2006年4月20日 (木)

伊勢参拝 ~その2~

すっかりご無沙汰してしまいました。

なんだかとても忙しくて全く更新どころではありませんでした。

ではでは、前回の続きと言うことで・・・。

今回の伊勢参拝は中々、興味深いことが沢山ありました。

途中で大雪に降られ、高速道路では吹雪・・・・・。

伊勢に着くと雪はやんでいましたが、怪しい曇り空・・・・・。

まずは「外宮」をお参り(正式参拝)してから、いつもは「内宮」へお参りをするのですが、今年は猿田彦神社へ先に行きました。

「外宮」は商売繁盛の神と云われる「豊受大神」がお祀りされています。

そして「猿田彦神社」は道開きの神様、「道祖神」とも云われる「猿田彦大神」がお祀りされています。 交通安全や縁結びなどで有名で、伊勢神宮の「式年遷宮」の時に、ここの宮司さんが行列の一番先頭を以前は歩いて居られたそうです。 こちらも毎年正式参拝をさせて頂いています。

そして「天照大神」のお祀りされている「内宮」へ・・・。

「内宮」へ着くとさらに怪しい雨雲が・・・・・・。

「まぁ大丈夫だろう」と思い傘を持たずに歩き出すと、ちょうど神楽殿に着いた処で、

「ポタ・・ポタ・・・ザァーッ・・・・・」 大雨です・・・。

先に本宮へ正式参拝へ行ってから「御神楽」を、と予定していたのですが、神宮の職員の方にも、

「宜しければ、先に『御神楽』を御奉納されてはどうですか?」

とお声をかけて頂きお言葉に甘えることにしました。

そして神楽殿の待合所で待ちながら窓の外を眺めていると、ものすごい稲光と共に雷鳴が響き渡りました!!待合所にいる皆が同時に「うわぉぉぉ・・・・」と声を上げるほどでした。

「(注)若先生。あのまま、本宮に行ってたらびしょ濡れだったね・・・・・。若先生が先に『御神楽』の受付をしてくれた御陰で助かったよ。 職員さんも声懸けてくれたしね。」

(注)・・・恥ずかしながら私のことです。

と総代の方の一人が仰いました。そしてその後「御神楽」を奉納し、再び外へ出てくると、さっきの雨と雷は何処へやらというほどの青空が広がっていました。

「おぉ・・・。こりゃすごいね、若先生。一体どうなってんだろうね・・・?!(注2)先生と若先生の徳積の成果・・・御神徳かね?!(笑)」

(注2)これも恥ずかしながら父のことです。

でも本当に不思議なことに、やんでいたのです。御陰様で一度も傘を差すことなく、「内宮」を参拝することが出来ました。

何処のお宮へ行っても正式参拝をすると気が引き締まり、必ず感謝の気持ちが芽生えるものですが、今回は特に有難く思い、「神恩感謝」の念で一杯になりました。

その後、「月読宮」へお参りをして宿に着き、そこで父が、

「家を出てくるときは桜に見送られて、道中、高速道路では吹雪に吹かれ、伊勢では夕立のような大雨と雷に出くわしたし、その後は嘘みたいな晴天・・・・、今日一日でなんだか一年の天候全てに出会ったような感じだな・・・・。今年はもう、来られないと思っていたけど来ることが出来たし、不思議だけど・・・・・なんだか有難いな・・・・。」

私はただ大きく頷くだけしか出来ませんでしたが、父が感じた、「不思議な感覚と感謝の気持ちは共有出来たかな」と感じました。

   その3へ続く・・・・・

| | コメント (10) | トラックバック (4)

2006年3月29日 (水)

伊勢参拝  ~その1~

昨年の暮れから、未だ落ち着きを取り戻せない状況であります・・・。

テレビのニュースを見ながら様々な事を感じ、ブログを更新したいなぁと日々、思っていますが御陰様で大変多忙に過ごさせて頂いておりまして、中々、記事をまとめる暇を造ることが出来ませんでした・・・。

「これを書こう。」と思っていながらも、時期を逃してしまう事も続き、皆様のブログやホームページなどを拝見しながら僅かずつながら勉強しておりました。

時間が出来たのも束の間で、明日からは伊勢神宮の方へお詣りに行きます。

これはうちの神社で毎年行っているもので、今年で60回目になります。

私もそのうち、20回くらいは参加させて頂いております。

総代の方々と氏子の方々、関係の神職の方々と共に毎年欠かさず執行されてきました。

最近では以前に比べ参加される方が少なくなってきましたが、それでも続けて行っております。そしてこれからも続けて行こうと思います。

昔は伊勢参拝というと「御陰参り」や「抜け参り」といって、それこそものすごい人数が参拝されていたこともありました。

明日から神宮だけではなく、他のお宮や神社も参拝する予定で居ります。

また帰ってきたら更新しようと思います。

それでは明日は、早いので一足先に休ませて頂きます。

| | コメント (4) | トラックバック (5)

