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2007年6月25日 (月)

現代と神道 ~特別編その1~

暫くぶりの更新になってしまいました。

本当に有難いことではあるのですが、余りの忙しさに目が回るようでありました。

一時、このブログもあまりに更新が出来ない現状から閉鎖、若しくは休止宣言でもしようかとも思いましたが、少しずつでも更新しようと思いまして、思い留まっておりました。

今回は「手抜き」と思われてしまいそうですが、以前にあるところに寄稿しようと書いたのですが結局使わなかった文章です。

その時に使いたかったのですが、若干趣旨が異なってしまったため使用できなかったものです。比較的長文でありますので、3回に分けて掲載しようと思っております。

長い前置きになりましたが掲載致します。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性

キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、神道にせよ、仏教にせよ、全てが各々の土着の信仰であり、文化を形成してきたものである。

社会学者M.ウェーバーはプロテスタンティズムが資本主義社会を生み出したと言った。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)

グローバル化に対しテロなどの報復行為が是認されるべきではないが、視点を変えるとキリスト教原理の各国から観れば「テロ」であり、イスラム原理の各国から観れば「レジスタンス」と言えるのである。彼らの文化は資本主義ではないし、民主主義では有り得ない。ムスリムは「世俗化」すること自体が罪であるから、彼らの原理に添うことは万死に値するものだからである。

しかし現状に於いては「文明」という、言うなれば「普遍原理」「文化」という「変遷」を伴う同一のものではないにも拘わらず、その「変遷」に対して他者から強要が行われている。

「グローバリゼーション」という名の欧米軍事列強による「民主主義拡大政策」がそれである。仮に強要、強制の類の行為を受けたとすれば、彼らは「クルアーン」に則って「聖戦=ジハード」を起こす。しかし、それは決して「テロ」と呼ぶ類のものではなく、彼らにとっては「アイデンティティ・ウォー」に他ならないのである。

それが「ターリバーン」や「アルカイーダ」がイスラム諸国から支持を得ている最大の要因であると共に、アメリカが言うところの「文明とテロの戦争」という認識が彼らと如何に遠いところにあるかという証明とも言える。

私の立ち位置は彼らの行為を是認はしない。が、しかし、こういった戦争を招き起こしたアメリカ、それを黙認、是認した日本をも含む欧米諸国(中には反対している国もあるが)も同様に肯定することは出来ない、というものである。

それは即ち「民主主義」と「宗教」が相容れない存在なのではなく、「グローバリゼーション」の名の下に彼らの「アイデンティティ」が蹂躙されることが、彼らには我慢ならない、受け入れられないという考察からである。

仮にイスラム国家において民主化が進められるということがあるのならば、それは彼ら自身によって発議され推し進められるべきであり、アメリカの手によって行われるべき性質のものではないのである。アメリカも9.11以来この類の戦争を展開してきたが、この9.11同時多発テロ(私はこの名称を使うべきではないと考えるが便宜上使用する)も考えてみれば、中東情勢(特にパレスチナ問題)におけるアメリカの国策としてのイスラエル保護に端を発しており、2001年というキリスト教にとっては「特別な年」(ミレニアム=千年帝国の新たな建国・または復活の年)に起こっているという事実を見逃してはならない。

ユダヤ教に起源を持つ両宗教の歴史的構図と現代の「世俗化」されたキリスト教の繁栄が生んだ「驕り」が、本来優劣は存在しないハズの「文化」を、異質のものである「文明」の優劣にすり替え、「文明」の粋である軍事力を持って制した、或いは中東においてイスラエルが行っている軍事行動を容認、援助した事実は、これからも欧米人や日本人が言う「テロ」を益々頻発させるきっかけになることであると考える。

彼らの「行動」を決起させるその「元凶」を絶たない限り、つまり「グローバリゼーション」「インターナショナライゼーション」の違いが見出せない限り、この争いは無くなることはないであろうし、「民主化」が「善」で「非民主主義国家」が「悪」であるという二元論では解決出来ないであろう。

日本が「民主化」を成し遂げた経緯には、「明治維新」からその痕跡を辿ることが出来る。それは日本が当時の欧米列強に対抗する為に「近代化」を最優先課題とし、富国強兵政策を実現する為、積極的に彼らの文化、特に政治システムや軍事体系を取り入れ、日本人の精神的、肉体的改造に踏み切ったゆえである。

