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2007年2月11日 (日)

現代と神道 ~紀元節~

皇紀2667年おめでとう御座います。

本日、建国記念日(紀元節)の良き日を皆様と共にお迎えできましたことは誠に慶賀の極み、心よりお慶び申し上げます。

拙ブログに於いて、これまで幾度か「現代と神道」ということでエントリを書いて参りましたが、今回は「紀元節」、現在で言うところの「建国記念日」とはいったい何なのか、ということについて考えて参りたいと思います。

一言で「紀元節」について申し上げるならば、初代天皇であらせられる「神武天皇」が天皇に即位され、国を開いたとされる、その日であります。

つまり、今日のこの日は「神武元年の正月」にあたり、神武天皇の即位礼が行われたその日である、ということなのです。

そして神武四年の秋に行われた「鳥見山霊畤」「大嘗祭」にあたり、『日本書紀(神武紀)』には

『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天より降鑑(くだりみそな)はして、朕が躬を光助(てらした)すけたまへり。今諸の虜(あだども)既に平ぎ、海内無事(あめのしたしづか)なり。天神を郊祀(まつ)りて、用(もち)て大孝(おやにしたがふこと)を申べたまふべきなり。乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山に立つ。・・・略・・・用て皇祖天神を祭りたまふ。』

とあります。これは天孫降臨から始まったこの地上世界の統治がやっと形を成し、自らの御東征によって一頻り完了したことを、御祖先に対してご報告成されている様を表されていると思われます。

つまり、125代の今上陛下まで続く「御大礼(即位礼、大嘗祭)」の御代始めは、この『神武創業』に立ち帰る所作の現れであり、「皇祖皇宗の遺訓」即ち天照大神から神武天皇を通じて残された教えを国家経営の基本として受け継ぐための儀礼であり、祖先祀りの原型であると考えられます。

そしてこの「紀元節」「報本反始」即ち「神武創業」のその日に立ち帰る、日本人にとって大変意味のある重要な日であるのです。

ここで考えたいのは、「神武創業」はどのような物語であったか、ということであります。

以前にもこのシリーズで何度か『古事記』について取り上げたことがありましたが、やはりこの物語のルーツを求めるにあたって『古事記』が非常に重要な書物であるといえます。

その『古事記』について、平成10年に行われた国際児童図書評議会世界大会に於いて皇后陛下の御講演があり、その中に次のような御言葉があります。少し長いですが、抜粋しながら引用させていただきます。

・・・前略・・・

『私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語(注:古事記)を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は正確な史実ではないかも知れませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。』

・・・中略・・・

『この本(注:古事記)は、日本の物語の原型とも言うべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみを持つ上で、これは大層楽しい入り口ではないかと思っています。』

・・・中略・・・

『それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。』

・・・後略・・・

恥ずかしながら、私も常々「日本は『古事記』の国」と講演をする時などに申し上げるのですが、皇后陛下のこの御講演の御言葉からの受け売りであります。

「建国記念日」「紀元節」を考える時に、恐らく多くの人々は、なくてはならないはずの『民族の起源伝承』がスッポリと抜け落ちているのではないでしょうか・・・。

悲しいことに、現在この国で多くの場面で使われる暦は「西暦」即ち「キリスト教暦」なのであります。

が、しかし、日本は「聖書の国」ではありません。「古事記の国」であるはずなのです。

この「紀元節」に改めて、先人の残した教え・・・日本古来の在り方とその伝承が如何にして受け継がれているのか、我々日本人は考えねばならないと思うのです。

フィンランドの子供達は『カレワラ』を読んで育つ・・・ならば日本の子供達は『古事記』を読んで、もっと日本の神話に親しみを持ち、理解を深めることで自分たちの淵源を知ることで、自分達の生まれたこの国に愛着を持ち、そしてまた祖先祀りの大切さを知ることが出来るのではないでしょうか。

天皇陛下の御代始めの如く、自らの生に感謝し、自らを育んでくれたこの郷土に感謝する。そして、今のこの恵まれた時代を築いてくれた祖先に対しても自然と感謝の念を抱くことが出来るのではないでしょうか・・・。

そして、そんな未来を築くことが出来るのは、今の我々ではないでしょうか・・・・・・。

この「紀元節」に気分を一新して、

さぁ!皆さん!『古事記』を読んで、自分達のルーツを見つめてみませんか!!!

