2006年12月24日 (日)

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

更新できなかった間に、少し古くなってしまいましたが先月の会報の原稿をアップしたいと思います。

時節的に少し遅れているかも知れませんがご容赦賜りたいと存じます。

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

 秋の長雨とか昔から言われる。

本当に良く降ったものだが・・・。

それでも雨が降り止むとやはり秋。天高く澄み空はさわやか、山野の紅葉も私達の眼を楽しませてくれたが、早晩秋ともなると、あれほど美しく錦秋を飾った山野草木も何となく色褪せてくる。

落ち葉ひらひら風に舞い、遙かに眺める霊峰富士の御山も白い烏帽子を頂き、秋はもう冬を宿しているのだろうか・・・。

あぁ、そう。そういえば朝露がキラキラと銀色に光って美麗なる霜を見た。

季節は間違いなく冬に向かっている。そう、目前に本年最終の月が迫っている。

「十二月は裁きの月だ」と我が師が言っていたが、間違いなく銘言である。

行き詰まり、倒産、サラ金、夜逃げ、家出、強盗(ぬすみ)、殺し、放火、心中、自殺・・・等々、傷ましい非業のニュースが今年の暮れも賑わうことと思える。

「十二月は反省の月でもある」と言われていたが、来月ばかりが反省月とは決まってはいない。大自然の運行に行き詰まりはないのに、小自然たる人間に行き詰まりがあるは不自然なことである。それは人間が小自然(カミノコ)として行くべき道を間違えているからであって「いやな暮れが来る」と嫌がっても、暮れを越さなければ楽しい正月も来ないのである。「雨はもういやだ」と叫んでみても降る雨は止まない。「冬は寒いからいや」と嫌っても冬は来る。

冬があればこそ陽春(はる)がある。

暑い寒いも、昼も夜も、花も嵐も、師走も元旦も、大自然(かみ)よりの贈り物と思えば、どうせ頂かなければならないそれらを喜んで頂ける「心の器」を平常作っておきたいものである。

人間萬事、平常の徳行が何よりも大切な事である。

「今年はきっと良い花を咲かせる。良い実(身)を求めたい構想を起てて出発した」

そんな年の初めの、お互い一人ひとりであった筈ではあるまいか・・・。

良い花を、素晴らしい実を稔らせるには良い因(タネ)を蒔かねばなるまい。

それは人生を豊にする善行の種子(タネ)である敬神崇祖を基とし、人々の社会への愛行の種である。

種を蒔いても発芽させるように努力せねば花も咲かない。良い実(結実)を求めたいにも拘わらず、世話を惜しみ、水もやらず、良い肥料を施さないというのでは、良い運命の花は咲かないのである。

この世の全てのものは限りのない自然(かみ)の恵みに守られ生かされていることを努忘れてはならない。

自然の恵みということが生かされるものの最大の「恩」ということになる。

例えば、今美しく咲いた菊の花も自分の力だけで育って咲いた訳ではない・・・。

人間然り。自分一人の知恵や力のみで生きて居るのではない。あらゆる御恩に依って生かされているのである。その御恩が「根」即ち「神、先祖、親」であり「元」其れ即ち「会社、店、師」である。

「根」と「元」を大切にする心の行いが「自然」即ち「神」の道に添うことである。

人も、家も、団体も、そして草木も・・・・・。

生命ある一切のものは大恩の道に繋がることを忘れ、「根」に肥を培う事を怠ったならば絶対に栄えることはない。「枯死」する他に道はあるまい・・・。現代の世相を見るに然りである。

日夜、夜毎に後を絶たない今日の暗い出来事、ニュースは世間を恐怖と不安に陥れている。

あぁ・・・悲哀なるかみの叫びを・・・これが萬物の霊長(おさ)たる人間の為せる業かと・・・。我、今八百萬の神々坐すこの国にあり、その神々の恩により生きる者として者として激しい憤りさえ沸いてきてならない・・・。

人間一人の生命は一朝一夕のものではなく、悠遠の歴史を経て初めて存在することが判る。だからこそ「一人の生命は地球よりも重い」とし、人権尊重とも謂う。この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性の、その偉大さに触れているからであり、それが心から納得できれば、大抵人はこの言葉を聞いた瞬間に自己の生命にかけがえがないということを考え、大生命(かみ)、或いは先祖への感謝の念は自ずと湧き出てくる筈である。

尚また、人類全ては何処かで血の繋がった同輩である事も理解でき、真の平和への願望の基点は、実に其処にあるのだと悟ることも出来よう。

しかし、平和は口で唱えたからといって訪れるものではない。

お互い生身の身体。軈ていずれは此の世を去らねばならぬからこそ、当てになるうちに心を磨き、自分を鍛え、己々生命を世の為、人の為に役立て、立派に生かし切りたいものである。

身体は神様からのお借り物。しかもタダである。契約書もなければ借用書一枚も書いた覚えはない。請求もなく無料で拝借し、こうして生かされて居られる身の有難さ・・・これを思う時、何を以て神恩に報いん。此の世の最高動物として生かされて居る以上、人間(小自然=カミノコ)として無意味に生きてはならない。自己の責任を反省しつつ、決意を込めて真の人間らしき行動でありたい。それは誰でも本来無上に尊く生まれているが故に、その本来の偉大性は失われることがないからである。

