現代と神道 ~特別編その2~
前回の続きです。
今回ブログへのエントリアップに伴い、若干文章を付け足してあります。
原稿自体は少し前のものですが、時系列的に最近の事柄も入ってきますのでご了承下さい。
では早速続きを・・・。
グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その2
中世になると日本は若干の混乱期を迎える。
天皇・公家中心の政治体制から武家中心の政治体制へと移行していったのである。
それまで比較的安定的に国家運営が為されていたものが、数多くの戦乱が起こり、文化的にも安定しない時代が続くのである。その戦乱が収まり、文化の発展を見るのは豊臣秀吉の天下統一を経て、徳川幕府の成立を待たねばならなかった。
しかし、その中世に日本は初めて西洋の「グローバリゼーション」と出会った。
当時は「グローバリゼーション」と呼べる様な代物ではなかったかも知れないが、西洋のキリスト教一元主義を基にした「大航海時代」が後の「帝国主義時代」「民主主義の拡大」の到来を予見させるものであったと考察する。
日本の地を踏んだ最初の西洋人はキリスト教宣教師であると言われている。
彼らは種子島に上陸し、鉄砲を伝える。いや、正確には「持ち込んだ」のである。しかし、当時種子島にいた鍛冶などを行う職人たちの眼に触れ、興味を抱いた彼らは分解してその構造を知ると、世界の「最新技術」である鉄砲の製造技術は瞬く間に全国に広げることになる。そして数年後には鉄砲の保有数は世界一になったと言われている。
そんな環境の中でキリスト教宣教師が九州に上陸し、布教を開始する。
布教活動の中で彼らは時の権力者であった大名に取り入り、信者を多数獲得していく。
また、当時天下に最も近いと言われた織田信長に謁見し、直に布教の許可を得ている。
そして彼らは勢力を伸ばし、特に九州に於いてはキリシタン大名の権力を背景に寺社仏閣の破壊行為に及ぶのである。しかし、時を同じくして国内では世に言う「本能寺の変」が起こり、権力の座は信長から秀吉へと移っていった。すると、秀吉はキリシタンが大名の力を借りて領民を半ば強制的にキリシタンにしていることと、それら領民に寺社仏閣の破壊を命じていることに関して疑義を呈するのである。そして彼らに質問状を送るが満足な回答が得られず「伴天連追放令」を出すに至ったのである。
この時、西洋人達は武力の行使も吝かではなかったはずである。
しかし、彼らはそれをしなかった。またそれは何故か。
前述した通り、当時の日本は鉄砲の保有数世界一であった。
つまり、彼らが持ち込んだはずの世界的最新兵器の大量製造が可能な技術力を有し、しかもその技術が全国に広がっており、武力による制圧が不可能と考えていたからに他ならないのである。また、技術が広がっていたことはその当時、職人が国内での移動を比較的容易に行えたことを証明するものでもある。
「伴天連追放令」の後に「切支丹禁教令」が出され、日本国内、特に九州におけるキリシタン弾圧が繰り広げられた。
ここで推考しなければならないのは、秀吉が最終的に禁教令を出すに至る彼の思考である。
あくまで個人の思考であるが故に推論の域を出ることはないが、彼が追放令、禁教令と順を追って弾圧への態度を硬化させていく背景には、彼らの寺社仏閣の破壊行為やそれまでの九州地域の領民の生活を強制的に変えさせたことにある様に考えられることである。
つまり「日本独自の既存文化への破壊行為」を通して破壊されるであろう、前述の「日本人の特性」に対して、秀吉は体制の維持が極めて困難な状況に陥る可能性があり許容出来ないと考えたであろうと推考出来るのである。
秀吉のこれらの政策は、当時の社会情勢を鑑みるに、極めて的を射ていたと言えるだろう。
この後、天下を取り、実権を握った徳川家康も江戸に幕府を開き、禁教令を出し、幕府として「鎖国政策」を打ち出すのである。
その結果300年近くの平和と、所謂「町人文化」の隆盛、後の近代化に繋がる国内の産業体制を確立させるに至るのである。この国内における繁栄の背景には高度な技術力を有した職人や、高度な流通システムを醸成させた商人など、所謂「民間の智恵」が大きな働きを有していたことを付記しておく。
そして近世末期、西洋との再会の時を迎えるのである。
その時、世界はまさに弱肉強食の「帝国主義」の時代を迎えていた。
その文脈の中で凡そ300年続けられた「鎖国政策」によってもたらされた、安定した日本社会が仇となり、幕府はその無能さを露呈することとなる。
対外交渉に慣れていない幕臣、平和の中で近代兵器の保有数を制限してきた幕府に対し、屈強な軍事力を背景に交渉を進める欧米列強には抵抗する術がなかったと言っても過言ではない。
外圧に迫られ、幕府は致し方なく開国に踏み切ったのである。