2006年3月22日 (水)

不登校

先日、私の住んでいる地区の宗教連盟からご依頼を頂戴しまして、小中学校の不登校児とその家族を対象にした懇話会で講演をさせていただきました。

講演後、何組かの親子とお話をさせて戴く機会を頂戴しました。

そこでの遣り取りでかなり驚くものでありましたのでここで御紹介させていただきます。

小学校4年生の男の子の話です。

国語の授業で自分の父親について作文を書くという課題があり、順番に教壇の前で読み上げることがあったのだそうです。

彼は「僕の父は航空自衛隊のパイロットで、僕も将来は父の様なパイロットになりたいです」という内容の作文を発表したそうです。

周囲からは「かっこいい!!」とか「すげー!!」などという彼を羨むような声が上がったそうです。

ところが、担任の教師(40代、女性)は彼が作文を読み終わるやいなや、思い切りのビンタで彼を張り倒し、「そこで正座しなさい!!」と教壇の上に彼を座らせたそうです。

それから授業を中断しその女教師は生徒に向かって演説を始めたそうです。

少年から聞いたところに依ると彼女の話は

・自衛隊は人殺しの集団である。

・そこに所属する少年の父親は悪である=少年も悪である

・現代に生きる我々は祖先の過ちをアジア諸国に謝罪しなければならない、????・・・などなど・・・

少年は当然、泣いていたそうです。すると「うるさい!!静かにしなさい!!」と言って又ビンタをしたそうです。そして授業中、ずっと彼女は演説を続け時間を繰り越してまで続けたそうです。

しかし、事態はそれだけでは済まなかったのだそうです。

学年で彼のクラスだけに毎週金曜日の放課後に「クラス反省会」という、順番にクラスメイトの欠点を互いに批判し合うというHRが在ったのだそうです。(どこかの組織の『総括』というものみたいですね) そしてその週のその『会』でその担任教師によって再び少年は槍玉に挙げられたのだそうです・・・。

そこで女教師は「○○君を善人に生まれ変わらせてあげましょう」と言ってクラスメイトに批判をさせたのだそうです・・・。

それからというもの何かことある事に彼を槍玉に挙げ、その都度「まだ○○君は人殺しのお父さんの悪影響を受けている」などとクラスメイトの前でしかりつけたのだそうです・・・。

結局、少年は登校拒否になってしまい、そのことをご両親が学校側に掛け合ったところその女教師は「減給処分」を受けたそうですが、それ以外には何もお咎めがなかったそうです・・・。

その後、少年は転校し、現在に至るそうですがその時のことがトラウマになってしまい転校先でも学校に馴染めず、不登校のままでいます・・・・・。

しかもその教師はその少年が転校した後に生徒達に向かって反省するどころか「悪人が居なくなって清々した。これでクラスに平穏が戻る」と言ってのけたそうです。

偏向教育のみ為らず、子供達にトラウマを残す様な行為をしている愚かな大人達が今日も教壇に立ち、子供達に「教育」の名を借りてまた、さらに子供達を汚す行為に及んでいるのかも知れない・・・。そう思うと居ても起っても居られない気持ちになってくるのは私だけではないと思います・・・。

その他の不登校の児童達にはもう少し、親が厳しくしても良いのでは・・・?と思うような方々もいらっしゃいましたが、「中にはこういう例も本当にあるのだ・・・」と今の教育現場に於ける問題を真剣に考え、行動できることは行動しなければならない、と心を新たにしました。

| | コメント (32) | トラックバック (8)

2006年1月31日 (火)

「感謝」と「報恩」

昨年、中学1年生の少年が母親を殴り殺したというニュースが飛び込んできました。

殴った理由は「小学6年生だった昨年から、勉強するようしつこく言われ母親に暴力をふるうようになった」との事・・・。

昨年6月にあった15歳少年による両親の殺害事件。

それもまた「父親に馬鹿にされた」という理由で両親を殺し、自宅に時限爆弾のような装置を仕掛け隠滅を図ったとの事でした・・・。

いつの頃からでしょう・・・子供達はこんなに簡単にも人に、しかも自分を産み、育ててくれた親に対して手を上げたり、或いは殺してしまったり、そのような重大犯罪が多発するようになってしまったのでしょうか・・・。