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2007年2月 7日 (水)

新年を迎えるにあたり(1月分会報より)

少し遅れましたが、先月の会報で新春の挨拶ということで書いたものです。

以前、拙ブログでエントリアップ致しました「繁栄と幸福への道」のシリーズの延長線上にある話という趣旨で書きました。

若干、宗教的な色彩が強いと思いますが、そのあたりはご容赦賜りたいと存じます。

新年を迎えるにあたり

新春を皆様と共にお迎えすることを得まして、誠に御同慶の至りとお祝い申し上げます。

新しいとはなんと素晴らしいことであろうか。自ずと新気が湧き、真気となり、神気漲る。

この素晴らしさは単に平面的に素晴らしいと謂うのではなく、過去幾万年という限りなきものからの繋がりある故の神秘なる素晴らしさで、「初日の出」の陽光の神秘も自己の魂の神秘を透して認識される。

正月は神代の偲ばるる月と云える。

故に、進歩躍進のテンポの激しい今日に於いても前進に心を致し、新たなるものを創造するかげに過去の重みと深さに根ざして、素晴らしい新たなるものが創造(つくり)出されるのかとも思われるこの清浄なる「安心(やすらぎ)」の日である元旦。

全ての人が元朝(このひ)の心を基として、ただひたすらに希望に輝いて日々を伸展していきたいものである。

人間(かみのこ)お互いに自己の心構のうちに、自己の鎮魂、大神を通じ、過去の長い歩みを温ねて、新年に信念込めて愈々と堅固なる感謝と祈りの誠を大神に捧げ、本年も重ねて御祈念をするものである。

然し乍ら、これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。

一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

人は常に気を凝らし、気を錬る稽古を充分にしておくことが大切であり、要するに各自に真の自覚というものがないと、しっかりとした人間観を持っていないが故、躓くと絶望してしまったりするものである。

茲に於いて、私達人間はこの点で大いに考えねばならぬと思うのである。

これは大自然が大調和をし、大宇宙が常に栄えている事を知(さと)る時、太陽の働きも地球の廻転も一年を通して同じである。暮れが来たからと云って、太陽がねじり鉢巻で東から西へ吹っ飛んだなどと、一度も見たこともなく、また聞いた試しもないのである。春、夏、秋、冬、陽々として、暢々と、唯ひたすらに光と熱をお与え下さっているのである。大自然、即ち神の道には少しも焦りがない。また歪いもなく、天地世界は一家として秩序整然と守られ生かされているのである。

それこそ、あらゆる国々の人々は大自然即ち神の分身であり、同胞であり、兄弟に等しく、同じ一つの空気を吸って吐いて生かされているのである。

一つの光と一つの空気、一つの慈愛の親の恵みによって、生かされているお互い人間であり、「大宇宙の昼夜休みなき恵み」によって生かさせて頂いているのである。それはつまり、自分で生きているという考えは誤信であり、錯覚であると云うことに他ならない。

私達人間はこの点でも更に考えねばならぬと思うのである。

それは、大自然の限りない恵みによって生かされている人間として、天と地に報ゆる心の道、心の目の開かない処に、現代社会の人間生活に何かと行き詰まりがあると思うものである。

大自然(かみ)の運行(はたらき)に添う心、神への奉仕観念の篤き人と家は、不思議と云ってよい程栄えている。思う事、為す事が順風に帆を上げた如くうまく伸展しているのである。

「何言うだぁ!」「恩もくそもあるものか!」「太陽が出るのはあたりめぇだ!」「今だ、チャンスだ!強いものが勝ちだ!」「早いものが儲かるのだ!」「とかく利益上げねば儲からない!」

・・・・・と集めねば、貯めねばという錯覚を持ってやっている人が、一時は儲けた様に、成功した様に見えるが・・・年限が経って五年、十年経つと、その家の親子、夫婦、兄弟の運命を鑑みたならば、ハッキリと精算が現れているであろう。・・・・人はこの世を、「金・物の世界」と勘違いをして居る人が多いのであるが、徳行なくして貯めた財は、貯まれば畜(たま)るほど、その人の運命は腐っていくものである。

地位の高い人も、その中へ入って親しくその内を見ると、地位や、金や、智慧でどうする事も出来ない苦労と、不幸の濁流が渦巻いている・・・。それは神理(かみのこころ)に添わないからである。

お互い人間生まれて来た時を省みて、誰一人として衣類を着けたり、お金を握って生まれ出た者はいないのである。

お互い素手で生まれて来たのである。

握らず、掴まず生まれさせられた一人一人である。それこそ生まれ落ちたは丸裸の素っ裸である。

持って来たのは金の玉二つ、貝がら一つの凹(ぼこ)と凸(でこ)との幸せである。

この相性は「陰」と「陽」で最高である。

が、これも使用一つ間違えると不幸となる。「性」も「色」も程々が安心であるが、それなのに欲をかいて持とうとするから良くない。・・・尤も人間は四生類や草木などより遙かに多くの自由の意志(こころ)を与えられている点にも、多々問題があると思われる。

人間は万物の霊長である故に、自分の意志を自由に働かせて、大宇宙の運行に型どり、種々のことを想像し、且つ行動することが出来る。

衣類にしても禽(きん)獣(じゅう)虫(ちゅう)魚(ぎょ)の類は皆自然に与えられていて、満足する外ないので、衣類のえり好みによる面倒は一切ないのであるが、人間は衣類、食べ物、住居、その他多くのものを制作するうえに於いて、自由意志を働かせ、それに伴う悲喜劇がついつい多く生じるものである。

従って人間の個別性と自由意志がからまる時、とかく個人的な欲望に負けてしまい、自由意志つまり「我が身かわいや」を働かせ過ぎ、反って自ら苦しめる破目になってしまうのである。

