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2007年2月 7日 (水)

新年を迎えるにあたり(1月分会報より)

少し遅れましたが、先月の会報で新春の挨拶ということで書いたものです。

以前、拙ブログでエントリアップ致しました「繁栄と幸福への道」のシリーズの延長線上にある話という趣旨で書きました。

若干、宗教的な色彩が強いと思いますが、そのあたりはご容赦賜りたいと存じます。

新年を迎えるにあたり

新春を皆様と共にお迎えすることを得まして、誠に御同慶の至りとお祝い申し上げます。

新しいとはなんと素晴らしいことであろうか。自ずと新気が湧き、真気となり、神気漲る。

この素晴らしさは単に平面的に素晴らしいと謂うのではなく、過去幾万年という限りなきものからの繋がりある故の神秘なる素晴らしさで、「初日の出」の陽光の神秘も自己の魂の神秘を透して認識される。

正月は神代の偲ばるる月と云える。

故に、進歩躍進のテンポの激しい今日に於いても前進に心を致し、新たなるものを創造するかげに過去の重みと深さに根ざして、素晴らしい新たなるものが創造(つくり)出されるのかとも思われるこの清浄なる「安心(やすらぎ)」の日である元旦。

全ての人が元朝(このひ)の心を基として、ただひたすらに希望に輝いて日々を伸展していきたいものである。

人間(かみのこ)お互いに自己の心構のうちに、自己の鎮魂、大神を通じ、過去の長い歩みを温ねて、新年に信念込めて愈々と堅固なる感謝と祈りの誠を大神に捧げ、本年も重ねて御祈念をするものである。

然し乍ら、これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。

一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

人は常に気を凝らし、気を錬る稽古を充分にしておくことが大切であり、要するに各自に真の自覚というものがないと、しっかりとした人間観を持っていないが故、躓くと絶望してしまったりするものである。

茲に於いて、私達人間はこの点で大いに考えねばならぬと思うのである。

これは大自然が大調和をし、大宇宙が常に栄えている事を知(さと)る時、太陽の働きも地球の廻転も一年を通して同じである。暮れが来たからと云って、太陽がねじり鉢巻で東から西へ吹っ飛んだなどと、一度も見たこともなく、また聞いた試しもないのである。春、夏、秋、冬、陽々として、暢々と、唯ひたすらに光と熱をお与え下さっているのである。大自然、即ち神の道には少しも焦りがない。また歪いもなく、天地世界は一家として秩序整然と守られ生かされているのである。

それこそ、あらゆる国々の人々は大自然即ち神の分身であり、同胞であり、兄弟に等しく、同じ一つの空気を吸って吐いて生かされているのである。

一つの光と一つの空気、一つの慈愛の親の恵みによって、生かされているお互い人間であり、「大宇宙の昼夜休みなき恵み」によって生かさせて頂いているのである。それはつまり、自分で生きているという考えは誤信であり、錯覚であると云うことに他ならない。

私達人間はこの点でも更に考えねばならぬと思うのである。

それは、大自然の限りない恵みによって生かされている人間として、天と地に報ゆる心の道、心の目の開かない処に、現代社会の人間生活に何かと行き詰まりがあると思うものである。

大自然(かみ)の運行(はたらき)に添う心、神への奉仕観念の篤き人と家は、不思議と云ってよい程栄えている。思う事、為す事が順風に帆を上げた如くうまく伸展しているのである。

「何言うだぁ!」「恩もくそもあるものか!」「太陽が出るのはあたりめぇだ!」「今だ、チャンスだ!強いものが勝ちだ!」「早いものが儲かるのだ!」「とかく利益上げねば儲からない!」

・・・・・と集めねば、貯めねばという錯覚を持ってやっている人が、一時は儲けた様に、成功した様に見えるが・・・年限が経って五年、十年経つと、その家の親子、夫婦、兄弟の運命を鑑みたならば、ハッキリと精算が現れているであろう。・・・・人はこの世を、「金・物の世界」と勘違いをして居る人が多いのであるが、徳行なくして貯めた財は、貯まれば畜(たま)るほど、その人の運命は腐っていくものである。

地位の高い人も、その中へ入って親しくその内を見ると、地位や、金や、智慧でどうする事も出来ない苦労と、不幸の濁流が渦巻いている・・・。それは神理(かみのこころ)に添わないからである。

