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2006年9月 3日 (日)

現代と神道 ~その4~

 さて、前回の続きです。

今回でイザナギノミコトとイザナミノミコトの黄泉の国禊ぎ祓いの行も最終回です。

 黄泉の国からやっとのことで逃れて国へ帰ったイザナギノミコトは次のように洩らしたのでした。

「思えば私は、なんて厭な、醜い、汚いところへとわざわざ出向いたしまったのだろう・・・。私の身体はすっかり穢れてしまった。この身体を『禊ぎ』して清浄にせねばならない・・・。」

そう言うと「筑紫の日向の小戸の阿波岐原(ツクシノヒムカノオドノアハギハラ)」において穢れた身体を浄めるための「禊ぎ祓い」の儀式を行うことにしました。

 まず最初に手にしていた杖を投げ捨てると、その杖は黄泉比良坂に突き刺さり、「この禍に近づくな」というツキタツフナドノカミが生った。次に帯を解いて投げ捨てると、道中の安全を守る、場合によってはそこに危険をもたらすミチナガチハノカミが、次に腰の下に巻いていた裳を投げ捨てると、「死穢」を解き放つ、またはそこへ解き置くというトキハカシ(トキオカシ)ノカミが、次に上に着ていた衣を投げ捨てると、禍から免れた、または患いを内包するというワヅラヒノウシノカミが、次に褌を投げ捨てると、衢を守り、または分かれ道の迷い神と云われるチマタノカミが、次に冠を投げ捨てると、「穢れ」が明けたことを示す、または「穢れ」を内包するアキグヒウシノカミが、更に左手に纏いた玉飾を投げ捨てるとオキザルノカミオキツナギサビコノカミオキツカヒベラノカミという、海の沖、渚、その中間の海を守り、または禍をもたらす三柱の神が、右手の玉飾を投げ捨てるとヘザカルノカミヘツナギサビコノカミヘツカヒベラノカミという水平線を守り、または禍をもたらす三柱の神が生まれました。

それまで身につけていたものを全て脱ぎ、または外すことに依って、そこに付いていた「穢れ」と、その穢れが付着していたイザナギノミコトがお召しになっていた「着物」から「禍」とその禍から「守ったり」、それを「直す」両面を持ち合わせた、十二柱の神々が生まれたのでした。

 こうして全てを脱ぎ捨てたイザナギノミコトは朝日にきらめき輝いている海面に眼をやると
「上の瀬は潮の流れが速い。下の瀬の方が流れが緩やかだ。」
と呟き、中の瀬のあたりにザブンと飛び込み、冷たい海に潜り、身体に水をくぐりながら洗い清めて行くのでした。
その時生まれた神の名は八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)次に大禍津日神(オオマガツヒノカミ)でありました。この二柱の神は、かの醜い黄泉の国に行った時に、身体に付いて来た「穢れ」が基となって生まれ出た神でありました。
この「穢れ」を直そうと、次にイザナギノミコトの身体を伝い流れる水から生まれたのが神直毘神(カムナホビノカミ)、次に大直毘神(オオナホビノカミ)でありました。
そしてその「穢れ」が濯ぎ落とされ清らかになったことを示すイズメノカミがお生まれになります。

 そしてもっと深く潜られ、底へとたどり着いたときにお生まれになった神の名は底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)底筒之男命(ソコヅツノオノミコト)浮き上がってくる途中でお生まれになった神の名は中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)中筒之男命(ナカヅツノオノミコト)、海面に近づいたときにお生まれになった神の名は上綿津見神(ウハワタツミノカミ)上筒之男命(ウハヅツノオノミコト)、いずれも海路や港を守る神であります。
そしてこの三柱のワタツミノ神は朝廷に海の幸を献上していた阿曇連(アズミノムラジ)の祖先と言われています。
また、三柱のツツノオノ命は墨江、後の住吉大社の祭神であり、ここから全国の住吉神社へとお祀りされるようになりました。

 そして、やっと海面に顔を出したイザナギノミコトが左の眼を洗うと天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、次に右の眼を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)が、最後に鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)がお生まれになったのです。