それと並行して「親」の子供に対する虐待も後を絶ちません・・・。

親が子供を「餓死」させたり、マンションの高層階から放り投げたり、或いはもっと直接的な「暴力」的な手段での虐待であったり・・・。

この国に於いて「親子の絆」というのは何処まで薄らいでしまったのでしょうか・・・。

親子ばかりではありません。

年末には小学校1年生の少女が連れ去られ殺害されるという事件も起きました。

また、直接人の命を奪うわけではないが一連のマンションの建築計算書の耐震強度偽装事件など人命を軽視するような事件が後を絶ちません・・・。

さらには、今現在マスコミを騒がせているライブドアの問題やそれにまつわる自民党執行部の対応の在り方など、人が人としての道を踏み違えていると思われるような出来事も多く見聞します。

何故、このような状況に陥ってしまったのでしょうか・・・。

常識的に考えて、人は他人に親切にしてもらえば、有難いと思って感謝し、その人のために何かをしなければならないという感覚を持つものだと思うのです。

こういう義務感の発露というのは、人間として自然な感情だと思います。

ところが、現代では義務感を発露させる「感謝や恩義」を感じなくなり、「されて当たり前」「奪えるものは何でも奪え」というような感覚に陥ってしまっているように思えるのです。

成人式で騒ぐ若者はこの典型でしょう。

行政に庇護され、教育を受けさせてもらい、安全で快適な暮らしを享受しながら、その恩義をまったく感じることができず、その恩恵を授けてくれた存在に対して無礼きわまる態度をとっているのですから・・・。

暴れて物を壊したり、大酒を喰らい、人を殴ったりするのが人間の道とは到底考えることは出来ません・・・。

それを平然としていて「若気の至り」などと気がつくときはもう遅いかも知れないのです。

人生は長いようで短いものだと思うのです。

『いろはにほへと ちりぬるお わかよたれそ つねならむ うひのをくやま けふこえて あさきゆめみし ゑゐもせすん』

むかし、小学校で現在の「五十音」を覚えるために使われた言葉です。

これはただ単に「語呂合わせ」で使われただけでなく、人生の「儚さ」を詠み込んでいるのだそうです。

『色は匂えど 散りぬるお 我が世足れぞ 常ならむ』

『花は咲き乱れ色香が漂う。人はその色香に惑わされてしまうものだ。しかしその花もいつかは散りゆく。それはこの世の平生の出来事なのだ。』

『有為の奥山 今日超えて』

『深く険しい山道を越えるように、様々な艱難辛苦を何とか乗り越えて今日まで来たけれども、』

『浅き夢見し ゑゐもせずうん』

『それはまるで浅い夢のようだった・・・。それに気が付いたときにはもう、自分の人生はお仕舞いになっていた・・・。』

という心を詠み込んでいるのだそうです・・・。

人間が人間である限りは人の道も変わるものではないと思います。

人は幸福を願わない者は居ないでしょうし、災難を喜ぶ者は居ないでしょう。

幸福は「感謝の心」からその感謝の事柄に対し「報恩の念」で応えることによって生れるものだと思うのです。

私達人間は、喜びと感謝に満ち、それに対する報恩に因って充実した真実のある一日を生きるべきだと思うのです。(師匠の受け売りですが・・・(^^;))

私の好きな言葉で「先人が木を植え、後人はその木陰で憩う」というのがあります。

ここに登場する先人と後人はたまたま同時代に生まれ落ちることはありませんが、この両者の間に会話はしっかりと成立しているのです。

先人は後人がここで憩うであろうことを期待し、自己の生が時を超えることをその木に託すのです。

そして後人は先人に感謝するのです。『有難いと・・・。

「人の生なんて所詮はちっぽけなもんだ。でも、俺の行為が後に続く人々のためになるのならば、それはそれで価値ある一生だったというべきなんだろうな」との先人の想いが一本の木に託され、その想いがわかるからこそ後世の者は感謝を抱くと共に感慨に耽るのです。

「俺は後世の者に何を残せるだろうか」と。

以前に書いたエントリに引用させていただいた先生のお言葉をまた引用させていただきますが、

『古人は『積善の家に余慶あり』と教えている。世の中が真暗闇見えるのは、即ち己の心が暗い行為に過ぎない。人は心掛け次第で如何にも立派に成れるものである。』

つまり、「善い行いを重ねる人物の家には余りある慶びがある」という意味であり、人の道に沿った暮らしを営み、どんな世の中でも明るく過ごすことが重要であり、日々、「感謝」を重ねていれば自然と「報恩」の念が生まれ、そこから慶びが現れてくるのだと思うのです。

『本来、人は神の分身なるが故、駄目な人間はこの世に一人も居ない筈である。「資本が無い」「若い」「学問が無い」から駄目な人間であるとは決められない。駄目な人間とは、行う以前に「俺は出来ない」「俺は駄目だ」と自分で決め付けていてやろうとしないだけのものである。

「やれば出来る」

この信念を持つことである。苦を越え、焦りを押えて一つの事を成し遂げた時の歓喜、自己が自己に克つ体得が大きく人の一生を支配し、最終の美を飾れるのである。反省は過去の失敗や過ちに心を腐らせ胸を痛めつけることでなく、失敗や過ちを自心の養いとすべきである。』

