「根」と「元」と「情」と感謝報恩
更新できなかった間に、少し古くなってしまいましたが先月の会報の原稿をアップしたいと思います。
時節的に少し遅れているかも知れませんがご容赦賜りたいと存じます。
「根」と「元」と「情」と感謝報恩
秋の長雨とか昔から言われる。
本当に良く降ったものだが・・・。
それでも雨が降り止むとやはり秋。天高く澄み空はさわやか、山野の紅葉も私達の眼を楽しませてくれたが、早晩秋ともなると、あれほど美しく錦秋を飾った山野草木も何となく色褪せてくる。
落ち葉ひらひら風に舞い、遙かに眺める霊峰富士の御山も白い烏帽子を頂き、秋はもう冬を宿しているのだろうか・・・。
あぁ、そう。そういえば朝露がキラキラと銀色に光って美麗なる霜を見た。
季節は間違いなく冬に向かっている。そう、目前に本年最終の月が迫っている。
「十二月は裁きの月だ」と我が師が言っていたが、間違いなく銘言である。
行き詰まり、倒産、サラ金、夜逃げ、家出、強盗(ぬすみ)、殺し、放火、心中、自殺・・・等々、傷ましい非業のニュースが今年の暮れも賑わうことと思える。
「十二月は反省の月でもある」と言われていたが、来月ばかりが反省月とは決まってはいない。大自然の運行に行き詰まりはないのに、小自然たる人間に行き詰まりがあるは不自然なことである。それは人間が小自然(カミノコ)として行くべき道を間違えているからであって「いやな暮れが来る」と嫌がっても、暮れを越さなければ楽しい正月も来ないのである。「雨はもういやだ」と叫んでみても降る雨は止まない。「冬は寒いからいや」と嫌っても冬は来る。
冬があればこそ陽春(はる)がある。
暑い寒いも、昼も夜も、花も嵐も、師走も元旦も、大自然(かみ)よりの贈り物と思えば、どうせ頂かなければならないそれらを喜んで頂ける「心の器」を平常作っておきたいものである。
人間萬事、平常の徳行が何よりも大切な事である。
「今年はきっと良い花を咲かせる。良い実(身)を求めたい構想を起てて出発した」
そんな年の初めの、お互い一人ひとりであった筈ではあるまいか・・・。
良い花を、素晴らしい実を稔らせるには良い因(タネ)を蒔かねばなるまい。
それは人生を豊にする善行の種子(タネ)である敬神崇祖を基とし、人々の社会への愛行の種である。
種を蒔いても発芽させるように努力せねば花も咲かない。良い実(結実)を求めたいにも拘わらず、世話を惜しみ、水もやらず、良い肥料を施さないというのでは、良い運命の花は咲かないのである。
この世の全てのものは限りのない自然(かみ)の恵みに守られ生かされていることを努忘れてはならない。
自然の恵みということが生かされるものの最大の「恩」ということになる。
例えば、今美しく咲いた菊の花も自分の力だけで育って咲いた訳ではない・・・。
人間然り。自分一人の知恵や力のみで生きて居るのではない。あらゆる御恩に依って生かされているのである。その御恩が「根」即ち「神、先祖、親」であり「元」其れ即ち「会社、店、師」である。
「根」と「元」を大切にする心の行いが「自然」即ち「神」の道に添うことである。
人も、家も、団体も、そして草木も・・・・・。
生命ある一切のものは大恩の道に繋がることを忘れ、「根」に肥を培う事を怠ったならば絶対に栄えることはない。「枯死」する他に道はあるまい・・・。現代の世相を見るに然りである。
日夜、夜毎に後を絶たない今日の暗い出来事、ニュースは世間を恐怖と不安に陥れている。
あぁ・・・悲哀なるかみの叫びを・・・これが萬物の霊長(おさ)たる人間の為せる業かと・・・。我、今八百萬の神々坐すこの国にあり、その神々の恩により生きる者として者として激しい憤りさえ沸いてきてならない・・・。
人間一人の生命は一朝一夕のものではなく、悠遠の歴史を経て初めて存在することが判る。だからこそ「一人の生命は地球よりも重い」とし、人権尊重とも謂う。この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性の、その偉大さに触れているからであり、それが心から納得できれば、大抵人はこの言葉を聞いた瞬間に自己の生命にかけがえがないということを考え、大生命(かみ)、或いは先祖への感謝の念は自ずと湧き出てくる筈である。
