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2006年10月21日 (土)

大雄山 最乗寺

今月の上旬に第4子が誕生し、私事でも多忙な折ではありましたが、職員と総代の方々とで、毎年の恒例行事で神奈川県南足柄市にある、大雄山最乗寺に「お籠もり」へ行ってきました。

今回で61回目を数え、一番古くから来られている総代の方ではもう42年も続けて来られてらっしゃいました。

ここでは毎年、御供式(ごくうしき)を奉納し、翌朝にはおつとめ、大祈祷を致します。

勿論、こちらはお寺さんですから「仏教」であります。

私達、神道に帰依する「神職」がそこへ「お籠もり」するのも妙な話のように聞こえるかも知れませんが、この日本は「神仏習合(混淆)」の国でもあります。

元来の考え方からするならば、「神道」と「仏教」は切り離して単一の物として考えることは不可能なことであり、歴史的な文脈から考えてもそういう側面が垣間見えます。

この最乗寺においても、朝の大祈祷を行う「真殿」には「御神鏡」があったり、「真殿」だけでなく「本殿」にも榊が活けてあったりと、本来仏教では有り得ない、神仏混淆の色彩が見られます。これは唯の推測になりますが、「真殿」ももしかしたら、かつては「神殿」と書き表されていたのかも知れません・・・。

そんな様々な憶測に、この国の精神性の変容を想像を付け加えながら色々なことを考えていました。現代的な価値観や、その価値観を支えている「合理性」というものについて、深く思考を巡らしていました。これについてはいずれまとめ上げ、出来ればこのブログ上でもアップできればと思っています。

ちなみに「御供式」は夜に行うのですが、ものすごく神秘的な式であります。

諸般の事情で多くは語れないのですが、少しだけお話しすると、「目隠しをした僧侶が頭にお供え物を載せ、ものすごい勢いで階段を昇っていって御供えをする」のですが、ハッキリ言って「一見の価値」があります。

今年は一度も雨が降らず、参拝には適した気候でした。

が、この「御供式」を見るときはその日に一度雨が降っていると、空気が湿った感じでものすごく幻想的な雰囲気になるのです。そういう意味では少し残念でありました。

然し乍ら、この忙しさの合間にもこうして参拝させて頂ける有り難さをこの身に感じることが出来ました。

日常の雑事、雑念から離れてこの聖性に触れ、少し頭の中もすっきり出来ました。

たまには通常の参拝だけでなく、こういった修行的な経験も良いですね。

私は年に一度で充分ではありますが・・・・。(苦笑)

更新のペースが滞っておりますが、出来る範囲でこれより前のエントリについても続編を書いていきたいと思います。今回は少し余談でした。

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コメント

milestaさん、こんばんは。
わざわざ有難う御座います。

お話を聞くとかなりリアルなものなんですね。
以前に映画「パッション」を見ることを勧められていたことを思い出しました。

あくまで映画ではあるけれども、宗教学的にもある程度リアルにつくられているという話でしたが・・・。
復活祭はその地方、地方や持っている信仰によって些か異なるというのを聞いたことがあります。
時間を作って観てみます。

宗教儀式の中で参加型のものは人数が増えれば増えるほど荘厳になりますよね。
大変興味深いです。
一度現地で見てみたいものです。

微に入り細に入り、丁寧なご説明を頂戴致しまして有難う御座いました。

投稿: 管理人 | 2006年10月27日 (金) 01時32分

へぇ、「夜にもの凄い勢いで」というのは、またまたびっくりです。
一般の人でも見られる儀式なのでしょうか。

ここからは長くなるので、お時間のあるときにお読みいただければと思います。

シチリアのお祭りも、夜の儀式もありました。
まず、夕方キリストが処刑場(を模した町一番の広場)に連れてこられる。これは、町の教会に置かれていた等身大のキリストの人形が、箱に入れられて棺のように担がれて運び込まれます。その前後に一般市民がきちんと2列に並んで続きます。みんな裸足です。
広場には十字架があって、そこにキリストが磔になり、広場に集まった人々(たぶん数千人)が、歌を歌います。賛美歌なのかもしれないけれど、知らない歌ばかりでした。そして処刑。赤いひもが両手首に巻き付けられます。血の代わりです。その間に日が沈み、真っ暗になるのですが、小一時間人々は歌を歌い続けます。この時は、やはり暗いことが幻想的な雰囲気を作り出し、泣いている人もいました。どこからかマリア様がしずしずとやってきます。これも人形で、立った姿のまま御神輿のように担がれています。ハンカチを持って涙を流し、キリストの死を嘆き悲しんでいます。そして、キリストが降ろされ、透明の棺に入れられて、広場から運び出されます。どこかの教会に安置されます。

そして、一日おいて翌々日に前回書いたような復活劇が行われます。

異教徒からすると、あまりにリアルで、神秘的な感じは薄いのですが、何千人もが歌を歌った時は、心が揺さぶられるような感じでした。私もこの歌を覚えて、一緒に歌えたら!と思ったほどです。

同時期にスペインのセルビアに行っていた友人が、同じような儀式(昼間の方)を見たと言っていました。映像をお探しの際は、スペインも当たってみられると良いかもしれません。イタリアでも、北の方ではそうした儀式はなく、偶像崇拝は南の方がかなり強烈です。
ちょっと前に話題になった映画『パッション』で、これに近いものを見られるかもしれません。ただ、人形でなく人間が演じているので、神秘的な感じはないかもしれませんが。(私は観ていません。)

長々と失礼いたしました。

投稿: milesta | 2006年10月25日 (水) 11時49分

milestaさん、こんにちは。
コメント有難う御座います。

私も初めて見たときは驚きました。
普段自分が目にする祭儀とは余りにもかけ離れていた上に、子供だったこともあり少し怖くなったのを記憶しております。(苦笑)
更に付け加えるならば、この「御供式」は夜にやるのです。
闇の中に篝火を焚いて、より幻想的になります。

そのシチリアのお祭りも機会があったら見てみたいものですね。
今度時間をつくって、映像などがないかどうか探してみます。

milestaさんのブログにもずっとお邪魔して拝読したいと思っておりましたがなかなか伺うことが出来ずに遅ればせながらではありましたがコメントさせていただきました。

こちらこそ、いつも良書をご紹介下さって有難う御座います。
他のエントリも楽しみなのでまたお邪魔します。 

投稿: 管理人 | 2006年10月25日 (水) 10時12分

こんにちは。

>「目隠しをした僧侶が頭にお供え物を載せ、ものすごい勢いで階段を昇っていって御供えをする」

というのが、もの凄く気になります。見てみたい。
以前シチリアで見た、キリスト復活のお祭りを思い出しました。キリストとマリア様と天使の御輿があって、天使がそろりそろりとキリストのところからマリア様のところへ復活の知らせに行く。と、途端にマリア様(の御輿)が、それこそ、もの凄い勢いでキリストを迎えに行くのです。キリストの御輿も走ってきて、御輿同士が出会った途端に、楽隊が「パッパラパー」と元気よく音楽を鳴らして、これが宗教行事なの?もっと厳かじゃなくていいの?と思いました。
巫女をやっていたときの印象から、宗教行事は、静かにゆっくりと執り行われるものだと思っていたので、「速い」というのは不思議な気がします。

ところで、お忙しいのに拙ブログへコメントありがとうございました。

投稿: milesta | 2006年10月23日 (月) 16時54分

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