そんな心構え、気構えを持って過ごすことが出来れば自己の過剰な欲求を発散する行為、即ち、冒頭で述べたような事件が起こることはないのではないか、と思うのです。

そして今度は後世を生きる者達の為に、先人としてそういった「心構え」や「気構え」を語り継ぎ、この国のそんな美風を「良い木」として残していくことが我々に課された使命であり、人としての務めではないか、偉そうですがそんな風に思う、今日この頃です。

| | コメント (14) | トラックバック (4)

2006年1月 5日 (木)

遅ればせながら・・・新年明けましておめでとうございます!!

皆様、遅ればせながら

新年明けましておめでとう御座います。

今年も宜しくお願い致します。

いや~。やっと更新できました。

まだまだ時間はあまり作れないのですが、久しぶりにまともにパソコンの前に座っています。

年末年始にコメントやTBを下さった皆様方、有難う御座いました。

レスポンス遅れて申し訳ありませんでした。これに懲りずに今年もバンバン、コメントやTB下さいね!!

今年もたくさん勉強して色々な問題を思うままに書いて行きたいと思います。

皆様今年もご指導、ご鞭撻を宜しくお願い致します!!!

| | コメント (22) | トラックバック (2)

2005年12月25日 (日)

季節労働者・・・

最近、更新が全く出来ません・・・。

神主という職業は本当に季節労働者のようなものなんですよね・・・。

正月、お盆、お彼岸、七五三、・・・・・・・etc そんな中でも特に正月は忙しいのです・・・。(言い訳です。・・・汗)

拙ブログを訪問して頂き、たくさんのTBやコメントを頂戴しておきながら、レスポンスが遅れまして大変ご迷惑をおかけしております・・・。(反省)

暫くは少しずつ更新と返信をして参りたいと思いますのでどうか御容赦頂きたいと思います。申し訳ありませんでした。(更に反省)

気になった事があったら書くかもしれませんが、年内の更新は恐らくこれが最後になると思います。

皆様、今年一年、有難う御座いました。

また来年も宜しくお願いいたします。

良いお年を!!

| | コメント (15) | トラックバック (2)

2005年12月15日 (木)

歳の瀬を迎えて・・・

最近、体を壊したり、もの凄く仕事が忙しかったりと気分が落ちることがよくありました。

そこで私の尊敬する先生に手紙を書き、お返事を頂きました。

ずーっと更新も儘ならないような状態だったのですが、先生から頂いたお手紙を読み、「時間を作って更新せねば」と思い立ち、やっと更新するだけの時間を作りました。

ある意味、神職というのは季節労働者のようなもので「盆、暮、正月」はとにかく忙しいのです・・・。(言い訳です)(汗)

今回は先生から頂いたお返事に素晴らしいお言葉がたくさんあったので一部ご紹介したいと思います。長文になりますがお時間がありましたら是非一読頂ければと思います。

歳の瀬を迎えて

「暮れは一日の終わりにもあり、月末にもある。歳の暮れは其の年の終わり師走である。平素、心構えを持ち、自己自身の締めくくりのあるものは、この慌しい師走になっても平然としていられるものだ。暮れが来ようが大晦日になろうが少しも慌てる必要は無い。寧ろ本年の成果に喜び一杯、感謝感激で軈(やがて)来る新年を嬉喜としてお迎えする心構えが出来ている。実に安らぎの心で居られるものだ。それは本年の得業が見事成就されているからである。師走とは仕果(しわす:仕事を果たすの意)なのだ。」

  ~~中略~~

「そして御奉仕歉念(ごほうしかんねん)の一念が、まさに至誠天に通ずるのである。

という字は(クサクサ)とした気持ちで(にちにち)を過ごして来たか、それに大きなを通って来たかが(くらし)である。光陰矢のごとしと云うが、暮も急に足下から出てきたり、不意に沸いて出たものではあるまい。自然は今年初めの元旦から同じ時間を経て、忙(せ)かず、急がず、弛まず、止(病)まず、春から夏へ、、秋を過ぎ、順序を更(か)えず、日と月を流して冬に至ったのである。人智を越えて、学問智慧と何等関係なく昼と夜は廻り、春夏秋冬は狂いなく巡(まわ)って来る。

大自然、即ち、カミの支配する天地宇宙の運行(はたらき)の流れは、大昔から現在に至るまで、一度も歪(くる)った事は無い。大晦日が来なかった歳は歴史が始まってから今まで一度もない。太陽、ヒノカミは急かず、忙がず、慌てもしない。今日も陽々(ようよう)として暢々(のびのび)と、人類を始め万物育成の運行に余念がない。大自然の運行には行き詰まりがない。この恵み豊かなる現世に生かされる、小自然たる人間、カミノコに行き詰まりが在るは不自然なことである。平素、神の子である尊い己の本心を自覚して居らぬからであり、自尊を弁えぬからである。大自然、カミの母体に住みながら神を知らない、恰も目的も持たないで人生を迷いつつ漫歩しているからである。