斯くして神への奉仕、一歩でも神に近づき身を清め、その御教示(みおしえ)を心の糧とする。

ご先祖の御霊には手を合わせ、神前に出れば心の誠を込めての礼拝、感謝の念を捧げる時、希望と励ましの生き甲斐が、自ずと見出されてくるものである。

人は本来「神の子」である。

故に大自然と共に、常に栄えねばならない。だから誰でも悠揚(ゆうちょう)と無邪気と、歓喜と平和そのものを味わってゆく事が出来る。

だがこれも凡人には一時的であり、真の道(=神の道)を行く人は永続的なものであろう。

・・・古来、どのような神社であっても共通して「報恩感謝」の念の大切さを説いてきている。

だが、現世の多くの人は自己中心的な考えに固まり、それが根源となり様々な問題を引き起こしている。もっとも愚かなことは人心の荒廃が色々な形で現れているが、先ずこれも「感謝の心」がないからである。

昔は「もったいない」「冥加に尽きる」などとの有難い言葉があったが、この節このような言葉は暫く耳に触れない。

物の総ても何一つとして自分の力だけで造り出すことなど出来ない。

全てが、人を生かす為に自然、神から恵まれたものから出来ている。そしてこれ等を完全に生かして使うことが、人間の働きをより高める基になるのである。

「困らないから」「豊かであるから」といって、全ての人が無駄遣いに慣れてしまえば、いずれ物資の欠乏を招き、人間生活に破綻が来ることにもなりかねない。

「物」が少ないから大切にするのではなく、「物」の「元」になる大自然の恩恵に対し、又、造った人の御苦労に対して感謝の気持ちがあるからこそ「物」を大切にする、とあるべきである。

覚えているが

今世は物質的に確かに恵まれたが、その恵まれた社会が「感謝」を失いつつある。

「感謝」どころか、自己の生命の本性の偉大さも何処にあるのか忘れ自尊を弁えない。

従って不平不満だけは、故に互いに交流し共通の文化と相互理解とを高める為の「時間」も「修練」も、「誠意」も失いつつある・・・。

それだけに我々は「貧しく」なったのである・・・。

さもあろう・・・。便利でスピード科学化した生活は反って味気なく、人間の心根をカサカサに乾かしては居るまいか・・・。

ボタン一つでご飯が炊けて酒に煙草、食料品も機械が売る。電車の乗車券も機械が売ってくれる。失業者が増えるのも当然といえよう。糠味噌を掻き回したり、漬け物を刻んだりするのは凡そ近代的でないと云う。果たしてそうであろうか・・・。

そう云われれば、都内には俎板のない家庭が多いんだとか、知人に聞かされた。

進む機械も科学も・・・総て人間を育てる為にあるものを、逆に人間が押し潰されては居まいか・・・。人と人との語り合いや、国と国との温かい呼びかけ合いや、湧きいづる人間味を、科学化した近代生活が遮断するのであれば、其れは近代の「進歩」ではなくて人間の「堕落」であり「悲劇」である・・・。

然れど待て・・・。人間が長期に渡って考え抜いた挙句に出来上がったのが現代の科学である。

目に見えぬ神の御援助は大なるもの。表面上は人間自身の努力の結晶である。「大自然(かみ)は科学という物をお与え下さっている」と思えば、文明の利器に対しても合掌の心が湧くであろう。だが云う。

予告無しにミサイルの発射は御免だ!!

あまりにも卑劣と云うものだ。隣の国に恐怖を与えて、其れで居て「何が悪い」とシラを切る。御免なさいの一言も言わない・・・。世界は一つと言われるが、斯くの如くに「情けない国」もある。読んで字の如く「情けない」とは「情」が「無い」ことである。古来より「情」のある人を「ぬくもり」のあるお方などと云われ「あたたかみ」に通じる。「情」のない国、従って「冷たい国」、俗に云う「恩(温)知らず」の国と云われても仕方あるまい。・・・さもあろう。物資(もの)が足りない、食料が無い、人民が餓死状態だと他国に救いを求め日本を始め各国からの援助を得られ、挙句の果てにミサイルまでも大量に出来たほど脹れたのは一体全体誰の御蔭かと言いたい。其処まで脹れるほどに出す方も出す方だが・・・。

だが然し、「恩」は「売るべき性質」ではない。けれど「恩」に報いる人、「恩」に報いる家、或いは国は必ず成功発展を視るであろう。今はむやみやたらに発射する程ミサイルを持って居ても、「情」のない国であったら必ず「情けない」と泣く運命の時が来るであろう。

「情」は「上」に通じて昇格を得る。

「情」は「丈」なり。「丈」なり上等の反物の長さよ・・・。

「情」は「成」に通じ、「情」ある人である故に成功する。

「情」は「盛」なり。繁盛する。

「情」は「常」に通じ、「常」に「ぬくもり」の心で周囲(まわり)の人達に接したいものである。常に思いやりの心、好意ある言葉、こういうものをいくら振りまいても損する訳でも減る訳でもない。

「人」と「人」の「間」を「人間」と云う。

その「人間」が社会を為している。お互い気持ち良い交際(つきあい)をしたいものである。

常に相手に対して良い感じ、温かい気持ち、平和な愉快な、何と無しに懐かしい、有難いと云う感じを与えたいものである・・・。

其れには洋々たる度量と臨機応変の才と縦横諧謔の才とが必要である。

人間誰しも自己の優秀を求むべきものである。先ず、自己を充実すべく努力するべきである。徒に虚名を博することを大なる恥とすべきである。志を高く持ち、若き日の自己を尊重し志を高く持つ者には「堕落」はない。晩年になって「我過てり」に気付いてももう遅いのである。若さは金で買えない。