大自然(かみ)は永久(とわ)に生き栄え、豊かな存在であらせられるのである。

この地球上にある全てのもの。日々成長する万物。その悉く大自然の富であり、宇宙(かみ)は無限の豊かさを持っているのである。

私達人間はこの様な大きな富、大きな愛、豊かな宝物の満ちている中に生きているのである。

そしてそれ等は、咸(みな)神からのお恵みを授かっている。

人間(かみのこ)が自己の本性の尊さ知(さと)り、その尊い本性のままの智慧に依って、それ等の富を自由にすることも出来るのであるから、欲望に囚われず、また貧乏性にも陥らぬよう、豊かな心を持ってこの年も自信たっぷり敢然と起つべき事である。

自然の理法(めぐみ)とは昼夜野別をはっきりとし、然も永遠に変わらぬ働きであり、春夏秋冬歪(くる)いない幾万年、幾億年変わりない自然の恵み、それを動かす根本の力である。

この動きが人類を始め、あらゆる生命体に行き届いているので健康の身体で居られる。

然し、どれ程頑丈な身体の人でも、空気のない処へ行けばおしまいである。生き生きと茂っていた大木でも、土から掘り出した時、土はそのままであるのに樹の方は直ぐ枯れてしまう。

世の中には、神を私達人間と別々の様に考えて居られる方が多いように思うが、それは考え違いである。

神と我々人間は一体なのである。

よく考えて頂きたい。自然の理法(はからい)で創られ、守られているのをお気付きになる筈である。

我が心の着物である肉体の全てが、素晴らしい、見事な出来ではないか。

神(自然)の恵みほど素晴らしく、永遠なものはないと、今更ながら驚歎せずには居られない。

先ず、その顕れが一切の生命に「新陳代謝」の姿として顕れているのである。私達の身体の上について考えて視ても、脳髄の素晴らしい働き、目に見える運動、そして「耳」「鼻」「口」などの活動、「手の皮」「足の皮」の限りない消耗に対する不断の補充(おぎない)などを思う時、真実の人智で到底及ばぬ働きが、人のある限り、生きる限り与えられているのである。

この恵み、この働きは平等に、それこそ一秒の休みもなく、惜しみなく、お与え下さっているのである。

これが「親心」即ち「大慈大悲」の神理(かみのこころ)なのである。

従って心の着物である肉体全てが、神の守りである事に気付かねばならないのである。

更に私達、何人も、男も女も、此の世に生まれる以前より、自分で目的を起てて生まれてきた者は一人もいないはずである。

大自然(おやなるかみ)の摂理(はからい)で、自然の支配する永遠の天地を親として、生まれさせられ、守られ、生かされている。人間(かみのこ)であることを自覚せねばなりません。

然れば、人間(かみのこ)は親なる神の心を知って、大きく深く悟って、神が歓ぶ、社会を明るくする、人が助かる、神の理想の実現に文句も無しに、理屈も無しに各自の立場を通じて、精進努力することが、素直な神の子の道であると信ずるものである。

私達人類は傷ついた霊(みたま)、汚れた魂をあくまで磨き上げ、自己中心、物欲中心の人間(かたまり)の心を、敬神崇祖の念を体現し、御教示を求め、心の垢を洗い去り、且つ亦、御教示を心の糧として、如何なる事も天意(かみのこころ)が映ってくるような、明鏡の如き神心(しんじん)の本質を磨き出さねばならであろう。心一つの磨き方、持ち方に依って、如何なる神の恵みも頂ける道を大いに進行(すすみゆく)ことである。

新年を迎えて、腹の底よりおめでたいと自ずと慶ばずに居られないような、満たされた迎春。

「今年も神が私に生命をお授け下さっている」、私はそう思わずには居られない。

だから今、生命(いのち)があると云う事は「神が為さねばならぬ使命を与えて、私達に今年も生命を授けた」のだと信ずる。

此の御神意に添うて、唯ひたすらに希望の彼方に向かって正しく進む。生きて甲斐ある人生行路を波穏やかな良い波調に乗れる資格を得られ、安らぎの年が顕現なされますよう、自他共に祈ってやみません。

徳は此の世の主人(あるじ)と云われる。

従って、この「徳」のある家や人には何事も面白い程総てが運び行く。

即ち「運が良い」、萬事順調である。

それこそ「しまった」「損をした」「外れた」「悔しい」「痛い」「つらい」「苦しい」「悶える」等の病気や事件には御縁がないのである。所謂残念な事が一つも起こってこない。ついてくる子供もみんな素直、それこそ非行に走る子など一人も生じない。大自然(かみ)の繁栄(さかえ)と共に、家運は伸びて、栄える、そして太らせて頂き家運は隆盛になるのである。

本年も愈々と一家揃って徳行に励み、心の糧を充分にとって、心の健康を保持し、感謝の心を造る神への御恩報示あるのみである。

その道筋が進行であり、真行であり、信仰である。

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