然れど待ちなさい。十二月、この月は反省月となさい。茲(ここ)において大きく目覚めなさい。自我を捨てる事だ。現状で落ち込んでいるのは己のことのみを愛し、他を愛することが出来ないからである。私達人間は自分一人で、自分だけの為に生きて居るのではない。自我を捨て、人の立場になればなるほど、他人との和の度合いが強まり、人生は喜びに満ちた、生き生きとしたものになることを確信するものである。所謂『合掌の心』であり、それは拝み合い心から始まる。感謝の心であり、有難うと云う心であり、神の御心を我が心として、其の心を現世に生かすことである。

大宇宙の運行は、太陽の周りを一周り、地球が三六五回廻りきった時、鳴り響く除夜の鐘の音を聴くのである。然れど除夜の鐘が鳴ったからとて、『どれどれここらで一服』などと大自然は言わない。太陽も動いて止まづ、一秒の休みもなく、あまりにも勿体無い、有難い極みである。だが、この世の多くの人はあまりにも大なるためか、大自然の恵み、其の有難さに気が付かず、また知って居っても何時の間にやら忘恩し、自分で生れ、自分で生活(くらし)を営んでいるように錯覚を起こす。これが先ず根本の間違いである。

・・・人間の本質は極めて善なるものと謂う・・・然るに今世では『人は自分さえよければ良い』というような・・・この理想は何処から何時頃から出てきたのだろうか・・・。私の記憶では終戦前はごく僅かな人しか持ち得なかった思想のように思う・・・。自分さえよければ、親であろうが兄弟であろうが、師匠であろうが、良人(おっと)であろうが妻であろうと、義理も人情も恩義も務めも蹴飛ばしてしまう。これが人間の為せる道であろうか。

今の世に云わせると『やり方はどうでもいいから破壊するのだ。破壊しなけりゃ建設できない』などと云い有無を言わさず・・・。それでいて建設する方法や話の進め方なども知らない・・・。更には永年先輩たちが苦心して築き上げたものを蔑ろにし、捨ててしまう・・・。未法の、無法の世の中である。それでも自分に力がある間は良い。だが一線を退き、自分が育てた芽が育ってみたら自分とそっくりの先輩や先達の言う事を聞かぬものたちに対して、なんと思うのであろう。『そんな世の中に誰がした』とでも言うのだろうか。

何時だったか、親しい人に聞いた話であるが親の生前中は親にペコペコして財産を分けて貰ったら、親の葬式にさえ顔を出さない・・・人間の道を踏み外し違えている。学問だけでは解決できない問題だと思える。また親を邪魔にして、無理に病気でない病人にして病院に追いやる夫婦もあるとか・・・。西洋の思想にかぶれるのも結構であろうが、先ず人間の道、人間は何の為に生れて来たのかとくと考えてみたら良いと思う。犬や猫さえ、ちゃんと恩義を感じ使命を弁えている。物を壊したり、人を蹴落としたり、殺したりするのが人間の使命では在るまい・・・。太陽に古い新しいはない。人の道にも古い新しいはない。貴兄には真の哲理を究明、求道し、人間の使命で良い事のみを実践して貰いたい。

私などの教育を受けた時代は先生に真に親しみ、礼を尽くしたものである。皇室も然り。『三尺下がって師の影踏まず』とか天皇の徒歩の時は皇后は後方三尺の間をおいて御歩みなされた。また先生も然り。教職とは尊いものとし、己の人格を養い高め、子供は先生を慕い、先生は子供を愛した。ところが今の大学では企業化されて、先生は学問を切り売りし、高校や中学では卒業式に教えた子供に先生が袋叩きにあったり、放り出されたりしている。街には男だか女だか解らない者が氾濫している。世の中がもの凄い速さで変わっている。世は全(まさ)にコンピューター時代。宇宙の解明に科学陣が立ち向かっている。近々、月旅行、宇宙旅行も一般の人達に可能だと云う。然し私達は、人間が人間である事に変わりはないと思う。桜は桜で、梅は梅である。どんなに世の中が変わっても、梅の木に自然と桜の花が咲くことは在るまい。太陽は飽きることなく、東から昇って西に没し、春夏秋冬の順序も歪(くる)っては来ない・・・。