300年近く続いた「鎖国政策」の崩壊と同時に日本はその「帝国主義」という世界の荒波へと漕ぎ出さねばならなくなったのである。
こうして日本は明治維新を迎え、「近代化」への道筋を辿ることとなるのである。
その後は前述した通りであるが、「民主化」がいつ為されたかという点について、ここまでの論に於いて考えられる点は2点である。
一つは敗戦後の高度経済成長を迎える以前の連合軍統治時代か、もう一つは明治維新の際、「近代化」を促す為に欧米列強の政治システムを導入した際か、のどちらかであろう。
国家的な「民主化」という観点からならば後者であろう。
明治維新後に議会が発足し、立憲君主制という政治システムが採用され、国家の運営に民意が反映される仕組みが成立したからである。
また、現代的文脈から考えれば「民主化」とは人民が主権を握ることであり、国民主権の憲法が制定され、それが施行されて初めて為されると解釈すれば前者であると言える。
しかし、この理論はあくまで欧米の、言い換えれば「キリスト教文化圏」の観点ではないだろうか。即ち「グローバリゼーション」的理論なのではないかと疑義を覚えるのである。
振り返ってみると、最も日本が「民主的」であった時代は或いは「近世」なのではないだろうか。
鎖国時代の日本は限られた生活環境、限られた物資で生活をせざるを得ない島国であって、その中で育まれた地方自治の在り方などは実に民主的である。
都市部の自治体制、農村部に於けると幕府との年貢米・供出米の交渉とその為に行われる村落の寄り合いや代表者の選任、町火消し等の自警団の組織化など、都市管理については領民達に一任されていたと考えられている。これは前述した「民間の智恵」の連続性の賜物と言えるだろう。
つまり、国家の政に関して民は口出し出来ないが、反対に民の暮らしに幕府が直接介入することは殆どなかったと考えられるのである。
斯様な生活様式は民主的と言えないのか。否、十分に民主的であろう。
それも極めて「日本的」とも言うべき、国の実情と政策が見事にかみ合ったスタイルであると言える。この様な政治体制であったからこそ、300年近くもの長きに渡り戦乱が起こらなかったのではないだろうか。
また、ヨーロッパでは複数回に及ぶ「黒死病(ペスト)」の大流行により人口の大多数を失い、壊滅の危機に瀕したこともある。
しかし、日本では古代から現代に渡って大規模な「疫病」に悩まされることはなく、疫病による国家滅亡の危機などなかったのである。
それは何故か。 答えは簡単である。
日本は風土的に、また土着信仰の観点からも「清浄」を好む文化を有しているのである。
具体的に言えば、「穢れ」を忌み嫌う信仰を持つ民族であったが故に入浴する習慣があったという点である。
これはキリスト教にはない感覚である。キリスト教に於いて肉体に関心を持つと言うことは「姦淫」を意味し、罪となる。故に、裸になって自らの身体を清浄に保つための手入れにあたる行為である入浴が習慣化するはずもない。また、衛生設備が皆無であったので排泄物やゴミの類が道路や裏庭に積まれ悪臭を放ち、人間には蚤や虱が湧き不潔そのものであった。
しかし、キリスト教は霊魂の救済こそが徳行であり、肉体そのものをなるべく目から遠ざける人こそが有徳の人であった。
然ればこそ、疫病が広がるのも宜なるかなである。
しかし、悪疫や厳しい自然環境を、ヨーロッパ人は知恵を絞り「大航海時代」経て「産業革命」を達成し、自らの与えられた諸条件の中で克服していくのである。
その中でも特筆すべきは「ルネッサンス」や「宗教改革」さらには「啓蒙主義」などを通じて散見される彼らの「知識欲」の対する貪欲さである。こういった文化性こそが、世界から尊敬を集めるヨーロッパたる所以であるのではないだろうか。
主に日本の「近代化」「民主化」を例にとり、対比としてヨーロッパの文化性を考えてきたが、斯様に考察を進めるとどちらもある意味では優れた文化であり、ある意味では劣っていると考えることも出来るのである。
まさに「文化」には優劣の付けようがない、と言ったところであろうか。
日本の文化や神道という民俗信仰も島国という空間的条件あってこそ、イスラム教も砂漠の中にある国であってこそ、キリスト教も然り、資本主義も民主主義も然り、諸々の空間的条件や生活に関する時間的経過によって生み出された、その環境で生き抜く術であると言い換えることも出来るのではないだろうか。
そう考えてみると、「民主化」という概念が正しいものであるかどうかは捉え方により、観点により、その空間的条件により変化するのではないか、と考えるのである。
つづく
前回、暫くぶりの更新に対し、多数のコメントをお寄せいただきまして有り難う御座いました。
一時は本当に「ブログが続けられるかどうか」と悩みましたが、閉鎖や休止宣言をしなくて良かったと、心から感謝致しました。