ここにお生まれになったヤソマガツヒノ神からハヤスサノオノ命までの十四柱の神は、身体を洗い清めたことによって生まれ出た神でした。

 ここに於いてイザナギ大神は心から歓喜の声をお上げになり、次のように言いました。

「私は次々と子供を生んできたが、その最後にやっと、三柱の世にも尊い子供達を得た。」

そう言うと頸に掛けていた玉飾を手に取り、きららかな音色を発しゆらゆらと響くそれを天照大御神に手渡すと、

「お前は私に代わって高天原(タカマノハラ)を治めよ。」

そう命じ、天照大御神は仕事を請け負ったしるしに、その玉飾を賜りました。その玉飾を御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)といいました。
次に月読命には、

「お前は私に代わって夜之食國(ヨルノオスクニ)を治めよ。」

そう命じ仕事を任せられました。
次に建速須佐之男命には、

「お前は私に代わって海原を治めよ。」

そう命じ、仕事を任せられました。

こうして全てが三人の御子達の手に委ねられたのでした。

さて、ここでやっとイザナミノミコトの死後、黄泉の国へと赴き、それを追って行ったイザナギノミコトが現世に戻り、「禊ぎ祓い」を行い、「三貴子」と呼ばれる日本の八百萬と云われる神々の中で最も尊い神様をお生みになり、そして自らの跡継ぎとして「事依さし」された、というわけです。

前回の分から余談もいくつかあります。
例えばイザナミノミコトが黄泉の国で作った食事を取ったが為にその一員になってしまったことは「同じ釜の飯を食う」の語源になっていると言われていたり、イザナギノミコトが櫛の歯を折って火を灯したことで不吉なものを見てしまったことから「折れた櫛は使うものではない」なんてことが言われる様になった、なんて言います。それと今回、「三貴子」をお生みになった後、古事記の原文においてイザナギノ「命」がイザナギ「大神」と呼称が変わるのですが、それは跡継ぎをお生みになって御隠居されたから、などとも言われます。

それはさておき、ここでここまでの一連の流れで私はあることを思います。

それはイザナミノミコトの死後、その悲しみを忘れることの出来ないイザナギノミコトはそれを追って黄泉の国へと赴かれました。
それは妻を愛するが故の行動であり、その妻が死んでしまったその悲しみや心の隙間を埋めることが出来なかったが故の行動であると思うのです。
その悲しみは黄泉の国へと向かう前に「殯(もがり)」をしていた時点でも明らかだった訳ですが、それでも彼の気持ちは収まらなかった、ということです。

これは現代に於いて考えてみても似たような事例は在るのではないでしょうか・・・。

先日、私のごく身近な方がお亡くなりになりました。
その方はもう、齢八十も数えられ、今年に入ってからというもの入退院を繰り返されていました・・・。
そしてつい先日、お亡くなりになったのですが、お亡くなりになったとき、周囲の方々(特に余り近くないご親族の方々)は

「もうこれだけ生きて、最後は病んで苦しんだのだからもう大往生だ。あんまりメソメソ泣いてちゃいかんだろう。」

と仰っていました。が、奥様やお嬢様はとても悲しまれていらっしゃって、そんなとても「大往生なんだから・・・」というような言葉を掛けられる、そんな状況ではありませんでした。

いくら年を取っても、「大往生」と周りから言われても、身内のものが悲しいと思うのは当たり前のことであり、或る意味当然のことなのだと再確認しました。

この方の葬儀は「神葬祭」で行われ、私は祭主としてお務めさせて頂きましたが、どんな葬儀もそうですが、亡くなった方の「人柄」が垣間見えるものなのです。
それは「人」が「命(みこと=神)」になっていく過程でどれだけの「想い」を背負って行けるか、神となるに相応しいだけの徳があるのかどうか、ということでもあるのではないかと感じます。

少し話が横道に逸れましたが元に戻したいと思います。

人の死はどんな状況で在っても悲しいものですが、その後の様々な悲しみや苦しみ、辛い、哀しいという思いを乗り越えてこそ、何か新しい、大切なものが生まれてくるのではないでしょうか。

イザナギノミコトは黄泉の国で散々な目に遭いました。
しかし、そこで身につけてきた「穢れ」を禊ぎ、祓い清めると禍神が生まれ、それらを正す神が生まれ、そして最後に自らの跡継ぎとも言うべき「三貴子」がお生まれになった・・・。

人の死が様々な「争い」や「諍い」を生むこともあることでしょう・・・。
しかし、それを正す行いも生まれることでしょう。
そして、その亡くなった方を偲び、想いを馳せることで、その方が残してくださった尊い「教え」「御言葉」を思い出すことも出来るでしょう。