しかし「彼ら」にはそういった意志がない。

むしろ拒んでいるのである。

彼らからすれば、これが「強要・強制」でなくてなんなのであろうか・・・。

ここで日本の「民主化」の経緯を考察したい。

異教徒として「資本主義・民主主義」を導入し、象徴として天皇を国民の中心に据え国家の統合を図り、先の大戦へと進み、壊滅的な敗戦。しかし戦後の高度経済成長を経て、世界的な経済大国となった日本を、その先駆けとして世界的視線はどのように見ているのか。

それは極めて「前近代的」な視線である

日本人のイメージは「勤勉であり、礼儀正しく、協調性に優れている」というものが多数であろう。また逆説的にいえば「猿真似が上手い、感情を表さないので何を考えているか解らない、集団で行動するしか脳がなく個人では何も出来ない」等とも言うことが出来よう。

前述した様な日本人のイメージに見られる共通点は何か。

勿論それはかつての日本人の「生活様式」である。

「水田耕作」の文化であり、近世の「鎖国政策」に代表的に見られる「島国文化」である。

狩猟民族が稲作の普及によって定住農耕民族へと変容し、共同体中心の文化が構築された。

また、狩猟個体の絶対数に生活が左右される狩猟生活と異なり、農耕生活は比較的安定的な食糧の供給が約束された上、共同体に於いて創意工夫が成されればその成果に応じた収穫が期待できるようになる。つまり「勤勉性」の確立である。

更に農耕に於いて重要な要素として周囲との信頼・協力関係が前提とされるのである。

そこに求められるものは「協調性」であり、周囲との関係を維持する上で「礼節を重んじる」のも然るべきことであったと考えられる。

これらの特性は、おおよそ日本に稲作が伝来し、それが普及していった「弥生時代」に起源を求めることが出来る。

その後、遣隋使、遣唐使の派遣によってもたらされた「儒教」や「仏教」がこれらの特性を強化する後天的要素として広がりを見せるのも或る意味必然であったとも言える。

しかし、それらの要素が定着する為の前提として「土着」の「信仰・儀礼」があった。

現代的に言えば「神道」である。

それらの後天的要素が入ってきた時には先人は「本地垂迹説」を説き、また生活規範を強化する為の徳目として説いたのである。

つまり、あくまで日本国家は神々の支配する国であり、その国家体制の維持という政策的観点に於いてこれらを利用・活用し、日常に浸透させていったのである。

                                                  つづく

また少しずつではありますが更新して参りたいと思います。

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コメント

釣りキチおやじさん、こんにちは。
御無沙汰致しておりました。
コメント有り難う御座います。

日本人はあらゆるものに「カミ」の存在を見出し、その事実を通じて「他者」を認める文化を形成してきました。
このことは後に本論でも触れますが、土着信仰を築き上げるに至る経緯で、重要な点はやはり「島国」であることが大きく影響していると思います。
「他者」に対する寛容性も日本の文化性の一つです。

こういったことを我々はしっかり自覚せねばならないと思っております。

釣りキチおやじさんがお書きになっている子育ての本も大変興味深そうですね。
販売などについてもブログの方でご紹介いただけるのでしょうか。
楽しみに待ちたいと思います。

有り難う御座います。

投稿: 管理人 | 2007年6月26日 (火) 13時35分

TBありがとうございました。
子育ての本の原稿つくりでブログ関係をご無沙汰してしまって申訳ありませんでした。

神道は、「針供養」、「空気神社」、「鯨神社」、「水神」など、万物すべてに神を認めます。
このことは、他人を認めることにも繋がるのですが、日本人以外には理解不可能のようです。
家族同士で付き合いが出来たアメリカの宣教師も、「信じられない。」と最後まで言っていました。
この神道を世界に広めることが出来れば、世界平和は達成できると確信するのですが・・・。

