2006年3月22日 (水)

不登校

先日、私の住んでいる地区の宗教連盟からご依頼を頂戴しまして、小中学校の不登校児とその家族を対象にした懇話会で講演をさせていただきました。

講演後、何組かの親子とお話をさせて戴く機会を頂戴しました。

そこでの遣り取りでかなり驚くものでありましたのでここで御紹介させていただきます。

小学校4年生の男の子の話です。

国語の授業で自分の父親について作文を書くという課題があり、順番に教壇の前で読み上げることがあったのだそうです。

彼は「僕の父は航空自衛隊のパイロットで、僕も将来は父の様なパイロットになりたいです」という内容の作文を発表したそうです。

周囲からは「かっこいい!!」とか「すげー!!」などという彼を羨むような声が上がったそうです。

ところが、担任の教師(40代、女性)は彼が作文を読み終わるやいなや、思い切りのビンタで彼を張り倒し、「そこで正座しなさい!!」と教壇の上に彼を座らせたそうです。

それから授業を中断しその女教師は生徒に向かって演説を始めたそうです。

少年から聞いたところに依ると彼女の話は

・自衛隊は人殺しの集団である。

・そこに所属する少年の父親は悪である=少年も悪である

・現代に生きる我々は祖先の過ちをアジア諸国に謝罪しなければならない、????・・・などなど・・・

少年は当然、泣いていたそうです。すると「うるさい!!静かにしなさい!!」と言って又ビンタをしたそうです。そして授業中、ずっと彼女は演説を続け時間を繰り越してまで続けたそうです。

しかし、事態はそれだけでは済まなかったのだそうです。

学年で彼のクラスだけに毎週金曜日の放課後に「クラス反省会」という、順番にクラスメイトの欠点を互いに批判し合うというHRが在ったのだそうです。(どこかの組織の『総括』というものみたいですね) そしてその週のその『会』でその担任教師によって再び少年は槍玉に挙げられたのだそうです・・・。

そこで女教師は「○○君を善人に生まれ変わらせてあげましょう」と言ってクラスメイトに批判をさせたのだそうです・・・。

それからというもの何かことある事に彼を槍玉に挙げ、その都度「まだ○○君は人殺しのお父さんの悪影響を受けている」などとクラスメイトの前でしかりつけたのだそうです・・・。

結局、少年は登校拒否になってしまい、そのことをご両親が学校側に掛け合ったところその女教師は「減給処分」を受けたそうですが、それ以外には何もお咎めがなかったそうです・・・。

その後、少年は転校し、現在に至るそうですがその時のことがトラウマになってしまい転校先でも学校に馴染めず、不登校のままでいます・・・・・。

しかもその教師はその少年が転校した後に生徒達に向かって反省するどころか「悪人が居なくなって清々した。これでクラスに平穏が戻る」と言ってのけたそうです。

偏向教育のみ為らず、子供達にトラウマを残す様な行為をしている愚かな大人達が今日も教壇に立ち、子供達に「教育」の名を借りてまた、さらに子供達を汚す行為に及んでいるのかも知れない・・・。そう思うと居ても起っても居られない気持ちになってくるのは私だけではないと思います・・・。

その他の不登校の児童達にはもう少し、親が厳しくしても良いのでは・・・?と思うような方々もいらっしゃいましたが、「中にはこういう例も本当にあるのだ・・・」と今の教育現場に於ける問題を真剣に考え、行動できることは行動しなければならない、と心を新たにしました。

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2006年1月18日 (水)

私の思う作法

先日、かついちさんから神社などの参詣、参拝についての作法について幾つかご質問を頂戴いたしましたので、その質問にお答えしながら私の考える「作法」について触れてみたいと思います。

一般的に神道の礼拝というのは「ニ礼二拍手一拝」というのが基本作法ですが、そのお社やお宮によっても作法は異なるものであり、また神道系の宗教団体ごとで作法は異なるものなのです。キリスト教でもカトリック系とプロテスタント系で礼拝儀礼が違うように、です。

初詣でも御自身の氏神様にあたる神社をお参りし、その後に現在、ご自身が信仰されている神様の祀られているお社やお宮、教会などを参拝されるのも多くの御陰を賜るためには良いことですし、御守や護摩札などもご自分の御祈祷(感謝や厄除けなど)の為に御作りになられたり、購入されるのも結構なことであると私は思います。勿論、誰かの為に祈祷されて護摩札や御守を作られたり、購入されるのも全く問題ないと考えます。

こういったことは色々なところに行かれるとそこの宮司さんが独自の見解を持っていることも少なく在りません。(私もその一人ですが・・・。)

私共の社では毎年、総代の方々と一緒にお寺さんに御篭りに入りますし、伊勢神宮にも参拝します。伊勢神宮参拝の際にはその道中でお寺さんや観音様、様々な神社仏閣にも参拝します。(伊勢神宮の神官の礼拝作法は『八手』という作法を使います。ニ拍手では無く八つ手を叩きます。参考までに。)

そこで多くのことを学び、また自分たちの信仰を深くする、そういう取り組みも必要であると考えています。ですから「こうしなくてはいけない」というものはそれほど数多くは存在しないと思います。

そして、そういう考え方こそがある意味、「神道」という信仰であると考えます。

ありとあらゆるものに柔軟に、且つ寛容に受け入れる。ある種、「曖昧」という表現をしても良いのかも知れません。

それが一神教の国々の方々や大陸系儒教の国々の方々と異なる、日本人独特の民俗性に通じているように思います。

そういう日本人の感性、民俗性、即ち「日々の周囲にある全てのものに対する感謝の心」、「他の意見を聞き入れる寛容な精神」、それらを生活に生かしていく心構えが日々必要であることを認識することが重要であると思います。

排他的な精神は神道の概念には余りありませんし、他の宗教を受け入れる土台が昔からあると思います。

それは「本地垂迹説」に代表される日本人の精神性というか「素直な心」に起因するものではないかと考えます。純粋に「この教えは素晴らしい」とか「見習うべきものがあるな」と感じる心から生れてきているのだと思います。

我々の祖先は本当に素晴らしい教えを残してくれているなぁ・・・・・。

(一人悦でおしまいです。(汗))

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