人は世の中の変化の早さについつい「焦り」がちになる。が、木の年輪でさえ一年一年、一輪ずつ大きくなるのだから、一歩一歩自分を見つめて歩いて遅くはない。如何に世の中が変わっても、自然の法則、宇宙の真理は変わらないのである。亦、人間が人間である限りは人の道も変わるものではない。正しく人の道を踏み行う人は必ず大自然、神の摂理に適うであろう。人は幸福を願わない者は居ないし、災難を喜ぶ者は居ないのである。幸福は感謝の心から生れる。私達人間は、喜びと感謝に満ちた充実した真実のある一日を生きていたい。病は神様からのお手紙。人間とかく重い病気にかかると、『もうこの世に神も仏もあるものか』と神や仏に恨み言を言いたくなるが、然し病気の中で人を怨まず神を怨まず、良かれ悪しかれ自行自受と反省する事が肝腎である。

そう、何も悪いことをした覚えがない・・・。だがこんな重い病で苦しまねばならぬのは、私が知らぬ処で、私が或いは悪いことをしたのかも知れない・・・。若し、そうであるならば・・・。

知って犯す罪よりも知らぬ処で犯している罪の恐ろしさに目覚める。生死の境を本当に身を浮きつ沈みつしながら掻い潜った時にこうして健康で居られる事がどんなに有難いかを知り得るのである。

『過ぎし世の いかなる罪の むくいぞや 合わす掌もなき われぞかなしき』

手が二本とも無い、足も二本とも無い、達磨の様な人生を送った、中村久子さんの歌である。現在の営みは必ず次の世の中に生れてくる。故に現在が在る事は未来が在るのであり、同時に過去が在ると云うことである。

『如何なる罪の報いぞや』

私は過去にどんなことをしたのだろうか、余程悪い事でもしたのでなかったら、今生この世にこんな不自由な姿で生れてくる事はなかった、と思った。・・・けれども受けがたき人身(ひとのみ)を今、私はこうして戴いているのだ。人身を持って生れてくる事の出来ない、多くの命のことを思ったら、両手両足の無い位なんですか。この世の空気を吸わせて貰っただけででも私は幸せなのだ・・・。然し、喜んではいるのですが、有難い、感謝したいと掌を合わせて拝みたいと思ってても

『合わす掌もなき われぞ悲しき』

という気持ちを訴えておいでなのである・・・。

中村さんは合わす手はなかった。けれども『合わす心をいただいて居られた』

この処にあのお方一代の幸せ、喜びが在ったと信ずる。私達は合わそうと思ったら、いつでも合わすことの出来る掌がある。合わすことが当たり前であり過ぎて反って合わす心を失ってしまっている。其処に私達の大きな不幸、悲劇があるのではないかと思える。本来、人は神の分身なるが故、駄目な人間はこの世に一人も居ない筈である。「資本が無い」「若い」「学問が無い」から駄目な人間であるとは決められない。駄目な人間とは、行う以前に「俺は出来ない」「俺は駄目だ」と自分で決め付けていてやろうとしないだけのものである。

「やれば出来る」

この信念を持つことである。苦を越え、焦りを押えて一つの事を成し遂げた時の歓喜、自己が自己に克つ体得が大きく人の一生を支配し、最終の美を飾れるのである。反省は過去の失敗や過ちに心を腐らせ胸を痛めつけることでなく、失敗や過ちを自心の養いとすべきである。人生色々、長かりし今年一年、短かりし今年一年、色々の事に出合いし今年一年、残り少ない日は後幾日か。

不況の風は吹いている。『正月どころの沙汰でない』とふてくさる人も在るに違いない。それは不徳を悟り、欠乏している徳分を造る以外道は無い。古人は『積善の家に余慶あり』と教えている。世の中が真暗闇見えるのは、即ち己の心が暗い行為に過ぎない。人は心掛け次第で如何にも立派に成れるものである。慌しい師走の中にも安らぎの座がある。それは一年を通じ感謝篤き人の平然として居られる処の心である。この静かなる心こそ、真の尊い本性を自覚した人である。

 ~~後略~~

この先生は、神職の大先輩であります。それ故、若干、宗教的な色合いが強いかもしれませんがその辺りはどうかご容赦賜りたいと思います。

感謝の心。私も全ての幸福に通ずると信じます。

| | コメント (15) | トラックバック (7)

2005年12月 3日 (土)

公衆道徳というバランス感覚

最近、街を歩いていたり、車で移動をしていると良く思うことがあるのです。

信号機は完全に赤なのにゆっくりと、そして堂々と交差点を通過する歩行者や自転車の方々。主に高校生ぐらいの若者が多いのですが、それと同じくらい多いのが50代から70代くらいの高齢の方。