昔、伊達政宗候が宮城・松島は瑞巌寺に参詣した折、其処の寺男をしていた男が寒い時期であったので、その履物である処の下駄を温めてあった事が政宗の誤解を招いた。短気で放翫な政宗が「予の下駄が温かいのはその男が尻に敷いていたに違いない」と思い、弁解の暇もあればこそ・・・その男の顔を下駄で蹴り上げ、額が切れた・・・。自分の親切が仇になった、寺男の無念さは察するに余りある。が、相手は殿様。どうすることも出来ぬ。その男は瑞巌寺から暇をとり、京都は嵯峨の天竜寺の寺男に住み込んだ。寺男をしながら仕事の中にも、しきりに和尚や他の僧達の言動に注意している様が尋常でないので、軈てその管長に愛され、専心に修行をした結果、禅の要諦に達したのである・・・。その上、位階も昇って遂に松島瑞巌寺の住職となって帰って来たのである。その間の困苦精励(こんくせいれい)がどんなで在ったであろうか。全く浮いた話どころではあるまい・・・。事情を知らぬ伊達政宗は新たに瑞巌寺に来た高徳の僧と云うので慇懃に迎えた。その時、新住職が政宗に大切そうに見せたのが、あえて自分の額を切られた下駄であった・・・。実にその新住職にとっては政宗に蹴られた下駄こそ何よりの宝である。この下駄が在った故に発奮したのである。誰であっても、寺男から瑞巌寺の住職になる程の困苦精励をするならば、今の世ならいっそう高所に昇れるであろう。この住職こそ有名なる雲居禅師のことである。

人間はいつでも自分に備わる無限の可能性を忘れてはならない。

その無限の可能性をどのようにして掘り出し、磨き立てるか・・・。

神は教えを通じ吾を力強く守り給う。

大自然の「根」「元」に添う道を歩み続けること・・・「情」ある人であり続けること・・・。

世の為、人の為に尽くし得る大人物に為さしめ給えと強く祈る。

神は必ずそれに答えて知恵を授け給うことであろう・・・。

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2006年8月 4日 (金)

現代と神道 ~その1~

しばらくの間、いつものようなエントリに挟みまして、最近の主旨とは若干趣向を変え、「神道」というものの学術的に捉え、現代における問題を考察してみたいと考えています。
今回は「神道と日本人」というテーマで論考してみたいと思います。

まず元来の日本人と神道のつながりについて考察していきたいと思います。

日本文化の特性と神道の起源及び性質について考えていくと大変密接な関連性が見えてきます。
日本人にとって生活変化の大きな分岐点となった「稲作農耕」伝来以来、農耕中心の基盤が作られ、それまでの狩猟生活と代わり「定住生活」になりました。
そして、その「稲作農耕」がそれまでの価値観を大きく変え、日本人の精神的特徴と考えて差し支えないであろう「勤勉性」「集団性」が育まれていくわけです。
そこに「大自然」と切っても切れない関係が始まったのです。

農耕における大きな特徴として、自分達が頑張れば頑張った分だけ収穫があり、更に言えば、その収穫量を高めるために、様々な努力を重ねればそれだけの恩恵を受けることが出来たのでしょう。若干乱暴な理論ではありますが、そこから「勤勉性」という要素が出来上がったと考えます。
更に「稲作農耕」には出来るだけ多くの「手」が必要です。
そういった文脈の中で多くの日本人達が「共同体」を形成し、農耕を営む、そこには特別な「仲間意識」のようなものが芽生えてくるというよりは、日常の生活の中で、お互いを必要とし、され、自然と相手の気持ちを考え、「思いやり」が生まれてきたのではないでしょうか。それを「集団性」と考えます。

これらを前提としたうえで、その農耕に際して重要なものがあります。
      「暦」です。
安定した稲作農耕を行うために季節を知らずしては出来ません。
その季節は何によって左右されているのか・・・・・。
      そう、「太陽」です。
つまり、農耕を営むうえで必要不可欠である「季節」を司るのは「太陽」であり、所謂「お天道様」の御心一つで稲の豊穣が左右されるのです。
神道において最高神とされるのは(ご存じの方ばかりだとは思いますが)、天照大神です。
天照大神「太陽神」とされる女神であり、神々の世界「高天原」を司る神でもあります。
そして、「時間、季節」を司る神として月読命がいらっしゃいます。
さらに大海原を始めとして地上の水、全てを司られる建速須佐男之命がいらっしゃるのです。

この三柱の神様達は前述の事柄だけを司るわけではありませんが、古事記の「ことよさし」において、各々がそれらを司るように伊邪那岐大神に命ぜられています。
これらが大変重要な事柄を示唆しているように思います。

つまり、「神道信仰」の起源は「暦」が必要となり、季節を左右する太陽、雨(水)の存在が大変重要であった時期、即ち日本に稲作農耕が伝わってきた弥生時代であり、それは日本人の祖先が日本人的な性質、前述の「勤勉性」「集団性」を育み始めた頃と同時期ではないか、と私は考えます。

この私の考えを裏付けてくださるような学説も多くあります。
國學院大學学長の安蘇谷正彦氏は著書(「神道とはなにか」 ペリカン社 1994年)の中で安津素彦氏の日本文化人説(神道思想史 前篇)を支持し、神道的祭りの成立時期、神饌としての「米」の重要性、延喜式などの祭りの制度的側面における稲作農耕との関連性、日本書紀の「斎庭の穂の神勅」などに散見される関連性、さらには本エントリの上記にある日本文化の特性に見られる稲作農耕との関連性など、もっと学者らしい論説を述べられています。