投稿: 釣りキチおやじ | 2007年6月26日 (火) 11時44分

spiralさん、こんにちは。
コメント有り難う御座います。
久しく更新が出来ませんでしたので、本当に一時は休止宣言を出そうか本当に迷いました。

その実、幸いにも私の講演を楽しみにして下さっている方々がいらっしゃり、その環境下で私なりに「日本はこんなにも歴史があって素晴らしい国なんだ」という想いと、その認識、或いは自分達が知っている歴史観がゆがんだものであるということを知ってもらいたいという想いを少しでも伝えていきたいと頑張っていました。

自身の勉強も含め、そういった仕事などで多忙を極め、若干体調を崩した時期もありましたが、ようやく落ち着き、自身の体調も回復してきましたのでようやく更新に漕ぎ着けることが出来ました。

喜んでいただけることは何より励みになります。
有り難う御座います。

spiralさんも精力的に多方面に渡って活動を為されているいらっしゃるようですが、どうぞお身体は御自愛いただきますよう、くれぐれも御願い申し上げます。

投稿: 管理人 | 2007年6月26日 (火) 10時15分

すいません、さきほどのコメントの最後の部分を間違って書き込んでしまいました。「続きも楽しみになっております」と書いていますが、「続きも楽しみにしています」でした。すいません。


投稿: spiral | 2007年6月25日 (月) 15時17分

TBありがとうございます。田舎の神主さんよりの久しぶりのブログ更新のお知らせ、嬉しかったです。論文はまだ続きがあるそうなので、続きも楽しみになっております。

投稿: spiral | 2007年6月25日 (月) 15時14分

milestaさん、こんにちは。
コメント有り難う御座います。
またトラックバックも有り難う御座います。
今日はあまり時間が取れませんので、明日改めて拝読させて頂きます。

ムスリムのご友人をお持ちなんですね。
イスラム教原理に関しては、私もmilestaさんと近い考えを持っております。
それとキリスト教国家(主としてアングロサクソン)の文化についても、続きで触れています。ですのでここでのコメントは避け、拙論に譲りたいと思いますが、一点だけ触れさせていただきます。

世界的な抗争の大半は恐らく「文化」の対立から生み出されるものであり、「民族的対立」に代表されるように「異文化」を許容出来るかどうかで左右される性質のものと思います。

そんな環境の中で我々日本人の「立ち位置」と申しますか、歴史に育まれた性質・特性を十二分に発揮しなければいけない時代が来ているように思います。
本当によく考えねばなりませんね・・・。

また、久しぶりの更新に伴い、貴ブログでのエントリの趣旨とかけ離れたトラックバックになってしまった無礼をどうかご容赦下さい。

2,3日中に続きをアップする予定であります。
milestaさんには拙論を是非お読み頂いた上で感想などを頂ければ幸甚です。
有り難う御座います。

投稿: 管理人 | 2007年6月25日 (月) 13時52分

こんにちは。
久しぶりの記事、じっくり読ませていただきました。

半年ほど前に、イスラム教徒(エジプト人)の友人ができて、話していると、道徳観や世界観が似ていることに気づきました。同じ一神教でも、神に人格がないからか、他宗教とも共有できる考え方をもち、他宗教に寛容な気がします。そして、私たち一家をとても信頼してくれて、子供を遊ばせるならmilestaのうちの子と遊ばせたいと言ってくれます。「やはり東洋人はわかりあえる。西洋文化にはどうしても相容れないものがある。」と。その言葉は、彼女との付き合いから、私も同様に感じていたことでした。謙虚で、派手なことは嫌い、勤勉な彼女の子供達のことを、私も大好きです。
そして、なぜキリスト教だけが、あんなに執拗に異教徒への弾圧や改宗を迫るのかと思っていたところでした。神主さんの記事を読むと、宗教的な理由だけでなく、自分たちこそが民主化を果たした先進民族だというような感覚があるということなのですね。

先日捕鯨についての記事を書いたのですが、その時は、キリスト教徒というかアングロサクソンに、そのような一面的な価値基準を感じて、どうも納得できないと思っていました。(TBさせてもらいました。)

そして今日、この記事を読んで、現代の世界の紛争の多くは、キリスト教や欧米人の優越感から始まっているのかもしれないなどと考えてしまいました。
続きも楽しみにしています。

投稿: milesta | 2007年6月25日 (月) 08時48分

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