尚また、人類全ては何処かで血の繋がった同輩である事も理解でき、真の平和への願望の基点は、実に其処にあるのだと悟ることも出来よう。
しかし、平和は口で唱えたからといって訪れるものではない。
お互い生身の身体。軈ていずれは此の世を去らねばならぬからこそ、当てになるうちに心を磨き、自分を鍛え、己々生命を世の為、人の為に役立て、立派に生かし切りたいものである。
身体は神様からのお借り物。しかもタダである。契約書もなければ借用書一枚も書いた覚えはない。請求もなく無料で拝借し、こうして生かされて居られる身の有難さ・・・これを思う時、何を以て神恩に報いん。此の世の最高動物として生かされて居る以上、人間(小自然=カミノコ)として無意味に生きてはならない。自己の責任を反省しつつ、決意を込めて真の人間らしき行動でありたい。それは誰でも本来無上に尊く生まれているが故に、その本来の偉大性は失われることがないからである。
斯くして神への奉仕、一歩でも神に近づき身を清め、その御教示(みおしえ)を心の糧とする。
ご先祖の御霊には手を合わせ、神前に出れば心の誠を込めての礼拝、感謝の念を捧げる時、希望と励ましの生き甲斐が、自ずと見出されてくるものである。
人は本来「神の子」である。
故に大自然と共に、常に栄えねばならない。だから誰でも悠揚(ゆうちょう)と無邪気と、歓喜と平和そのものを味わってゆく事が出来る。
だがこれも凡人には一時的であり、真の道(=神の道)を行く人は永続的なものであろう。
・・・古来、どのような神社であっても共通して「報恩感謝」の念の大切さを説いてきている。
だが、現世の多くの人は自己中心的な考えに固まり、それが根源となり様々な問題を引き起こしている。もっとも愚かなことは人心の荒廃が色々な形で現れているが、先ずこれも「感謝の心」がないからである。
昔は「もったいない」「冥加に尽きる」などとの有難い言葉があったが、この節このような言葉は暫く耳に触れない。
物の総ても何一つとして自分の力だけで造り出すことなど出来ない。
全てが、人を生かす為に自然、神から恵まれたものから出来ている。そしてこれ等を完全に生かして使うことが、人間の働きをより高める基になるのである。
「困らないから」「豊かであるから」といって、全ての人が無駄遣いに慣れてしまえば、いずれ物資の欠乏を招き、人間生活に破綻が来ることにもなりかねない。
「物」が少ないから大切にするのではなく、「物」の「元」になる大自然の恩恵に対し、又、造った人の御苦労に対して感謝の気持ちがあるからこそ「物」を大切にする、とあるべきである。
覚えているが
今世は物質的に確かに恵まれたが、その恵まれた社会が「感謝」を失いつつある。
「感謝」どころか、自己の生命の本性の偉大さも何処にあるのか忘れ自尊を弁えない。
従って不平不満だけは、故に互いに交流し共通の文化と相互理解とを高める為の「時間」も「修練」も、「誠意」も失いつつある・・・。
それだけに我々は「貧しく」なったのである・・・。
さもあろう・・・。便利でスピード科学化した生活は反って味気なく、人間の心根をカサカサに乾かしては居るまいか・・・。
ボタン一つでご飯が炊けて酒に煙草、食料品も機械が売る。電車の乗車券も機械が売ってくれる。失業者が増えるのも当然といえよう。糠味噌を掻き回したり、漬け物を刻んだりするのは凡そ近代的でないと云う。果たしてそうであろうか・・・。
そう云われれば、都内には俎板のない家庭が多いんだとか、知人に聞かされた。
進む機械も科学も・・・総て人間を育てる為にあるものを、逆に人間が押し潰されては居まいか・・・。人と人との語り合いや、国と国との温かい呼びかけ合いや、湧きいづる人間味を、科学化した近代生活が遮断するのであれば、其れは近代の「進歩」ではなくて人間の「堕落」であり「悲劇」である・・・。
然れど待て・・・。人間が長期に渡って考え抜いた挙句に出来上がったのが現代の科学である。
目に見えぬ神の御援助は大なるもの。表面上は人間自身の努力の結晶である。「大自然(かみ)は科学という物をお与え下さっている」と思えば、文明の利器に対しても合掌の心が湧くであろう。だが云う。
予告無しにミサイルの発射は御免だ!!