うーん・・・・・。

モラルというか常識というか、人に対する認識の不足というか・・・・・。

単純に、「自分がされて厭なことは誰だって厭」だと思うのですが・・・・・。

年端のいかない子供達ならともかく、大の大人、いい年したおっちゃんやおばちゃん、子供連れの主婦の方などなど・・・・・。

道路の歩き方、自転車の乗り方、そしてその他諸々の所謂、「公衆道徳」といった感覚が忘れ去られているように感じているのです・・・。

恐らく、こういう歩行者や自転車の方は「だって、交通弱者の保護の法則があるんだから車の方が気をつければいいでしょ」などと思っておられるのでしょう・・・。

先日、私の住む町の小学校で、ある生徒が給食の時間に「いただきます」を言わなかったことを教師が注意し、その生徒が帰宅した後、両親にその旨を伝えたそうです。

すると、両親が学校へ出向き、その注意した教師に向かって「家は一度だって給食費を滞納したことは無い!!払うものをきちんと払っているのだから『いただきます』なんて言わせるのを強要しないでもらいたい!!!」と仰ったのだそうです・・・。

またある日、電車に乗ると車内の床に「ベタッ」と座り込んでいる高校生の3人組がいました。それを発見し、私が「そんな所に座ってると皆さんの邪魔だ!」と一言言うと「チッ」などと舌打ちをし、「なんだぁ」とぶつぶつ文句を言いながらも車内の方々の視線のプレッシャーに負けたのか、次の駅でバツが悪そうに降りていきました。すると隣に立っておられた50~60代くらいの中年の男性が「全く、今時の連中はなっちゃいないな・・・ブツブツ」と小声で仰っていました。

しかしその時、その男性のポケットから携帯の着信音が・・・。そして「マナーモード」にしていない事を悪びれる様子も無く、大きな声で「もしもし?あっ、今?電車。大丈夫、大丈夫。」・・・・・。

半分呆れながらも「車内での通話は皆さんに迷惑ですよ」と注意するとチラッとこちらを見た後は完全無視!!そのまま通話を続けられておられました・・・。少し腹が立ったので「『人のフリ見て我がフリ直せ』と言いますよ」と言ってしまいました。結局最後まで通話を続け、電話を切った後に私に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で「最近の若いのは目上に対する礼儀も知らんのか・・・・・」と一言。私は呆れてものも言えませんでした・・・。

そして最近のニュースでは「子供に引ったくりをさせる母親」や「母親に毒物を飲ませ観察する女子高生」や「通りすがりの幼児を殺す大人」など、今までの感覚ではありえなかったであろう犯罪が多発しています。

例えば「BSE問題」や「耐震建築計算書偽造問題」などもそういった、「自分が食べる、住む訳ではないからまぁいいか。」というような利己的な感覚から生じたものと言えるのでしょう。

そして現在の自民党の執行部のように、これまで党に対し大きく貢献されて来られた方々を「処分」と称し力を削ぎ、或いは失脚させる様な政治家の在り方がまかり通り、更にライブドアや楽天、村上ファンドのような法的に正論であっても、人道的に決して褒められない様なものの進め方が横行する世の中で、そういった事件や出来事が起こることは必然なのかもしれません・・・・・。

「法律で守られているんだから我々は保護されて当たり前。悪いのは自分よりも大きな車の方だ」

「金さえ払えばそれでいい」  「若いのはなってない」

「拝金主義」や「勝ち組絶対主義」、そして「行き過ぎた個性の尊重」

それらが「新自由主義」の目指すべき姿であるならば、誰にとっても住みにくい、暮らしにくい時代の到来なのかもしれません・・・・・・・。

誰もが自分が大事で、自分がかわいいのは当たり前。

しかし、それは全ての人が同じことです。

皆が皆、同じように自分が大事で自分がかわいいのです。自分だけではないのです。

だから人間には「思いやり」だとか「尊敬の念」が必要なのだと思うのです。

全ての物事に、全ての人達に「感謝の念」を持って「敬意」を払い、「思いやり」を持って接すること。  

そういう人として当たり前の「公衆道徳という、人と人とが付き合う上で、ルールとも言うべきバランス感覚」が不足してはいけないと思う、今日この頃です・・・・・・・・・。

| | コメント (25) | トラックバック (9)

2005年11月26日 (土)

感謝の心  ~ある夜の出来事~

うーん・・・・・やってしまいました・・・・・・・・。

最近、忙しく過ごさせて頂いていたのですが、寝る前にうっかり体を伸ばした時に・・・・・。

「ぶえはっくっしょい!!!・・・・・・・っ!!!!!!!」

くしゃみと同時に腰に激痛が・・・・・!!!