これからもマイペースですが、更新していこうと思います。
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コメント
milestaさん、こんにちは。
コメント並びにご了承いただきまして有り難う御座います。
milestaさんの考察に拙論が少しでもお役に立てたのであれば何よりです。こちらこそ改めまして有り難う御座います。
三島の本の記事も楽しみにお待ちしております。
投稿: 管理人 | 2007年6月29日 (金) 10時39分
本当に突飛な思いつきで、専門家やクリスチャンに叱られそうな考えですが、こんなものでも何かのお役にたつなら、煮るなり焼くなり如何様にでもなさってください。
私のブログでも、三島由紀夫の本を採り上げるときにこのことは書こうと思っていましたが、神主さんのところにコメントを書いたおかげで、自分がどのように考えていたかが整理できました。ありがとうございます。
(きのうここにコメントを送ったつもりだったのですが、うまくいかなかったようなので、もう一度書きました。もしも重複していましたら、お手数ですが昨日の分は削除してください。)
投稿: milesta | 2007年6月29日 (金) 08時36分
milestaさん、こんにちは。
コメント有り難う御座います。
>私は個人的にジーザスと三島由紀夫は同列にあるというふうに捉えています
非常にユニークで興味深い考察と思います。
日本では感じ得ない、現在異文化の中に身を置いていらっしゃるmilestaさんならでは達観された感性だと思います。
然し乍ら、或る意味で本質を突いておられるとも思います。
日本の「神」は「カミ」であり、それ以上でも以下でもありません。
豊かな自然に恵まれた土地がそういった神観念を生みました。そして島国という空間的条件もあり、様々な民族の交易拠点であったと考えられます。
そういった諸々の条件下で醸成された文化が、異文化に対して友好的な感覚を抱くのも然るべきことであります。
しかし、ヨーロッパは風土的にも決して豊ではありません。
更に言えばキリスト教が生み出された地域も砂漠地帯であり、両者とも「自然」とは共存するものではなく、克服していかなければならないものであった空間的条件を兼ね備え、それに準じた信仰体系が醸成されていったと考えるべきでしょう。
その結果が現在の「キリスト教一元主義」を基本とした「グローバル化」となって顕れているものと思います。
そういう人々と対峙した時、また現状を鑑みるに「日本人」としてどのように立ち居振る舞うか、その立ち居振る舞いにおいて「文化」或いは「歴史」というものがどれ程重要な要素であるか、という点について私は「神道信仰」というものを通じて考えています。
それを実践するのが私の生涯の課題であり、伝えるのが義務であると思っております。
私も色々勝手なことを申しました。(苦笑)
勝手ついでにもう一つ。
ジーザスと三島由紀夫が同列にあるという着眼点は非常に興味深いものであります。
時間はかかると思いますが、私の研究テーマの一つに加えさせて下さい。
いずれこのブログで記事に出来ればと思います。
もし、ご了承頂けるのであれば、お手数ですがコメントなど頂けると幸いです。
参考になる貴重なご意見を有り難う御座います。
投稿: 管理人 | 2007年6月28日 (木) 13時00分
>どちらもある意味では優れた文化であり、ある意味では劣っていると考えることも出来る
それを認めることができないのがキリスト教ですね。
以前キリスト教徒から、「ジーザスは自分勝手で欲深い人びとが増えたことを危惧して、皆が平等に(ユダヤ人だけでなく)救われるべきだと説くために地上に降りてきて、皆の罪を被って死んだ」と聞いて、突飛かもしれませんが、三島由紀夫を思い出しました。彼は「日本人が自分勝手になって日本の心を忘れたことを危惧して、本来目指すべきことは何か」を説き自決しましたよね。
それ以来、私は個人的にジーザスと三島由紀夫は同列にあるというふうに捉えています。両者とも、その時代その地域にはびこっていた問題に目を向け警鐘をならした人物だと。それを唯一絶対神(GOD)だと過信し、世界中に時代を超えて布教し、異教徒は許さないとしたところに、キリスト教のボタンの掛け違いがあったのではないかと思っています。
日本にも三島由紀夫を「神」と言う人もいます。だけど誰も唯一絶対神のGODだとは思っていないでしょう。せいぜいキリスト教でいうところの聖人か預言者です。イスラム教では、ジーザスも預言者の一人だと捉えているようなので、そんなところもイスラム教とは近いものを感じる点かもしれませんね。
勝手なことを長々と書きました。
投稿: milesta | 2007年6月28日 (木) 10時20分