あまりにも卑劣と云うものだ。隣の国に恐怖を与えて、其れで居て「何が悪い」とシラを切る。御免なさいの一言も言わない・・・。世界は一つと言われるが、斯くの如くに「情けない国」もある。読んで字の如く「情けない」とは「情」が「無い」ことである。古来より「情」のある人を「ぬくもり」のあるお方などと云われ「あたたかみ」に通じる。「情」のない国、従って「冷たい国」、俗に云う「恩(温)知らず」の国と云われても仕方あるまい。・・・さもあろう。物資(もの)が足りない、食料が無い、人民が餓死状態だと他国に救いを求め日本を始め各国からの援助を得られ、挙句の果てにミサイルまでも大量に出来たほど脹れたのは一体全体誰の御蔭かと言いたい。其処まで脹れるほどに出す方も出す方だが・・・。
だが然し、「恩」は「売るべき性質」ではない。けれど「恩」に報いる人、「恩」に報いる家、或いは国は必ず成功発展を視るであろう。今はむやみやたらに発射する程ミサイルを持って居ても、「情」のない国であったら必ず「情けない」と泣く運命の時が来るであろう。
「情」は「上」に通じて昇格を得る。
「情」は「丈」なり。「丈」なり上等の反物の長さよ・・・。
「情」は「成」に通じ、「情」ある人である故に成功する。
「情」は「盛」なり。繁盛する。
「情」は「常」に通じ、「常」に「ぬくもり」の心で周囲(まわり)の人達に接したいものである。常に思いやりの心、好意ある言葉、こういうものをいくら振りまいても損する訳でも減る訳でもない。
「人」と「人」の「間」を「人間」と云う。
その「人間」が社会を為している。お互い気持ち良い交際(つきあい)をしたいものである。
常に相手に対して良い感じ、温かい気持ち、平和な愉快な、何と無しに懐かしい、有難いと云う感じを与えたいものである・・・。
其れには洋々たる度量と臨機応変の才と縦横諧謔の才とが必要である。
人間誰しも自己の優秀を求むべきものである。先ず、自己を充実すべく努力するべきである。徒に虚名を博することを大なる恥とすべきである。志を高く持ち、若き日の自己を尊重し志を高く持つ者には「堕落」はない。晩年になって「我過てり」に気付いてももう遅いのである。若さは金で買えない。
昔、伊達政宗候が宮城・松島は瑞巌寺に参詣した折、其処の寺男をしていた男が寒い時期であったので、その履物である処の下駄を温めてあった事が政宗の誤解を招いた。短気で放翫な政宗が「予の下駄が温かいのはその男が尻に敷いていたに違いない」と思い、弁解の暇もあればこそ・・・その男の顔を下駄で蹴り上げ、額が切れた・・・。自分の親切が仇になった、寺男の無念さは察するに余りある。が、相手は殿様。どうすることも出来ぬ。その男は瑞巌寺から暇をとり、京都は嵯峨の天竜寺の寺男に住み込んだ。寺男をしながら仕事の中にも、しきりに和尚や他の僧達の言動に注意している様が尋常でないので、軈てその管長に愛され、専心に修行をした結果、禅の要諦に達したのである・・・。その上、位階も昇って遂に松島瑞巌寺の住職となって帰って来たのである。その間の困苦精励(こんくせいれい)がどんなで在ったであろうか。全く浮いた話どころではあるまい・・・。事情を知らぬ伊達政宗は新たに瑞巌寺に来た高徳の僧と云うので慇懃に迎えた。その時、新住職が政宗に大切そうに見せたのが、あえて自分の額を切られた下駄であった・・・。実にその新住職にとっては政宗に蹴られた下駄こそ何よりの宝である。この下駄が在った故に発奮したのである。誰であっても、寺男から瑞巌寺の住職になる程の困苦精励をするならば、今の世ならいっそう高所に昇れるであろう。この住職こそ有名なる雲居禅師のことである。
人間はいつでも自分に備わる無限の可能性を忘れてはならない。
その無限の可能性をどのようにして掘り出し、磨き立てるか・・・。
神は教えを通じ吾を力強く守り給う。
大自然の「根」「元」に添う道を歩み続けること・・・「情」ある人であり続けること・・・。
世の為、人の為に尽くし得る大人物に為さしめ給えと強く祈る。
神は必ずそれに答えて知恵を授け給うことであろう・・・。
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