お互い人間生まれて来た時を省みて、誰一人として衣類を着けたり、お金を握って生まれ出た者はいないのである。

お互い素手で生まれて来たのである。

握らず、掴まず生まれさせられた一人一人である。それこそ生まれ落ちたは丸裸の素っ裸である。

持って来たのは金の玉二つ、貝がら一つの凹(ぼこ)と凸(でこ)との幸せである。

この相性は「陰」と「陽」で最高である。

が、これも使用一つ間違えると不幸となる。「性」も「色」も程々が安心であるが、それなのに欲をかいて持とうとするから良くない。・・・尤も人間は四生類や草木などより遙かに多くの自由の意志(こころ)を与えられている点にも、多々問題があると思われる。

人間は万物の霊長である故に、自分の意志を自由に働かせて、大宇宙の運行に型どり、種々のことを想像し、且つ行動することが出来る。

衣類にしても禽(きん)獣(じゅう)虫(ちゅう)魚(ぎょ)の類は皆自然に与えられていて、満足する外ないので、衣類のえり好みによる面倒は一切ないのであるが、人間は衣類、食べ物、住居、その他多くのものを制作するうえに於いて、自由意志を働かせ、それに伴う悲喜劇がついつい多く生じるものである。

従って人間の個別性と自由意志がからまる時、とかく個人的な欲望に負けてしまい、自由意志つまり「我が身かわいや」を働かせ過ぎ、反って自ら苦しめる破目になってしまうのである。

大自然(かみ)は永久(とわ)に生き栄え、豊かな存在であらせられるのである。

この地球上にある全てのもの。日々成長する万物。その悉く大自然の富であり、宇宙(かみ)は無限の豊かさを持っているのである。

私達人間はこの様な大きな富、大きな愛、豊かな宝物の満ちている中に生きているのである。

そしてそれ等は、咸(みな)神からのお恵みを授かっている。

人間(かみのこ)が自己の本性の尊さ知(さと)り、その尊い本性のままの智慧に依って、それ等の富を自由にすることも出来るのであるから、欲望に囚われず、また貧乏性にも陥らぬよう、豊かな心を持ってこの年も自信たっぷり敢然と起つべき事である。

自然の理法(めぐみ)とは昼夜野別をはっきりとし、然も永遠に変わらぬ働きであり、春夏秋冬歪(くる)いない幾万年、幾億年変わりない自然の恵み、それを動かす根本の力である。

この動きが人類を始め、あらゆる生命体に行き届いているので健康の身体で居られる。

然し、どれ程頑丈な身体の人でも、空気のない処へ行けばおしまいである。生き生きと茂っていた大木でも、土から掘り出した時、土はそのままであるのに樹の方は直ぐ枯れてしまう。

世の中には、神を私達人間と別々の様に考えて居られる方が多いように思うが、それは考え違いである。

神と我々人間は一体なのである。

よく考えて頂きたい。自然の理法(はからい)で創られ、守られているのをお気付きになる筈である。

我が心の着物である肉体の全てが、素晴らしい、見事な出来ではないか。

神(自然)の恵みほど素晴らしく、永遠なものはないと、今更ながら驚歎せずには居られない。

先ず、その顕れが一切の生命に「新陳代謝」の姿として顕れているのである。私達の身体の上について考えて視ても、脳髄の素晴らしい働き、目に見える運動、そして「耳」「鼻」「口」などの活動、「手の皮」「足の皮」の限りない消耗に対する不断の補充(おぎない)などを思う時、真実の人智で到底及ばぬ働きが、人のある限り、生きる限り与えられているのである。

この恵み、この働きは平等に、それこそ一秒の休みもなく、惜しみなく、お与え下さっているのである。

これが「親心」即ち「大慈大悲」の神理(かみのこころ)なのである。

従って心の着物である肉体全てが、神の守りである事に気付かねばならないのである。

更に私達、何人も、男も女も、此の世に生まれる以前より、自分で目的を起てて生まれてきた者は一人もいないはずである。

大自然(おやなるかみ)の摂理(はからい)で、自然の支配する永遠の天地を親として、生まれさせられ、守られ、生かされている。人間(かみのこ)であることを自覚せねばなりません。

