの心の空に花も咲けば嵐もある・・・。
冷たい冬に寒難(=艱難)なんぞ梅の花咲く、一目見て枯れ木に見える桜木も、春来たりなば、花の王者だ。人間苦労から逃げてばかりいると、反って苦労がつきまとうものだ・・・。

 世の中を 渡り比べて 今ぞ知る

 先程、言葉を紹介した師の句である。

この句に触れて思う事は、私自身も過ぎ越し方をふり返り見れば、随分と危ない崖っぷちも数多く渡って来たものである。
人は、死ぬに死なれず、生きるに生きられぬ破目に陥る事が幾度(いくたび)なくある。
だから此の世は苦しい、淋しい、辛い・・・。
然れど本当は苦しいのも、淋しきも辛いのも、全(みな)自分であって世の中ではない。

だが・・・、種々のめ(=芽)に遭わされた人こそがものが解るであろうし、人に優しくでき、されるのである。

以前に以前に会報に載せた文章ですがそのまま転載致しました。

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