こ、これはまさか・・・・・・・・。

持病の椎間板ヘルニア発症でございます・・・・・・。

現在、腰が痛くて何も手につかない状態であります・・・・・・。

何年かぶりに出てきてしまいました、私の持病様でございます・・・・。

今も横になりながらパソコンをいじっております。

悲しいかな・・・。カミさんは育児に追われ、年末も間近に迫り当然、神社である我が家は忙しく、皆がてんやわんやと立ち回っております・・・・・。

権宮司でありながら情けないこと、この上なく・・・・・・・。

こんな時、本当に己の健康や家族に感謝ができますね・・・・・・。

普段、何も考えず飛んだり跳ねたりしている時は感謝が足りなくなるのでしょう・・・・・。

神様がきっと

『最近のお前は健康であることに対して感謝が足らんぞ!!』

『お前は家族やお前の下で働いてくださる方々、何よりも仕事が忙しくできることへの感謝も足りん!!!』

と仰っているに違いありません・・・・。

こうして気付かせて頂ける事にも感謝せねば!!

・・・・・・・。

自己の周囲で起こる全ての事象は、何の意図も脈略もなくある日突然起こるものではなく、何かが不足し、或いは過剰になった時に『これではいかん!!』といって人間が気付くために起こるものであると私は考えています。

新聞やマスメディアが発信する情報を真に受け、色々な都合の悪い事柄から目を背け、己の保身や立場を守ることに汲々とし、他人の親切やそこにあるものが全て当たり前かのような錯覚に陥り、自己の啓発を怠り、感謝を忘れ、そのものの本質を忘れているのかもしれません・・・・・。

そう考えると、郵政民営化や総選挙に於ける自民党の在り方、BSE問題や外交問題、米軍基地移転問題、現状の政界の動向、ライブドアと日本放送や楽天とTBSの問題、マンション建築計算書偽造問題、そして憲法改正、皇室典範改定問題など・・・・・。

「物質過剰」「心不足」の私達日本人に対して

『今の世が太平で恵まれていることに感謝が足らんぞ!!早く気が付け!!』

と神様が仰っているのかも知れません・・・・・。

| | コメント (17) | トラックバック (6)

2005年11月18日 (金)

教育勅語とナショナリズム

前回、ナショナリズムについて触れ、私なりに思うところがありまして、今回は教育勅語に触れてみたいと思います・・・。長文になりますがご容赦ください。

朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 国ヲ肇ムルコト宏遠ニ 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ

此レ我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

爾臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ  朋友相信シ

恭儉己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ知能ヲ啓發シ

德噐ヲ成就シ 進テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ 國法ニ遵ヒ

一旦緩急アレハ 義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ 拳拳服膺シテ

咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二三年十月三十日

 御名  御璽

この文を私なりに訳をしてみました。

教育勅語(私的現代口語文訳)

私は、昔、私達の祖先が大志と理想を持ち、この日本という国をお開きになったものと信じます。

それからというもの国民は、深く道徳を考え、それを生活のあらゆる面に根付かせ、真心を持って祖国に尽くし、人を大切にして心を一つにし、今日に至るまで先祖代々受け継いできた美しい美風を育んで参りましたことは、日本の優れた国柄の賜物であるといわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、ここにあると信じます。

国民の皆さんは、父母を大切に敬い、兄弟姉妹は互いに力を合わせ助け合い、夫婦は心を通わせ支え合い、友人は友情を育み信じ合い、そして己の身を常に慎み、決して驕り高ぶらず、学問を怠らず、職業に専念し、新しい知識や能力を存分に発揮し、立派な行いができるように心がけ、進んで世の中の為に貢献し、国民として憲法、法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態が発生した場合には、正義を心がけ、勇気を奮い、真心を捧げて、一丸となって国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらの教えを善良な国民としてよく守ることは、立派な日本国民であるばかりでなく、私達の祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的な美風をしっかりと受け継ぎ、これから祖国を担っていく子孫達に正しく伝えていこうと、心に留め生きている証でもあります。

このような国民の歩むべき道は、神話の時代から続く、私達の祖先が残された教訓であって私達子孫が守り遵わねばならない所であると共に、この教えは昔も今も、将来にわたって変わらぬ正しい道であり、日本だけでなく、世界のどこへ行っても間違いのない人の道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖先の教えを胸に抱いて、徳を積み、人格を高め、謹んで踏み行い、立派な日本人となれるように、心から念願するものであります。

明治二三年十月三十日

 ご署名 御印

マレーシア独立の父でラジャー・ノンティック氏という方がいらっしゃいます。

彼が日本人の現状を知り一遍の詩を残されています。

かつて 日本人は 清らかで美しかった

かつて 日本人は 親切で心豊かだった

アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた

これらを読んでかつてこんな日本があったのか、という嬉さと誇りがわいて来ました。

それと同時に今の日本がとても恥ずかしく、そして情けなくなりました・・・。

偏狭で排外的なナショナリズムではなく、ただ単純に「日本人として失われた精神の高潔さ」を取り戻したいと心から思うのです・・・・・・・・・・・。

| | コメント (24) | トラックバック (9)