その「教え」「御言葉」から自らが迷ったとき、その迷いを晴らしてくれる、進むべき道を指し示して下さることもあるでしょう。

前回、「生命の縦の繋がり」、即ち「Eternal  Life」と書きましたが、そんな「永遠に続く生命の連鎖」も生まれてくるのではないでしょうか・・・。
そしてその連鎖を断ち切らない為にも、我々は後世を生きる者達に何を残さねばならないのでしょうか・・・。

そして我々は先人が残して下さった尊い「教え」や「御言葉」から何を学ぶべきなのでしょうか・・・。
それらを学びとることが出来たのなら、それを受け継いでいかねばなりません。

そして・・・・・私達は護らねばなりません。

この国の歴史を・・・伝統を・・・。
この国の美しい国柄を・・・。

そして「死」の悲しみを乗り越えることで我々は何を得ることが出来るのか・・・・。

現代における様々な問題も先人が残して下さった「教え」や「御言葉」の中に答えが見つかることもあるでしょう。
私はブログでも良く申すことなのですが、
「温故知新」
今、その意味を深く、そして真剣に考えるときなのではないのだろうか・・・そんな風に思うのです。

でもそれは、そんな難しく考えることでもないと思うのです。
まずは身近なところから始めてはいかがでしょうか。
もう、お盆は過ぎましたが、今からでも遅くはありません。
今年行かれた方も、行かれなかった方も、御先祖様のお墓参りから始められてはどうでしょうか?
別にご自分の御祖先ですから、お盆に限らず、いつでも、毎月でも行かれるのが良いと思います。

だいぶ時機を逸してしまいましたが(反省)、皆さん、今年のお盆はどうでしたか?

今回はメチャクチャ長文になってしまい、読みにくかったことと思いますがどうかご容赦ください。

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コメント

のりさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。

いえいえ。
見解を御教え頂けることは大変勉強になります。
ニュートラルな見地からの御意見は大変参考になりますので有難いです。

>慈愛にならない人が多いと言う意味で私は危惧しますね。

これは私も同感です。
どうしたら「慈愛」に満ちた国民性が創り上げられるのだろう、などと或る種の「妄想」をしております・・・。(苦笑)

わざわざレスポンス頂きまして有難う御座いました。

投稿: 管理人 | 2006年9月21日 (木) 23時40分

浅学な意見で申し訳ございません。
ただ単純に思っただけなので軽く聞き流してて構いませんので
(^ー^*)ゞ
で自己愛なのですがそうですね。慈愛にならない人が多いと言う意味で私は危惧しますね。この辺りの表現不足も御容赦お願いしま(^ー^*)ゞでは

投稿: のり | 2006年9月20日 (水) 21時34分

のりさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。

「古事記」の内容については様々な見解がありますね。
私の説はその中の一つ、若しくはいくつかを合わせたような、私独自の見解もあります。
のりさんの見解も大変興味深いものですね。
「ホノカグツチ」を斬り殺してしまう「イザナギ」の行のところからですかね?参考にさせていただきます。

「故きを温ね新しきを知る」
この言葉はまさしく読んで字の如くでありますが、この事柄について考えるとき、「或る前提」を忘れてはならないと思うのです。
他エントリでも書いていますが、自らの存在意義に何を見出すか、と云うことです。
「自己愛」というものは必要なものであり、それを知ることからまず全てが始まるとも考えることも可能です。
例えば「大己貴命(オホアナムチ=大国主神)の話なんかもそうですがこの神は八千矛神(ヤチホコノカミ)とも云い、戦いの神でもあります。
この神は自分自身のことを護るために戦いに明け暮れていたが、或る時、その「己」というものは、この「大」なる世界に生きる全ての者達が同じように「貴」い事に気づき、その矛を収め「大己貴命」へと変わっていったと云うお話もあります。
即ち、「自己愛」無き者には自分、他人にかかわらず「愛」そのものが芽生えないのではないか、と云うようにも思える節も無くありません。

強い「自己愛」から全てのものに対する大いなる「慈愛」へと変換させることが重要なのでしょう。

興味深い論考を有難う御座いました。

投稿: 管理人 | 2006年9月18日 (月) 18時55分

こんにちは。ご無沙汰しています
黄泉の国に行くと言う内容は私見ですが(^ー^*)ゞ濃密な家族関係を表していてもしかしたら子供を殺した後自分も死ぬと言う日本独自の家族愛の?姿を表しているのかもしれません。これは一概に批判しているのではないのであしからず…
温故知新は今の日本で本当に必要です。古い物は全て改革という米国式で日本に何が残るのか?最近よく思います
又組織であっても個人であっても悪くしようとしている人はいないはずでその考えを考慮しながら今をよくすべきと思うのです
それを見ない人が多いのは自己愛が余りにも多いからでしょうか、

