現代と神道 ~特別編その3~
このシリーズも今回で最終回となります。
では早速、前回の続きです。
グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その3
日本には古来より独自の文化性があった。またヨーロッパも同様である。
そしてここで問題とされている中東地域の各国もまた独自の文化性を有しているのである。
ある国の文化と別の国の文化が触れるとき、化学反応にも似た変化が起きる。
結合・融和して新たな文化が生み出されるか、或いは片方の文化に吸収されてしまうのか、または結合・融和もせず、吸収もされず、両者ともそのままの状態であるのか。
それが本質的な「文化の変遷」というものであろうと考える。
この「文化の変遷」は常に時の権力と密接な関係にあることは否定できない。
そして、抗争の歴史と並行しているものでもある。
前述した日本の近代化に於いても、その背景には全世界規模での「帝国主義」があり、更には強大な軍事力を背景にした欧米列強の圧力があった。
その文脈の中で自らの独立を希求し、それを成し遂げるための「近代化」が起こり、文化的変遷を生んだのである。
しかし「近代化」を推し進める中で、真の独立を求める中で、それは「国家主義」を生み、やがては「超国家主義」へと変容を遂げ、いつしか戦争へと進んでいくのである。
外圧に対して最大限の譲歩を続けながらも、時代の潮流には抗えなかった、と考える。
この現象は単に国内政治レベルという問題ではなく、日本の国民的潮流であり、更に言えば全世界的潮流であったとも言うことも出来るであろう。
日本の日韓併合から支那大陸進出、満州事変及び支那事変。
アメリカの排日移民法や石油禁輸政策、更にはハルノートと、様々な諸条件が重なった上での戦争であったのは間違いない。
しかし、それらの諸条件についての言及は今回の趣旨ではないので避ける。
付言するならば、現代に生きる我々が何かを述べるのは間違いであると感じるからである。現代の価値観で歴史を裁くことは出来ないし、またそれはあまり意味を持たない行為であると考えるからである。
時代的潮流に逆らうことが出来なかった日本はやがて「敗戦」という形での決着を見る。
当然のことながら、敗戦国は連合国の管理下に置かれ占領政策が開始されることとなる。
ここで、前述した「民主化」が再び行われるのである。
ここで重要な点は「連合国主体」で「民主化」行われ、先の戦争における「戦争責任」なるものの追求も始まり、その中で「戦犯」として多くの日本人が裁かれたこと。
また、連合国の民間検閲支隊(CCD)による徹底した検閲が繰り広げられ、大日本帝国憲法を排し日本国憲法が連合軍主導の下に制定され、その中で教育基本法なども改められ、それらの条件下で日本国民に対して日本文化の再教育が行われたという点である。(江藤淳著『閉された言語空間』他、参照)
この2点を踏まえて考えると、現在言われている日本の「民主化」は今から凡そ60年前の連合軍占領統治下で起こった、言わば「文化の変遷」であり、積極的に日本人が望んだものではなかったのではないかという疑義が生まれてくる。
またこの時に、前述した私の推論する「禁教令を出すに至った秀吉の思考」と同じ感覚を覚える。
つまり、中世に日本が初めて出会った「グローバリゼーション」である。
戦後の「再教育」の中で日本人は連続した歴史を失い、「民主化」の名の下に自らのアイデンティティを喪失してしまった。
しかし、当時の日本人は長きに渡る戦争によって心身ともに疲弊しており、民族的に異文化に対して排他的でない文化性も手伝って「民主化」、つまり連合国による「グローバリゼーション」を受け入れてしまったのではないだろうか。
勿論、明治維新時にも民族性を失ったが、それは外圧に対抗し自らの独立を、独自の文化性を保とうとするが故の変遷であった。
これは即ち、日本人が世界中の多数存在する異文化の中に自国の文化の存在を知らしめるためのものであったと考えるものである。
まさしく「インターナショナライゼーション」である。
この論を以て言うならば、アフガニスタンに於ける「ターリバーン」の勢力復興も、イラクに於ける軍事行動がイラク国民から見れば「テロ」でなく「レジスタンス」であるということも然るべきことである。
彼らが文化的、或いは宗教的な理由によって「民主化」を拒むのは当然であろう。
それは自らの存在を、「文化」を根底から否定される性質のものであるからに他ならないからである。
つい先日のことであるが、『イラク特措法』の延長が国会で決定された。
現在多くの日本の自衛隊員がイラクに於いて復興支援や人道支援という形で駐留している。
その姿はイラクの国民からどのように見えるのであろうか・・・。
自らのアイデンティティを破壊しようとしている、かつての日本に於ける「連合軍」の一軍として見ているのではないだろうかと危惧を覚える・・・。
そして、かつて日本が経験した「歴史の断絶」がアフガニスタンやイラクでも起こるのだろうか。
日本人とイスラム教国の人々との大きな違いは言うまでもなく「宗教観」であり、それに伴う「文化」や「民族性」である。日本人の精神性の源泉の一つと言える「神道」は歴史的に見て、良くも悪くも様々な「異文化」との共存を果たしてきた。
しかしまた、その柔軟性・寛容性が日本人の最大の特性であり、戦後日本を経済大国へと押し上げた最大の要因であると考えている。
その最大の特性を活かし、また、かつての苦い経験を生かし、まさに「異文化」であるアフガニスタンやイラクに対して自衛隊の派遣だけでなく、貢献できる分野があるのではないだろうか。