然れば、人間(かみのこ)は親なる神の心を知って、大きく深く悟って、神が歓ぶ、社会を明るくする、人が助かる、神の理想の実現に文句も無しに、理屈も無しに各自の立場を通じて、精進努力することが、素直な神の子の道であると信ずるものである。

私達人類は傷ついた霊(みたま)、汚れた魂をあくまで磨き上げ、自己中心、物欲中心の人間(かたまり)の心を、敬神崇祖の念を体現し、御教示を求め、心の垢を洗い去り、且つ亦、御教示を心の糧として、如何なる事も天意(かみのこころ)が映ってくるような、明鏡の如き神心(しんじん)の本質を磨き出さねばならであろう。心一つの磨き方、持ち方に依って、如何なる神の恵みも頂ける道を大いに進行(すすみゆく)ことである。

新年を迎えて、腹の底よりおめでたいと自ずと慶ばずに居られないような、満たされた迎春。

「今年も神が私に生命をお授け下さっている」、私はそう思わずには居られない。

だから今、生命(いのち)があると云う事は「神が為さねばならぬ使命を与えて、私達に今年も生命を授けた」のだと信ずる。

此の御神意に添うて、唯ひたすらに希望の彼方に向かって正しく進む。生きて甲斐ある人生行路を波穏やかな良い波調に乗れる資格を得られ、安らぎの年が顕現なされますよう、自他共に祈ってやみません。

徳は此の世の主人(あるじ)と云われる。

従って、この「徳」のある家や人には何事も面白い程総てが運び行く。

即ち「運が良い」、萬事順調である。

それこそ「しまった」「損をした」「外れた」「悔しい」「痛い」「つらい」「苦しい」「悶える」等の病気や事件には御縁がないのである。所謂残念な事が一つも起こってこない。ついてくる子供もみんな素直、それこそ非行に走る子など一人も生じない。大自然(かみ)の繁栄(さかえ)と共に、家運は伸びて、栄える、そして太らせて頂き家運は隆盛になるのである。

本年も愈々と一家揃って徳行に励み、心の糧を充分にとって、心の健康を保持し、感謝の心を造る神への御恩報示あるのみである。

その道筋が進行であり、真行であり、信仰である。

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コメント

くちべた日本人@保守の意見の輪を広げたいさん、初めまして、こんにちは。
コメント有り難う御座います。

私議多忙につき途中まで拝読させて頂きました。
また時間を作って続きを拝読させて頂いた後、コメントさせて頂きますが、とりあえず御挨拶ということで。

興味深いコメントを有り難う御座います。

投稿: 管理人 | 2007年2月21日 (水) 17時29分

1週間遅れですが,“世のため人のため”様よりよいお話ですので.

http://tamezou.iza.ne.jp/blog/entry/119831

国号と君民一体~紀元節に寄せて
2007/02/18 00:00


 本日は「紀元節」、二千六百六十七年前に神日本磐余彦尊かむやまといわれびこのみことが橿原宮かしはらのみやで即位された日である。というと、いや建国記念日は二月十一日だ、一週間間違っているとの声が聞こえてきそうであるが、即位した「辛酉年春正月庚辰」は旧暦の正月、いわゆる旧正月であるから、今年は二月十八日が紀元節であるといってもあながち間違いではあるまい。

 ところで、大礒正美「よむ地球 きる世界」(彩雲出版)に「日本はまず国号を名乗れ」という一節がある。曰く、

「日本はなぜ、ただの Japan なのか?」

「共和国なら Republic、王制なら Kingdom と正面から名乗るのが普通だ」

 これは私も昔から疑問に思っていた事であるが、適当な答えが見つからなかった。我が国は立憲君主制ではあるが「王国」ではない。

 天皇は英語で Emperor と訳されているように King とは全く違う。かといって「皇帝」ともまた違う。昔は「大日本帝國」と名乗っていたが、欧米列強に対抗するために無理して付けた感がある。

 大礒氏はどうしたかというと、日本は「天皇国」であると提案している。

「日本天皇国 (Ten-noh State of Japan) が正しい国号ではないだろうか」

 なるほど、「天皇」を無理して英語に訳す必要はないのだ。我が国は「君民一体」という世界に唯一無二の国体を持つのであるから適当な訳語がないのは当たり前なのである。それならば「天皇」を "Ten-noh" として世界に通じる言葉にしてしまえばよい。

