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2008年4月18日 (金)

環境問題と神道文化

前回の更新よりだいぶ日が経ってしまいましたが、以前の主人の講演趣旨をまとめた原稿をそのままですが掲載させて頂きます。

「環境問題と神道文化-地球環境の危機に直面して、神道文化はどのような打開の方途を示すことが出来るか-」

現在、環境破壊は地球規模で様々な兆候を見せ、人間の存在そのものに容易ならぬ事態を引き起こしている。18世紀西欧で起こった産業革命に起因する啓蒙主義から発した人間中心主義が、近代の世俗的科学技術文明の物質的繁栄をもたらす一方で、現代の深刻な環境破壊に至る根本原因となり、その状況は刻一刻と悪化し続けている。

依然として世界経済の開発動向を支配しているこの価値観を軌道修正するには、先進と後発の諸国が共有できる環境倫理を目指すことが必要となってきているが、これまで環境問題に対してとってきた様々な対応は、あくまで科学技術による対症療法的対応であり、根本的な解決には至っていないのが現状である。

スウェーデンの哲学者アルネ・ネスは科学技術の力によって対症療法的に解決を図る(Shallow Ecology)のではなく、生態系を心で理解し、それまでの物質的繁栄重視の発想から転換を図るべく、深く、徹底的に生態系保全に努めるべきであるとした“Deep Ecology”という概念を示した。つまり科学技術で何とかしようという発想だけでは環境は守れない、人を支えている生態系を豊かにするためには人間以外の生命も含むすべての命に尊厳を認めるべきだという「生命圏平等主義」を主張したのである。

この概念は当時、聖書宗教の世界観を持つ西欧各国では非常に斬新であり大変な衝撃となったが、東アジアでは例えばそれは仏教における「殺生戒(Ahimsa)」という概念や、ジャイナ教などはこの不殺生を徹底して目指したということなどからも、こういった発想は極めて一般的なものであったといえる。しかし、我々は食事など他の生命を奪うことなくしては命を繋ぐことができないのもまた事実であり、宗教的な矛盾を常に抱えていると言える。それは農耕社会に生きる我々日本人にとって穀物、特に米は生命線であり、我々は生きるためにその「稲」という生命を摘まねばならない宿命にあるということである。

神道では「敬神崇祖」と「鎮魂」という概念がある。我々は祖先から生を享け、万物から生かされているという発想、つまり生と死とを通じた生命の霊的連帯の中で自然や人間の霊性を神とも祖先ともして祀り鎮める営みである。それは神道文化が持つ生命観であり生命連鎖という生態系、つまり自分の命を次の世代に引き継ぐことの大切さが見えてくる。そういった考えに基づいて、新嘗祭に代表される神道儀礼において自らの生命を繋ぐ「稲」という尊い生命を神饌という聖なる対象とし、象徴的行為を以てその殺生に対して意味づけすることで前述の宗教的矛盾に応えてきた。また日本人が持つ「神道文化」には「鎮守の杜」という言葉がある。日本人が「杜」には何か霊性とか神が宿るという考えを持つのは極めて自然であった。また「杜」をはじめ全ての生命を含む日本語の「自然」という言葉は名詞でもあり、形容詞でもある。そしてそれが持つ概念は「自づ」から「然る」というものであり、それこそ最良の形であると考える文化的土台に成立した宗教であることに起因して、人もこの一部であると考え、自然との共生を果たしてきたといえる。

現代の環境問題をもたらした要因の中のひとつとして現代に生きている人間だけが権利を持つという発想があり、神道文化での祖先から生を享け万物から生かされている自然的秩序の一員であるという発想は環境問題を打開する上で何らかの手がかりとなるのではないかと考える。それは旧来の精神文化への立ち返りを意味するものではなく、現在の物質文明へのアンチテーゼとなりうるのではないだろうか。そして比較文化を通じて神道文化が持つ概念が世界中で理解されるようになれば、両者を止揚させ「生命文明」と言えるような本質的かつ永続的な文明を築く一翼を担えるのではないか。

現代、世界的には爆発的な人口増加と、開発途上の国々の近代化に伴って環境破壊が致命的なところまで進もうとしている。近い将来予想される深刻な食糧不足、或いは急速な地球温暖化から懸念される氷河期の早期化。

それらに歯止めをかけるためにも、我々日本人が有する文化性、神道に含まれる宗教的規律が今こそ世界に発信され貢献するべき、そんな時代を迎えているのではないだろうか。

まさに今こそが、日本人が真に国際化を果たすべき、その時であると考えるものである。

                           代筆 田舎の神主の妻

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