そこで現代に目を移してみたいと思います。

まず「勤勉性」という点について考えると、現政府が推進する所謂「新自由主義」といわれる市場原理至上主義に基づく株式売買などによるマネーゲームの横行であったり、社会情勢、経済の不安によってもたらされた「ニート」「引きこもり」といわれる働かない、就学しない若者の増加であったり、戦後の様々な要因によって引き起こされてきた教育に関する問題など、元来の日本人の特性としての「勤勉性」は最早失われてしまったように思います・・・。
さらに「集団性=思いやり」という点について考えるともっとひどいように思われます。
様々な場面で公衆道徳といわれるものが欠けている方を良く拝見したり、近所のトラブルが元で人を殺したり、大人が子供を連れ去り殺したり、反対に子供が親を殺めたり・・・。挙げていけばキリがありません・・・。
教育現場における荒廃であるとか、マスコミの報道の在り様であるとか、「個」を尊重し過ぎるきらいがあるうえに、「教育勅語」のように自己犠牲の精神を尊べというようなことを言えば、やれ「軍国主義だ、全体主義だ」と騒ぎ立てる・・・・・。
そして先日の先帝陛下の発言とされる、所謂「富田メモ」などの報道に見られる現状など、その最たるものであるように思います。
きちんとした検証もせず、自分達の都合に合わせ恣意的な解釈、報道をし、本当の先帝陛下の御心など顧みもしない。
その発言がどれだけの影響を及ぼし、同じ日本人に対してどれ程の迷惑を与え、日本人としての心を傷つけることなのか、考えずに報道されているように思います。

現代の日本人の在り方に足りないもの・・・・・・・・・・・・・。

そういうものが本来の日本人の在り方に立ち戻れば、はっきりとした形で見えてくるのではないのでしょうか・・・。

少しエキサイトしすぎて論点がずれてきたように感じます・・・・・。
ちょっと頭を冷やした方が良さそうです・・・。(汗)
また続きは時間が出来たときにしたいと思います。
中途半端になってしまい申し訳有りません。(反省)

また、別のエントリを挟んで続きを書きたいと思います。

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2005年12月 3日 (土)

公衆道徳というバランス感覚

最近、街を歩いていたり、車で移動をしていると良く思うことがあるのです。

信号機は完全に赤なのにゆっくりと、そして堂々と交差点を通過する歩行者や自転車の方々。主に高校生ぐらいの若者が多いのですが、それと同じくらい多いのが50代から70代くらいの高齢の方。

うーん・・・・・。

モラルというか常識というか、人に対する認識の不足というか・・・・・。

単純に、「自分がされて厭なことは誰だって厭」だと思うのですが・・・・・。

年端のいかない子供達ならともかく、大の大人、いい年したおっちゃんやおばちゃん、子供連れの主婦の方などなど・・・・・。

道路の歩き方、自転車の乗り方、そしてその他諸々の所謂、「公衆道徳」といった感覚が忘れ去られているように感じているのです・・・。

恐らく、こういう歩行者や自転車の方は「だって、交通弱者の保護の法則があるんだから車の方が気をつければいいでしょ」などと思っておられるのでしょう・・・。

先日、私の住む町の小学校で、ある生徒が給食の時間に「いただきます」を言わなかったことを教師が注意し、その生徒が帰宅した後、両親にその旨を伝えたそうです。

すると、両親が学校へ出向き、その注意した教師に向かって「家は一度だって給食費を滞納したことは無い!!払うものをきちんと払っているのだから『いただきます』なんて言わせるのを強要しないでもらいたい!!!」と仰ったのだそうです・・・。

またある日、電車に乗ると車内の床に「ベタッ」と座り込んでいる高校生の3人組がいました。それを発見し、私が「そんな所に座ってると皆さんの邪魔だ!」と一言言うと「チッ」などと舌打ちをし、「なんだぁ」とぶつぶつ文句を言いながらも車内の方々の視線のプレッシャーに負けたのか、次の駅でバツが悪そうに降りていきました。すると隣に立っておられた50~60代くらいの中年の男性が「全く、今時の連中はなっちゃいないな・・・ブツブツ」と小声で仰っていました。

しかしその時、その男性のポケットから携帯の着信音が・・・。そして「マナーモード」にしていない事を悪びれる様子も無く、大きな声で「もしもし?あっ、今?電車。大丈夫、大丈夫。」・・・・・。

半分呆れながらも「車内での通話は皆さんに迷惑ですよ」と注意するとチラッとこちらを見た後は完全無視!!そのまま通話を続けられておられました・・・。少し腹が立ったので「『人のフリ見て我がフリ直せ』と言いますよ」と言ってしまいました。結局最後まで通話を続け、電話を切った後に私に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で「最近の若いのは目上に対する礼儀も知らんのか・・・・・」と一言。私は呆れてものも言えませんでした・・・。

そして最近のニュースでは「子供に引ったくりをさせる母親」や「母親に毒物を飲ませ観察する女子高生」や「通りすがりの幼児を殺す大人」など、今までの感覚ではありえなかったであろう犯罪が多発しています。

例えば「BSE問題」や「耐震建築計算書偽造問題」などもそういった、「自分が食べる、住む訳ではないからまぁいいか。」というような利己的な感覚から生じたものと言えるのでしょう。

そして現在の自民党の執行部のように、これまで党に対し大きく貢献されて来られた方々を「処分」と称し力を削ぎ、或いは失脚させる様な政治家の在り方がまかり通り、更にライブドアや楽天、村上ファンドのような法的に正論であっても、人道的に決して褒められない様なものの進め方が横行する世の中で、そういった事件や出来事が起こることは必然なのかもしれません・・・・・。