 「君民一体」という事に関してはピンと来ない人が多いだろうから次の逸話をご紹介する。

「昭和の御大典」田中繁男

 今をさる七十七年前の昭和三年十二月、日付を失念し手元の年表などにあたって見たが、昭和の御大典のことは京都で十一月十四日を中心に即位ノ礼など行われたことが記されていただけで、東京で十二月にあった御大典のことは何もみあたらなかった。

 その日の東京は雨で、それも冬十二月中旬にしては珍しい台風並の大雨で、しかも冬のこととて冷たい雨であった。それで陛下の御前を通過する分列行進に参加する全国より選抜された心身共に健康な数万の青年男女も、外套は着用していたが、氷雨を遮る傘も屋根もなく震えていた。それでも熱血の青年男女は足踏みしながら寒さを撥ね返していたところ、やがてけごろもを時かたむけてお出ましになった陛下には、天幕で拵えた屋根のある野立ち台にお立ちになったが、

《分列行進のため待機している青年らの頭上には、この雨を遮る傘か何かあるのか》

と側近に尋ねられた。《傘などの用意は特にございません》と側近が応え申し上げたところ、さらに陛下には

《傘もなく、この雨をどのようにして凌いでいるのか》

と尋ねられた。《足踏みなどして凌いでいるようでございます》と側近が応え申し上げたところ、陛下には

《それなら、あの天幕をはずせ。私も濡れながら皆を迎えよう》

と仰せになり、その御稜威におされたものか側近は、一も二もなく天幕を取り払った。

 この雨の中、陛下には天幕を取り払われた、という話は飛電のごとく雨に打たれながら待機する数万の青年男女のもとへ伝わり、一瞬、青年たちの耳を疑わしめた。そのとき、分列行進進発の号令が発せられた。と、先頭を行く誰かが、畏くも陛下におかせられては天幕を取り払われた・・・・かくなる上は我々は、羽織っている外套を脱いでは脇にかかえて、御稜威に添い奉ろうではないかと皆に呼びかけたところ、おうっと皆は一斉に賛同しては外套を脱ぎ小脇に抱えては分列行進に移っていった。

 降りしぶく雨に打たれながら、陛下、天幕を取り払われるの感激で、熱いものがこみ上げてきて、頬を紅潮させては整然と行進してきた先頭集団が一様に外套を脱いでいるのに気づかれた陛下には、非常に大きな感銘に胸を打たれたが、やおら御自らの御手で御自らの外套のボタンをはずされ、かたわらへ脱ぎすてられた。

 それを拝した青年たちの感激は尋常一様のものではなかった。陛下にはその赤誠を嘉よみせられ、応えられては御自ら外套を脱ぎ捨てられては、この激しい雨に共に打たれ休戚を分かたれんとなされたのであろう。ここに神武肇国以来の《君民一体》の極致、典型が見られ、若き日の先帝陛下昭和天皇の心意気、大御心の一端が拝せられ、感慨あらたなるものがある。

 それより二十年がたった昭和二十三年、先帝陛下には戦後の荒廃した国土、また国土の荒廃に挫けることなく戦後復興に努力している国民を励ますべく全国巡幸の最中にあられた。いまだ世はすさび、天皇不要の声さえ囂しい時代で、陛下の御命も危ない時代であった。

 そんな中、常磐炭鉱であったか、視察せられるということがあった。県知事はじめ恐懼おくあたわざる思いであったが、当日がやってきて予想もしていなかったことが出来して知事はじめ窮地に追い詰められた思いであった。選炭場など地上施設の御視察だけ予定のところ、陛下にはトロッコに乗られて地下深くの採炭現場まで降りていかれるといわれ実行されたからであった。

 落盤でもあれば知事はじめ割腹しても追いつかないことだけに、それだけに現場まで降りてこられた陛下のお姿を拝した現場の荒くれ男たちは驚き、感激にうち震えては陛下の足元で男泣きに泣いた。それをみそなわれた陛下もまた思わず貰い泣きされては涙をぬぐわれたという。これもまた君民一体の極致の現れ、御稜威の顕現といえよう。