投稿: のり | 2006年9月17日 (日) 08時37分

かついちさん、こんにちは。
お知らせ有難う御座います。

今、拝見致しましたら前ブログの記事はアップされていないようなので、前のところもそのままリンクに残しておきますね。
何か不都合な点が御座いましたらお手数ですがご一報下さい。

これからも良いエントリを書いて下さいね。
益々の発展と御健勝をお祈りいたします。

投稿: 管理人 | 2006年9月10日 (日) 11時09分

エントリーとはまったく関係ないですが、私のブログを移転いたしました。内容ともに充実した物を目指して今後も皆さんに負けないような記事を書いていきたいと存じます。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

投稿: かついち | 2006年9月10日 (日) 09時59分

ichiroさん、こんにちは。
コメント有難う御座います。

現在ichiroさんがお書きになっているエントリを大変興味深く拝見させていただいておりました。
続きを楽しみにさせていただいております。

何か私のエントリで刺激が得られたようで嬉しく思います。
こちらこそ今後とも宜しくお願いします。

投稿: 管理人 | 2006年9月 9日 (土) 10時34分

神主様

お久しぶりです。学兄のコメントに触発された記事を書きました。
トラックバックします。今後ともよろしくお願いします。

投稿: ichiro | 2006年9月 9日 (土) 10時06分

かついちさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。

>人の死に直面するとき、・・・・・それどころかどこか自分で割り切ってしまうところがあるようです。絶対悲しいはずなのにどうしてもダメなんですね・・・。

人には各々、自分を守ろうとする本能というものがあるようです。
かついちさんの場合はそういう客観的に判断をしようとすることでそういったことに対応しているのかも知れません。

>人の死と生は繰り返されるもの、どこかで断絶してしまったら人の命の根源は何をどう辿ればいいのか路頭にまよってしまいますね。
>私は毎年お盆と命日、先祖の墓参りは欠かしません。自分の命の根源は先祖から授かったものという意識があるから、決しておろそかにしてはいけないのだと思うからです。

私はそういう「繋がり」を理解しようとする心は必ず行動に表れ、その人物の「人柄」に顕れるものだと信じています。
そういった人物は今の現状からどんどん良くなっていくであろうし、またそういう基を作ることをやめてしまってはいけないでしょう。

例えば、現代は「高齢化社会」です。
それに伴い、「介護保険」を始めとした「高齢者福祉」が盛んに行われ、奨励されています。
然し乍ら、それまで育ててくれた父母が高齢に達し、いざ今度は自らが「介護」という形で恩返しをせねばならなくなったとき、自分達がどうにかこうにか時間を作り、面倒であっても「介護」をすることが出来たなら、それを見た自らの子供達は将来、きっと自分達を「介護」、若しくは自らと共に暮らそうと努力し、幸せな家庭を築けるようになることでしょう。
反対に、自らの忙しさなどの理由に託け、その高齢者福祉の制度を乱用し、自らを育ててくれた父母を蔑ろにし、子供としての忠孝を放棄したとすれば、その親の姿を見た子供達は恐らく・・・・。

「子は親を映す鏡」です。

自らの根源を知り、その根源に対して礼を尽くすこと。
「御守護」とは読んで字の如く、「守り」、「護られる」ことです。
御先祖様があり、今の自らの生活を営むことが出来るのです。
その御先祖様を「お守り」することとは、其れ即ち、先祖参り、先祖供養に他なりません。
それを欠かさずに行うことによって、また「御護り」戴け、我々から子孫までの繁栄の基となることでしょう。