「法律で守られているんだから我々は保護されて当たり前。悪いのは自分よりも大きな車の方だ」

「金さえ払えばそれでいい」  「若いのはなってない」

「拝金主義」や「勝ち組絶対主義」、そして「行き過ぎた個性の尊重」

それらが「新自由主義」の目指すべき姿であるならば、誰にとっても住みにくい、暮らしにくい時代の到来なのかもしれません・・・・・・・。

誰もが自分が大事で、自分がかわいいのは当たり前。

しかし、それは全ての人が同じことです。

皆が皆、同じように自分が大事で自分がかわいいのです。自分だけではないのです。

だから人間には「思いやり」だとか「尊敬の念」が必要なのだと思うのです。

全ての物事に、全ての人達に「感謝の念」を持って「敬意」を払い、「思いやり」を持って接すること。  

そういう人として当たり前の「公衆道徳という、人と人とが付き合う上で、ルールとも言うべきバランス感覚」が不足してはいけないと思う、今日この頃です・・・・・・・・・。

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2005年11月26日 (土)

感謝の心  ~ある夜の出来事~

うーん・・・・・やってしまいました・・・・・・・・。

最近、忙しく過ごさせて頂いていたのですが、寝る前にうっかり体を伸ばした時に・・・・・。

「ぶえはっくっしょい!!!・・・・・・・っ!!!!!!!」

くしゃみと同時に腰に激痛が・・・・・!!!

こ、これはまさか・・・・・・・・。

持病の椎間板ヘルニア発症でございます・・・・・・。

現在、腰が痛くて何も手につかない状態であります・・・・・・。

何年かぶりに出てきてしまいました、私の持病様でございます・・・・。

今も横になりながらパソコンをいじっております。

悲しいかな・・・。カミさんは育児に追われ、年末も間近に迫り当然、神社である我が家は忙しく、皆がてんやわんやと立ち回っております・・・・・。

権宮司でありながら情けないこと、この上なく・・・・・・・。

こんな時、本当に己の健康や家族に感謝ができますね・・・・・・。

普段、何も考えず飛んだり跳ねたりしている時は感謝が足りなくなるのでしょう・・・・・。

神様がきっと

『最近のお前は健康であることに対して感謝が足らんぞ!!』

『お前は家族やお前の下で働いてくださる方々、何よりも仕事が忙しくできることへの感謝も足りん!!!』

と仰っているに違いありません・・・・。

こうして気付かせて頂ける事にも感謝せねば!!

・・・・・・・。

自己の周囲で起こる全ての事象は、何の意図も脈略もなくある日突然起こるものではなく、何かが不足し、或いは過剰になった時に『これではいかん!!』といって人間が気付くために起こるものであると私は考えています。

新聞やマスメディアが発信する情報を真に受け、色々な都合の悪い事柄から目を背け、己の保身や立場を守ることに汲々とし、他人の親切やそこにあるものが全て当たり前かのような錯覚に陥り、自己の啓発を怠り、感謝を忘れ、そのものの本質を忘れているのかもしれません・・・・・。

そう考えると、郵政民営化や総選挙に於ける自民党の在り方、BSE問題や外交問題、米軍基地移転問題、現状の政界の動向、ライブドアと日本放送や楽天とTBSの問題、マンション建築計算書偽造問題、そして憲法改正、皇室典範改定問題など・・・・・。

「物質過剰」「心不足」の私達日本人に対して

『今の世が太平で恵まれていることに感謝が足らんぞ!!早く気が付け!!』

と神様が仰っているのかも知れません・・・・・。

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2005年11月18日 (金)

教育勅語とナショナリズム

前回、ナショナリズムについて触れ、私なりに思うところがありまして、今回は教育勅語に触れてみたいと思います・・・。長文になりますがご容赦ください。

朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 国ヲ肇ムルコト宏遠ニ 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ

此レ我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

爾臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ  朋友相信シ

恭儉己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ知能ヲ啓發シ

德噐ヲ成就シ 進テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ 國法ニ遵ヒ

一旦緩急アレハ 義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ 拳拳服膺シテ

咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二三年十月三十日

 御名  御璽

この文を私なりに訳をしてみました。

教育勅語(私的現代口語文訳)

私は、昔、私達の祖先が大志と理想を持ち、この日本という国をお開きになったものと信じます。

それからというもの国民は、深く道徳を考え、それを生活のあらゆる面に根付かせ、真心を持って祖国に尽くし、人を大切にして心を一つにし、今日に至るまで先祖代々受け継いできた美しい美風を育んで参りましたことは、日本の優れた国柄の賜物であるといわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、ここにあると信じます。

国民の皆さんは、父母を大切に敬い、兄弟姉妹は互いに力を合わせ助け合い、夫婦は心を通わせ支え合い、友人は友情を育み信じ合い、そして己の身を常に慎み、決して驕り高ぶらず、学問を怠らず、職業に専念し、新しい知識や能力を存分に発揮し、立派な行いができるように心がけ、進んで世の中の為に貢献し、国民として憲法、法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態が発生した場合には、正義を心がけ、勇気を奮い、真心を捧げて、一丸となって国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらの教えを善良な国民としてよく守ることは、立派な日本国民であるばかりでなく、私達の祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的な美風をしっかりと受け継ぎ、これから祖国を担っていく子孫達に正しく伝えていこうと、心に留め生きている証でもあります。