 その続きのことであったか、東北のある都市の宿舎へ陛下には泊まられたことがあった。これを聞いた革新団体が、例により、天皇反対のデモをかけることとなった。数百人が集まり隊伍を組んでは宿舎へ向け出発した。赤旗をなびかせ、シュプレヒコールを上げては威勢よく進んでいったが、陛下のおられる宿舎へ近づくにつれ、デモ隊の元気は薄れ士気も低下していっては、それまではためいていた赤旗も一様にしなびては担い手の足取りも重くなった。

 デモ隊の隊列全体の歩みも緩慢となり、宿舎の前まできたとき、ついに歩みはとまり、なぜか意気消沈した気分の虚脱感に襲われ、無力感が全体を覆っていき、皆が名状し難い重苦しさに包まれて行ったそのときであった。隊列の中より《天皇陛下万歳》という大音声が期せずして上がった。

 一瞬、数百のデモ隊の上に異様な静寂が広がっていったが、次の瞬間、堰を切ったかのような《天皇陛下万歳》の大合唱が次々と湧き起こった。革新系であるデモ隊員にして戦後は勿論、戦中戦前より抑えに抑え続けてきた日本人としての本源的な帰属意識より発した万歳であった。そんな万歳を力一杯唱えることができて、一種溜飲を下げたような清涼感、爽快感に浸ったことであろう。これも君民一体の典型といえるものである。

 ここに君民一体とはいうが、それは恐らく日本に固有のものであって他の君主国にはないといってよい。せいぜい君民協調であり、大体は仏独露らのように君主体制は潰えさっていて、日本のように君民一体という体制の国はなく、英国といえども似て非なる国である。とすれば、なぜ日本にだけと言うこととなろうが、それは神武天皇には自覚され、それを原理として国を肇められ、営々二千年これ努めてきた結果に他ならない。

斬る!時事問題のトリビア・コラム!第七十五号より

【ここまで】
なお
“斬る!時事問題のトリビア・コラム!第七十五号”はこちらです.

http://blog.mag2.com/m/log/0000146260/106745022.html

投稿: くちべた日本人@保守の意見の輪を広げたい | 2007年2月19日 (月) 22時07分

milestaさん、こんにちは。
コメント有り難う御座います。

物事の順序を考える上でも『古事記』は貴重な書ですね。
何事も順序よく、積み重ねることが大事だと、斯様な示唆にも富んだ文献と思います。

初午も過ぎ、もう紀元節もすぐそこまで迫っていますね。
こんな時にエントリのタイトルが「新春を迎えるにあたり」というあたりが少し悲しいですね。(苦笑)
ずっと更新しようと思っていたのですが、先に手書きの原稿であげてしまったので、パソコンに打ち込むのに時間がかかってしまいました。

紀元節の時には私も古事記のエントリを書きたいと思っていますが、まだ何せ二の午も残しておりますゆえ、明言は出来ないところが少し苦しいですね。(苦笑)

それと人間と神との関係性についてもエントリにしようとずっと温めているものがあるのですが、それも出来ることなら近いうちにエントリにしたいと思っております。

書こうと思っていることばかりが増えてしまって、それに追いついておりません・・・。(汗)

様々な宗教があり、それ等に全て共通して言えることは「人智の及ばないもの」に対する捉え方、或いは具体的な対処の仕方などを説いて、人間の幸福のために奉仕することであると思います。
また、これについて書き出すと長くなってしまいそうなのでこの辺で・・・。

いつも貴重なご意見を有り難う御座います。

投稿: 管理人 | 2007年2月 7日 (水) 13時37分

>これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。
>一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

そうなんですよね。小さい当たり前のことの積み重ねが大事なんですよね。慌ただしい現代では、そのことを忘れがちで、ついついすぐに結果を求めてしまったりすることがあります。

拙ブログのコメントに頂いた「日本は『古事記』の国であって、『聖書』の国ではない。」ということを、建国記念日にアップする記事に私も書いたばかりだったので偶然でびっくりしました。
そして、神主さんの記事を読んで思ったこと。『古事記』と『聖書』は全然違うけれど、「神」という人間とは別格のものについての畏敬の念は、どの宗教も同じなのだと思いました。結局、人間の力ではどうすることも出来ないことがあり、人間は一人で生きているわけではなく神のご加護の元で生かされているというのは、共通の認識なのですよね。

投稿: milesta | 2007年2月 7日 (水) 10時39分

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