>人が生まれることも動物が生まれることも、いろいろな因果、ご縁があるからこそ奥が深く、それだけに貴重なものだと思います。

そんな心掛けをお持ちになってらっしゃるかついちさんには「釈迦に説法」かも知れませんね。

長文乱筆にて失礼致しました。
また、文体が少し偉そうになってしまったかも知れませんがどうか御容赦賜りたいと存じます。

貴重なご自身の体験をお話下さって有難う御座いました。

投稿: 管理人 | 2006年9月 7日 (木) 00時18分

私は今年の6月に母方の曾祖母を亡くしました。89歳の生涯でした。戦前沖縄から本土にわたって曾祖父の後妻に入られ、子供や孫、ひ孫を見守り、曾祖父死去後穏やかな日々を送っておられていましたが、ご高齢にはやはり勝てなかったようです。
人の死に直面するとき、私は父を亡くしたときもそうでしたがどうしてもその現実を受け入れることができず、それどころかどこか自分で割り切ってしまうところがあるようです。絶対悲しいはずなのにどうしてもダメなんですね・・・。
本日は皇室のご慶事であまりこのような話題はふさわしくないかもしれませんが、人の死と生は繰り返されるもの、どこかで断絶してしまったら人の命の根源は何をどう辿ればいいのか路頭にまよってしまいますね。人が生まれることも動物が生まれることも、いろいろな因果、ご縁があるからこそ奥が深く、それだけに貴重なものだと思います。
私は毎年お盆と命日、先祖の墓参りは欠かしません。自分の命の根源は先祖から授かったものという意識があるから、決しておろそかにしてはいけないのだと思うからです。
命の誕生はどのような立場であれ、祝って当然であり、生まれて欲しくない命なんてこの世に一つもありません。そういう心がけ、誰しもが持って欲しいし、持っていなくてはいけないのではないだろうかと思わずにはいられません。

投稿: かついち | 2006年9月 6日 (水) 17時11分

milestaさん、こんにちは。
わざわざお返事有難う御座います。

いえいえ、どうかお気になさらずに。
話が私事で大変恐縮ではありましたが、それがmilestaさんのお役に立ったのであれば私自身とても嬉しく思います。

milestaさん自身もどうか御自愛頂きますよう、切にお願いを申し上げます。
こちらこそ有難う御座います。

投稿: 管理人 | 2006年9月 6日 (水) 16時13分

非国際人さん、こんにちは。
コメントとトラックバック有難う御座います。

素晴らしい御言葉ですね。
私も「死」に至るときは、そんな心持ちで居たいものです。

>私たちは物質的なものにこだわりすぎるので、この言葉を深く心に刻み、いつも思い出していきたいと思っています。

本当に大切なことですよね。
私も心に刻んでおこうと思います。

貴重なご自身の体験を有難う御座います。

投稿: 管理人 | 2006年9月 6日 (水) 16時00分

神主さん、哀しい出来事を思い出させてしまったようで申し訳ありません。そんなご経験をお持ちだったのですね。それで、生き方とか命とかについて書かれると、奥の深い、説得力のある言葉が響いてくるのですね。
亡くなってしまった方からも、何かを学び、伝えていくということが大切なのですね。
自問自答にもコメントをくださり、ありがとうございました。本当は、やりきれない思いに何か言葉が欲しかったのかもしれません。本当にありがとうございました。

投稿: milesta | 2006年9月 5日 (火) 20時46分

トラックバックありがとうございました。

個人的な話で恐縮ですが、昨日義母の墓参りに行ってきました(ブラジル人なのでカトリック式ですが)。その時いつも感心するのが彼女の墓銘碑で

「私は財産は残さなかったが、人生の手本を残した」と書いてあるんですね。

おそらく有名な言葉かも知れないのですが、亡くなられた方に対するこういう心の持ち方って、非常に大切なのではないかと思いました。

ともすれば私たちは物質的なものにこだわりすぎるので、この言葉を深く心に刻み、いつも思い出していきたいと思っています。

投稿: 非国際人 | 2006年9月 5日 (火) 06時32分

milestaさん、こんばんは。
コメント有難う御座います。

今回のエントリは私自身が書きたいことが多すぎて、話があっち行ったり、こっち行ったり、飛びすぎてしまって最終的に書きたいと思ったことが収まらず、取り留めが無くなってしまいました・・・。
さぞ、お読みになりにくかったのではないかと反省しております。
近いうちにもう一度、古事記の同じ部分で違ったエントリを書きたいと思っていますが、もう少し、自分自身の思考をちゃんと整理してから書こうと思います。

若い頃、私も同様にして、女性でしたが親友を亡くしたことがあります。
とても悲しく、己の「無力さ」を痛感させられた出来事でありました。
そして何故、彼女が自ら命を絶つと云う行為に及んでしまったのか、そうならねばならなかったのかを真剣に悩み、力になれなかったことを心から後悔もしました。

そして残念なことに彼女の家では、彼女の幼年期から継続的に、父親による「暴力」、そして今思えば母親による「ネグレクト」であろう、「放置虐待」とも云える現状が在ったことを知りました。