このような国民の歩むべき道は、神話の時代から続く、私達の祖先が残された教訓であって私達子孫が守り遵わねばならない所であると共に、この教えは昔も今も、将来にわたって変わらぬ正しい道であり、日本だけでなく、世界のどこへ行っても間違いのない人の道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖先の教えを胸に抱いて、徳を積み、人格を高め、謹んで踏み行い、立派な日本人となれるように、心から念願するものであります。

明治二三年十月三十日

 ご署名 御印

マレーシア独立の父でラジャー・ノンティック氏という方がいらっしゃいます。

彼が日本人の現状を知り一遍の詩を残されています。

かつて 日本人は 清らかで美しかった

かつて 日本人は 親切で心豊かだった

アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた

これらを読んでかつてこんな日本があったのか、という嬉さと誇りがわいて来ました。

それと同時に今の日本がとても恥ずかしく、そして情けなくなりました・・・。

偏狭で排外的なナショナリズムではなく、ただ単純に「日本人として失われた精神の高潔さ」を取り戻したいと心から思うのです・・・・・・・・・・・。

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2005年11月13日 (日)

今の日本人に求められるナショナリズムとは・・・

先日、拙ブログでも取り上げた「国家の罠」(新潮社2005年)。

その後、発刊された佐藤優氏の「国家の自縛」(産経新聞社2005年)を読みまして・・・。

この佐藤優さんという方は同志社大学の大学院神学研究科卒でありまして、私とは畑が違いますが同じ、神学の研究者という共通項があります。

人物的にも大変興味深く、私とは比較にならないほどの知識量と深い見識、造詣をお持ちでらっしゃいます。

しかし、この「国家に自縛」を読み、考えるプロセスに大きな違いはありますが、結論が同じ、もしくはかなり近い見解にいたる部分があり、それについて引用をさせて頂きながら、私の考えを述べて行きたいと思います。

P76~77

戦後、日本人は国家のあり方、伝統的言葉で言うならば国体に関する問題を放置しすぎた。そのために無責任なコスモポリタニズムと危険な排外的民族主義への言説の二極分解が生じています。 ~中略~ 弥縫策で負のエネルギーをため込むよりも、この辺で小泉首相が正々堂々と靖国神社を参拝し、正面から中国や韓国と対峙することを通じて、日本国家がどのように近隣諸国と付き合うべきかを徹底的に考えた方が良いと思います。そこから日本国家のあり方、つまり国体を日本人が真剣に考え、「誠心」を見出すなら、中国や韓国の名誉と尊厳を担保しつつ、日本の名誉と尊厳を維持、発展させる道を見出すことができると私は信じているんですよ。

この部分には全く以って共感しました。私も日頃、講演をする時によく言うことなのですが、「靖国問題は本来、『外交問題』ではなく『ドメスティックな宗教問題』であると思う。参拝に反対されている国々は大雑把な括りではあるが、いわゆる『大陸系儒教』の国々であり、日本の『神仏』、神々と仏が混在する宗教観とは相計ることのできない存在である。である以上、この問題に対しては日本政府が誠実に、そして徹底的に説明を続け、理解を求める以外に解決はない。それができなければ、いつまでも国内に於いて混乱を招くようなナショナリズム議論も解決しないし、不要に批判的な国々を刺激し続けるだけだ。」と思います。

P82

冷戦終了後、グローバリズムという名の下で米国一極主義が勝利したかの如く見える。しかしグローバリズムを徹底的に純化することはできない。そこには超えることのできない民族/国家、そして文化の壁があるからだ。グローバリズムは虚偽の意識体系である。従って、それに反発するアンチグローバリズム運動も深い所で現実に影響を与えることはできない。

繰り返しになるが、この世界の基本構造は、ネーション(民族/国家)を基礎とするインターナショナリズム(国際主義)である。個人は民族/国家を媒介として世界に至るのである。従って、ほんとうの愛国者が国際人になる。日本国家、日本人に対する心底の愛がないならば、そのような人は国際社会でまともな相手にされない。

この部分に関しても以前、講演を行った時に「一人の人間が国際社会に出て行くとき、恐らく『貴方はどこの国の人ですか?』とか『どこから来たのですか?』と聞かれるでしょう。仮に『貴方の国はどんな国ですか?』と聞かれた時に、自分の生まれ育った国を誇れないような人間が果たしてそういった場面で通用するだろうか。国際社会に於いて日本という国家、そして我々日本人が生き残っていく為には、単純に国際情勢に長け、国際感覚に優れた『国際人』を育成していくのではなく、自らが生まれ育ったこの国を、自分たちの祖先が築き上げてきたこの日本を、世界のどこへ行っても誇れるような愛国心を持った『国際的な日本人』を創り上げていくことが必要である。」と述べたことがあります。

外交に対する見識や諸々の知識量など、まぁ、佐藤氏と私では同じ土俵には上がれないほど大きな差はありますがある意味、畑は違っても同じ神学を学び日々造詣を深めるための努力をするもの同士ということなのでしょうか・・・。

しかし佐藤氏と私の何よりの共通項は二人とも「日本人」であり、「この国を愛する、愛国者」である、ということなのかも知れません・・・・・。

興味をお持ちの方は是非、「国家の自縛」(産経新聞社2005年)読んでみてください!!