米兵に守られなければ支援活動が出来ない状態の自衛隊員が、生命を危険に晒しながら、アメリカや日本の理論で言う「テロ」によっていつ破壊されてしまうか分からないインフラの整備などをするよりも、政府レベルで対策をすれば他にも出来ることはあると考える。
現代はまさに「国際化社会」である。
様々な「異文化」が混在し、同時に普遍原理としての「文明」が世界中に広がりを見せている。
しかし、「文化」と「文明」は同一のものではないということを理解せねばならない。
「文明の利器」の拡大によって生活の利便性は大きく向上したであろう。
しかし、「グローバリズム」即ち「民主主義」という「文化」の拡大によって戦争を生み、「テロ」或いは「レジスタンス」を生んだ。それによって元来そういった文化性を持たない、或いは受け入れない国々の土着文化や歴史の連続性が失われようとしている。
明治維新、敗戦を経て、日本人が失ってしまった文化性、精神性も同様である。
現代の日本に目を遷せば、かつては見られなかった現象に頭を悩ませている。
少年犯罪の凶悪化、家庭内暴力の増加、性風俗の乱れなど、枚挙に暇がないが、それらは日本文化の荒廃が招いているものであろう。
それは「アイデンティティの喪失」と、現代の価値観の多様化がもたらした二元論の崩壊、つまり自己存在に対する善悪の規定の崩壊を意味すると考える。
如何なる国であっても、長い歴史を持つ国であれば、その国の淵源は大抵の場合は「神話」である。戦後に「民主化」された日本は経済的な豊かさを追い求め、資本主義社会を浸透させてきた。
その結果、現代は「唯物論」が支配的となり、「神話」の類に関しては否定的な社会になってしまった。
その理由として民主主義、資本主義を生み出したヨーロッパと「宗教文化」が決定的に違う点が挙げられる。
つまり、戦後の連合国主導の「再教育」によって自国の歴史的連続性が損なわれたと同時に、市場原理によって都市化が進み家郷社会の解体が起こった。それが意味することは、日本の土着宗教である「神道」、即ち「共同体信仰」の原理の破壊であった。
キリスト教やイスラム教などの所謂「一神教」を宗旨に持つ文化圏は、その宗教的概念に於いても、文化的性質に於いても「個人救済」或いは「個人主義」というのが中心にある。であるから故の対立構造が生まれるのは理解できる。
これは世俗化を「是」としたキリスト新教系の「グローバリズム」、言い換えれば「一元主義」と世俗化を許さないイスラム教「ファンダメンタリズム(原理主義)」とも言うべき概念の二項対立である。
が、しかし、日本の「神道」の概念、或いは日本人の「文化的特性」は他者に対し寛容であり、且つ「異文化」を吸収・消化する柔軟性を持ち合わせているのである。
更に「鎖国時代」の限りある生活環境から培われた文化的特徴として、可能な限り対立を避けようとする特質があったと言えるのではないだろうか。
こういった日本の文化的特質から考えると、敗戦当時の日本は占領政策に対して現在の「ターリバーン」や「アルカイーダ」、イラク国民のように「テロ」或いは「レジスタンス運動」が起きにくい状況であったと考える。
そして現代、キリスト教原理以外の「文明」的要素を受け入れ、「近代化」「民主化」を成し遂げた日本人は、独自の文化性を大部分放棄し、皮肉にも、見事に「グローバル化」を果たしたと言える。
しかし、明治維新後の日本が目指したものは「グローバル化」ではなく「国際化=インターナショナライゼーション」であったはずである。
そして、方向性が変わってしまったことに気付きながらも、糺すことが出来なかったその「ツケ」が、現状に様々な形で現れているのではないだろうか。
「共同体」の原理によって生活規範が保たれていたこの国に、「一神教原理」即ち「個人主義」を背景に持つ政治システムを導入し、そのバックボーンがないまま、どこかに精神性を置き忘れたまま発展させてきた軋轢が、今ここにある。
今まさに、この教訓に学ぶべき時である。
日本が日本足るべき理由と、その存在感を世界に知らしめるためには「アイデンティティの復権」以外にあり得ないのである。
「グローバリズム」の限界が今、中東に見えているのである。
今こそ、各々の文化性を互いに認め合い、共存することこそが真の国際交流の価値であり、その最終目的たり得るものである。
それは日本人にしかできないことである。
日本の誇るべき文化特性が持つ、或いはその土着信仰である「神道」が持つ寛容性、柔軟性を遺憾なく発揮し、国際社会に貢献するべきである。
現在、世界人口は60億といわれる。
これからも爆発的な人口増加が予想される。
それは全世界レベルで「鎖国状態」に陥るということを意味しているように感じるのである。
限られた資源。限られた生活環境。世界的に食料生産に適した耕地面積は限られている。
そんな生活環境で生き抜いてきたのは恐らく、世界的に見ても「鎖国時代」の日本くらいなものであろう。
かつての精神性を取り戻し、アイデンティティの復権がなったその暁には、きっと日本人が、かつての日本人の生活が見直されることとなる。
アフリカで始まっている「もったいない運動」などはまさにその前兆と言えるだろう。
繰り返す。
我々は今一度、自国の「文化」と「宗教性」を見直し、その精神性とアイデンティティの復権を果たさねばならない時が今、来ているのである。
了
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