私がその後に、彼女の思いを知ることが出来たのは、以前、彼女に貸した「本」の間から出てきた恐らくその当時、彼女から私に宛てられたであろう、なぐり書きのような文章が書かれた一枚の手紙が出てきたときでした。

その手紙に書かれていた一節に

「誰も私に関心がない。興味がない。・・・・・誰も私を見ていない。誰も私のことを・・・・・見てない。・・・・気にも留めない・・・・。」

普段は、とても明るく、一緒に「馬鹿」を言ったり、くだらないことをしてジャレ合ったりして、若かったのでお互いの「恋の相談」などをしたり、将来を語ったりしました。
まさか、そんな想いを彼女がしているとも知らずにいました。

これは今回のエントリに本当は書きたかったテーマとは違い、以前にmergeさんから御指摘いただいた「しなくてもよい苦労も在るのでは」ということに繋がることかも知れませんが、この「古事記」の中にも相通ずるテーマではないか、と思う部分も多々あると感じるのです。

即ち、milestaさんから頂いた、今エントリのテーマである「生命の縦の繋がり」から感じられる部分もその一つであるように考察します。

残された私達が出来ることは、例えば若くして命を自ら絶たれた方々が何故、そのような行為に及んでしまったのか、何故そんなに苦しまねばならなかったのか、その苦しみから抜け出す方法を模索することは出来なかったのか、または模索したが抜け出すに至らなかったのは何故なのだろうか、自問自答を繰り返す、まさにmilestaさんが今、されている思考を繰り返し行い、自らが見出した、若しくは有効であると考えた行動を絶えず試行錯誤していくしかないと考えています。

私が考えるその方法の一つが、以前にエントリにも書いた「苦は楽の種」という会報にも載せた文章です。

「どんな苦労もいずれ花となり、実となる。死んで花実が咲くものか。」

そういう想いで書いた文章です。

苦労と言うには辛すぎる、哀しすぎる経験かも知れませんが、彼女自身がそれを何とか乗り越え、それを花に、実に出来なかったものかと、今でも何も出来なかった自分自身を悔いております。

その為にも私自身はこの哀しかった出来事を自分の血肉にし、周囲の方に役立てることは出来ないかと、常に思考を繰り返す様に心がけています。

私自身の現状での結論は、絶対に「思考停止」に陥らないように気を付け、言動で表し続けること、その経験を糧にその方自身の思考を明るく、前向きに持っていただくように心がけること、そして私の仕事の一端でもありますが、神様の話、信仰の話、世の秩序、理(ことわり)、「公心、道徳心」とは何かなどを語ることで「生命の大切さ」、「公に生きる心」、自分自身の生が何をもたらし、何を意味するのかを少しでも多くの方々、特に子供達に語りかけることを、何かの機会を頂くたびにし続けて行こうと思っております。

「一期一会」

その出会いは最初で最後かも知れない。
何か縁を頂いた方には精一杯の己の誠意を持って接するよう心がけること以外に私に何が出来ようか・・・・・。

常にそう思うように心構えを持つようにしております。

エントリに続き、駄文乱筆にて長文失礼致しました。
本当に読みづらいでしょうが、御容赦賜りたいと存じます。

貴重なご自身の体験をお話し頂きまして有難う御座いました。

頂いた御縁を今後とも大事にさせて頂きたいと思います。
有難う御座います。

投稿: 管理人 | 2006年9月 5日 (火) 01時12分

前半の神様のお話も後半のお話も、とても興味深くて、長くても全く気にならずに読んでしまいました。本当にいつも内容の濃いお話をありがとうございます。
最近身近で若い人が自ら命を絶つという、とても悲しい出来事がありました。友達も多かったようで、家族にもとても愛されていたのに・・・。10年ほど前にも同じような事がありました。こういう若者をどうしたら思いとどまらせることができるのか、どんなに考えてもわかりません。家族の悲しみを見ていたら、こういうことはもう他の誰にもして欲しくないと思うのです。小さい頃から命の大切さを教えたりすれば少しは防ぐことができるのかな?家族や友達は愛情をもっと言葉に出すべきなのかな?この記事に書かれている「生命の縦の繋がり」を丁寧に教えるべきなのかな?(これらは質問ではないので気にしないでくださいね。自問自答です。)このことは、ずっと考え続けていきたいと思っています。

投稿: milesta | 2006年9月 4日 (月) 00時19分

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受信: 2006年9月20日 (水) 18時42分

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