面白いですよ!!!・・・・・・・・・・・CMみたいかな?(笑)

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2005年11月 1日 (火)

迷走・・・・。そしてまた迷走・・・。

今日、第三次小泉内閣が発足しました。

先日は郵政民営化関連法案の所謂、「造反議員」達の処分が行われ、大々的に報道されました。

拙ブログに於いて、選挙前に離党届を提出したにも拘らず「除名」処分を受けた方々については述べさせて頂いた通りでありますが、今回の処分での一幕はどう理解したらよいのか、真剣に考えねばならないと思います。

まず、「除名」という不名誉且つ、理不尽な処分をされた方々はまさに格好の「見せしめ」とされたということであります。 先日のエントリーにも書きましたがこの方々は党内審議も充分でない法案を自民党執行部が勝手に国会に提出し、その決議に対し反対した議員の方々を党議拘束にかけ党公認を与えず、致し方なく新党を立ち上げた結果、自民党公認候補と対決せざるを得なくなった方々を「公認候補の選挙活動を妨害した」として処分するという傍若無人な振る舞いの犠牲者であります。

そして今回、処分をされた方々も同様にその決議に反対され、同じように公認候補の選挙活動を妨害しました。 ここで私にはどうしても腑に落ちない点があるのです。

何故、選挙前に離党届を提出し新党を立ち上げられた方々は「除名」で選挙後に自民党に籍を残しておられた方や、離党届を提出したり、またその意志を告げられた方々は「離党勧告」なのでしょうか。

仮に自民党執行部が言われる事に筋を通すのであれば、この方達も「除名」でなければならないのではないのでしょうか。

そして選挙後にその結果によって己の信念を曲げた野田聖子氏を始めとする方々と最後まで信念を貫かれた平沼赳夫氏との処分が同じであるというのも、納得のできるものではありません。

これは明らかに自民党という大組織のエゴイズムであり別の意図を感じずにはいられません・・・・・。

仮に「除名」されれば復党への道は閉ざされたも同然ですが、「離党勧告」に従って10日以内に離党すればいずれは復党できるということです。

何年か後の復党を餌に、一言で言えば「我らが納得するだけの手土産を用意しろ」という事に他ならないのではないのでしょうか。

そして多方面に影響力を持つ平沼氏にはある種の「貸し」を作っておきたいということではないでしょうか。

今日の内閣改造も昨日の武部幹事長の言葉通り「偉大なるイエスマン」というような方々が名を連ねていました。

言うに事欠いて「偉大なるイエスマン」とは・・・・・・・・。

この「偉大なるイエスマン」の面々は「除名」された方々のように理不尽な処分をされることに怯え、結局の所、己の信念も通せない、やはり単なる「イエスマン」なのでしょう。

本当に残念ですが国の政を司る方々がこういう有様なのですから今の世から「イジメ」や「虐待」が無くなる訳がありませんね・・・・・。

まさにこの国の「迷走の構図」が今の自民党の在り方に集約されてしまっているようです・・・・・・・・・。

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2005年10月22日 (土)

除名?って・・・・・。

自民党紀委員会 綿貫、亀井氏ら9人除名(産経新聞)

・・・・ここまでやりますかね、実際・・・・。

言葉が出ません・・・・。

何故、この方たちが除名にならなければならないのか・・・・・。

手続上、問題があったのであれば致し方ないにしても・・・。

手続に問題があったのは党の側ですよね?

選挙前ならまだしも選挙後、自公連立与党の大勝後ですか・・・・・。

今回の行動で、小泉自民党が如何にいかがわしいかよく判りました。

党議拘束のかかった採決で反対したから?

それならば選挙前に処分なさいな。

自民党公認候補の選挙運動を妨害した?

だって彼らは選挙前に離党届を提出し、新党を立ち上げたではないですか。

勝手に国会に提出しておいて無理矢理党議拘束?

そもそも、党議拘束のかかる採決が本当に党内で了承されていたのですか?

どう考えても筋が通っていませんよ!自民党執行部の皆さん!

綿貫さんが仰っていた通り子供にゃとても見せられない政治の現状ですな・・・。

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2005年10月20日 (木)

「靖国神社参拝問題」に見受けられる現状を鑑みる

小泉首相、靖国神社に参拝

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051017-00000022-jij-pol

参拝については賛否両論、様々な意見がありますが私個人の意見としては「参拝すべき」と考えています。

「戦犯合祀」の問題が取り沙汰される中で、私が述べたいことは戦争で亡くなった方々の「死」に対する考え方です。

日本の宗教観というものは世界的にも特殊であります。

長い歴史の中で「神道」という民族信仰を生み、「仏教」という外来宗教と共生させて来ました。 その結果「神仏混淆」という独特な宗教観を作り出したのです。

そして「神仏」の概念に於いて「死者」=「仏様」という方程式が成り立つ訳です。

この国独自の信仰である「神道」というのはヨーロッパなどの民族信仰に見られる「アミニズム」、所謂「精霊信仰」に通ずる部分が多数あります。

例えば「お天道様」は神であり、「大地」は神である。この地球上に在る全てのものに神が宿っており神の力の御陰を持って存在たらしめているものなのです。 その時代ごとに暮らしている人間の「不足」の部分を補おうとするものであるのです。

そして「戦争」でさえも神の力によって引き起こされるわけです。

その時代に生きる人間に不足している「何か」を気付かせたり、「不足」を補い、後に現在のような平和で豊かな国を創る足掛かりを与えてくださったと考えるのです。

そうすると「戦犯」であろうがただの一兵士であろうが、一市井であろうがその時代の流れによって犠牲になった方は全て「仏様」であり、「時代の殉難者」であるとの考えに至るわけです。

この犠牲者の方々にもその時、家族が在った訳ですし、今も生きておられる子孫が存在するのです。 そういった方々にとっては例え「戦犯」であったとしても「御先祖様」にあたる訳です。どんな人だって祖先無しに自分の存在は無いわけですから「御先祖様」は無条件に有難いものと言えます。それが例えどのような人格の持ち主であったとしても・・・です。

確かに戦争はいけないものです。しかし、戦没者というのは文字通りこの国を死ぬ気で守ろうとした結果亡くなった方達であり、決して侵略の為に無駄死にして行った訳ではないと思うのです。私達の祖先はむやみやたらな侵略行為を行ったのではなく、その「時」の流れによって国益や国民を守る為に戦争へと進んで行ってしまった・・・。
私はそう信じています・・・。

「御先祖様の死」を「無駄死にである」と切り捨てることができますか?

この参拝が意味するものは「我々の祖先を不当な侮辱から守る」ということであると考えます。

これを仮に「無駄死にである」と論じるのであれば、死者の行為を否定し、あまつさえ死者の想いを曲解する、不遜の極みであると深い悲しみを感じます。

しかし、残念ながらマスコミが繰り広げる「靖国問題」はこういった部分が欠落している上に、本来ドメスティックな問題である「国内の宗教的な問題」を「外交問題」に多く置き換えて報道されているわけです。

中国を始めとする参拝に対して批判的な国は所謂「大陸系儒教」の国々ですから、たとえその方が亡くなったとしても、その方が生前犯した罪は消えないものと考えるのです。そういったものを鑑みれば日本の「神仏」の概念とは相計ることの出来ない存在である訳です。 然しながら小泉首相の発言は本筋とかけ離れたものであり、参拝の手段についても中途半端でありました。 ですから、これから政府は本筋に沿い、しっかりとした説明をし、理解を求めることにもっと尽力しなければならないと考えます。そして日本人の宗教観を理解させ、そういったものが外交の手段としては相応しいものではないことを認めさせる必要があると考えています。 そして先人が苦労して築きあげて来たこの国を「平和な国家」として守り抜いていく事こそ本道なのではないか、と思います。

だからこそ先達の御苦労を知り、その思いを汲み、御霊を敬い、鎮め、慰める。

「かつて戦争があり、多くの方が亡くなった。そういった先人達の御苦労があって今の豊かで平和な日本がある。だからこそ、そのような惨劇を二度と繰り返してはならない。それこそが戦後、日本が平和国家として誓ってきたことであり、これから先、国際社会に於いて、果たさねばならない役割である。」

私は次代を担う子供達にこの事を語り継いでいきたい、そう決意しています。

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2005年10月13日 (木)

この国の進む道筋とは・・・・

郵政民営化関連6法案が衆議院で200票差を以って可決。

このニュース自体は然程の驚きも無かったことと思います。

然しながら、直前に行われた野田聖子衆院議員の記者会見は大きな驚きと特大の失望を与えてくれました・・・。

まさかの判断であり、政治の世界に於いて在ってはならない事であると強く憤っております。

今回、多くの自民党民営化反対派であった方々が賛成票を投じ、多くの有権者の期待を踏み躙り、自らの保身の為に裏切った・・・これだけが事実であり、真実であります。

特に反対派の急先鋒的な存在であった野田氏の記者会見は彼女に投票した多くの有権者を愚弄し、騙し討ちをかけた・・・・。 彼女にどんな言い訳があろうとも許されない厳然たる裏切り行為であり、結局、彼女も「永田町の常識で物を計るセンセイ」で在ったということだと強く憤っております。

国会議員が国民の要請、即ち「民意」で、自分が執ってきた政策を省みて「間違えていたんではないか」と自らの考えと国民の希望との温度差を埋める作業は必要でありましょう。

しかし、今回の野田氏を始めとする衆議員のセンセイ方は、今回の選挙結果が自民党の選挙戦略の奏功、そして「小選挙区比例代表並立制」の弊害であるにも拘らず、採決で賛成にまわる、その理由を事も在ろうか「選挙の結果により反対派の意見は完敗した」と言い、まるで国民の総意で在るかの如く「民意」と言う意味の言葉を引っ張り出してきたのです。

これが選挙民に対する裏切りでなく一体何なのでしょうか・・・。

自民党反対派議員の方々に投票された良識ある有権者の方々は貴方がたが「郵政民営化反対!!」と声高に叫び続けていたから投票したのですよ!

貴方がたに対する期待はそこから生まれていたのに・・・・・。

強権的な手法を執り続ける自民党執行部の圧力に負けたのですか。

同じ自民党の県連の方々やその他の方面にこれ以上迷惑はかけられないと思ったからですか。

ご自分が成し遂げたいことをする為に自民党という巨大政党の手助けが必要だからですか。

しかしどれもこれも、結局は貴方がた自身の「保身」という最大の目的を果たすための口実であり、国民の方を向いて導き出された結論ではありませんね・・・・。

そして貴方がたの犯した罪は限りなく大きい・・・・・。

国民に選挙の結果を間違えた形で認識させ、更には「民意」という言葉を盾にとった・・・。

そしてこの独裁的な政治を行う内閣及び、自民党執行部に屈する形ですり寄った・・・・。そういう悪い前例を作った・・・・。そしてその先にあるものは・・・・。

総議席数の3分の2を超える巨大与党がこのような強権政治を行っている現状に対する認識の甘さ。そしてその恐怖・・・。

今後、おそらく人権擁護法案、憲法改正論議が始まるでしょう。その時になって国民がものを言えない、口を塞がれる事になってもこの方達は一向に構わないのでしょうね。何故ならまた自分や、自分の周りに居る人達に迷惑はかけられないのですから・・・・。   多くの国民が苦しむことになったとしても・・・・・・・・・・。

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