2007年11月23日 (金)

ふと気がつくと・・・

前回の更新から早くも3ヶ月も過ぎていました。

相変わらず忙しいと言い訳のように繰り返しております。(反省)

何故忙しくしておりましたかと申しますと、実は・・・・。

この時期になると最早毎年恒例のようになっておりますが・・・・

第五子が誕生いたしました。(苦笑)

体重2912g 身長48.5㎝

元気な男の子であります。

去る11月の某日でありますが、母子共に健康でこの世に生を受けました。

今回は家内の妊娠中に体調の問題もあり、一時は入退院も何度かありましたが、無事に出産を終えて帰ってきてくれました。

公私ともに多忙を極めておりました故、遅くなりましたがここに御報告申し上げます。

七五三シーズンを終え、ようやく落ち着きを取り戻しましたので、更新を再開したいと思っておりますが、なにぶん年末年始を未だ控えて居る状況でありますので、マイペースに更新を続けて参りたいと思っております。

しばらくの充電の間に書きたいことが貯まっております。

時間を作りながら更新を続けたいと思っておりますので、皆様今後とも拙ブログを宜しくお願い申し上げます。

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2006年3月22日 (水)

不登校

先日、私の住んでいる地区の宗教連盟からご依頼を頂戴しまして、小中学校の不登校児とその家族を対象にした懇話会で講演をさせていただきました。

講演後、何組かの親子とお話をさせて戴く機会を頂戴しました。

そこでの遣り取りでかなり驚くものでありましたのでここで御紹介させていただきます。

小学校4年生の男の子の話です。

国語の授業で自分の父親について作文を書くという課題があり、順番に教壇の前で読み上げることがあったのだそうです。

彼は「僕の父は航空自衛隊のパイロットで、僕も将来は父の様なパイロットになりたいです」という内容の作文を発表したそうです。

周囲からは「かっこいい!!」とか「すげー!!」などという彼を羨むような声が上がったそうです。

ところが、担任の教師(40代、女性)は彼が作文を読み終わるやいなや、思い切りのビンタで彼を張り倒し、「そこで正座しなさい!!」と教壇の上に彼を座らせたそうです。

それから授業を中断しその女教師は生徒に向かって演説を始めたそうです。

少年から聞いたところに依ると彼女の話は

・自衛隊は人殺しの集団である。

・そこに所属する少年の父親は悪である=少年も悪である

・現代に生きる我々は祖先の過ちをアジア諸国に謝罪しなければならない、????・・・などなど・・・

少年は当然、泣いていたそうです。すると「うるさい!!静かにしなさい!!」と言って又ビンタをしたそうです。そして授業中、ずっと彼女は演説を続け時間を繰り越してまで続けたそうです。

しかし、事態はそれだけでは済まなかったのだそうです。

学年で彼のクラスだけに毎週金曜日の放課後に「クラス反省会」という、順番にクラスメイトの欠点を互いに批判し合うというHRが在ったのだそうです。(どこかの組織の『総括』というものみたいですね) そしてその週のその『会』でその担任教師によって再び少年は槍玉に挙げられたのだそうです・・・。

そこで女教師は「○○君を善人に生まれ変わらせてあげましょう」と言ってクラスメイトに批判をさせたのだそうです・・・。

それからというもの何かことある事に彼を槍玉に挙げ、その都度「まだ○○君は人殺しのお父さんの悪影響を受けている」などとクラスメイトの前でしかりつけたのだそうです・・・。

結局、少年は登校拒否になってしまい、そのことをご両親が学校側に掛け合ったところその女教師は「減給処分」を受けたそうですが、それ以外には何もお咎めがなかったそうです・・・。

その後、少年は転校し、現在に至るそうですがその時のことがトラウマになってしまい転校先でも学校に馴染めず、不登校のままでいます・・・・・。

しかもその教師はその少年が転校した後に生徒達に向かって反省するどころか「悪人が居なくなって清々した。これでクラスに平穏が戻る」と言ってのけたそうです。

偏向教育のみ為らず、子供達にトラウマを残す様な行為をしている愚かな大人達が今日も教壇に立ち、子供達に「教育」の名を借りてまた、さらに子供達を汚す行為に及んでいるのかも知れない・・・。そう思うと居ても起っても居られない気持ちになってくるのは私だけではないと思います・・・。

その他の不登校の児童達にはもう少し、親が厳しくしても良いのでは・・・?と思うような方々もいらっしゃいましたが、「中にはこういう例も本当にあるのだ・・・」と今の教育現場に於ける問題を真剣に考え、行動できることは行動しなければならない、と心を新たにしました。

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2005年12月 3日 (土)

公衆道徳というバランス感覚

最近、街を歩いていたり、車で移動をしていると良く思うことがあるのです。

信号機は完全に赤なのにゆっくりと、そして堂々と交差点を通過する歩行者や自転車の方々。主に高校生ぐらいの若者が多いのですが、それと同じくらい多いのが50代から70代くらいの高齢の方。

うーん・・・・・。

モラルというか常識というか、人に対する認識の不足というか・・・・・。

単純に、「自分がされて厭なことは誰だって厭」だと思うのですが・・・・・。

年端のいかない子供達ならともかく、大の大人、いい年したおっちゃんやおばちゃん、子供連れの主婦の方などなど・・・・・。

道路の歩き方、自転車の乗り方、そしてその他諸々の所謂、「公衆道徳」といった感覚が忘れ去られているように感じているのです・・・。

恐らく、こういう歩行者や自転車の方は「だって、交通弱者の保護の法則があるんだから車の方が気をつければいいでしょ」などと思っておられるのでしょう・・・。

先日、私の住む町の小学校で、ある生徒が給食の時間に「いただきます」を言わなかったことを教師が注意し、その生徒が帰宅した後、両親にその旨を伝えたそうです。

すると、両親が学校へ出向き、その注意した教師に向かって「家は一度だって給食費を滞納したことは無い!!払うものをきちんと払っているのだから『いただきます』なんて言わせるのを強要しないでもらいたい!!!」と仰ったのだそうです・・・。

またある日、電車に乗ると車内の床に「ベタッ」と座り込んでいる高校生の3人組がいました。それを発見し、私が「そんな所に座ってると皆さんの邪魔だ!」と一言言うと「チッ」などと舌打ちをし、「なんだぁ」とぶつぶつ文句を言いながらも車内の方々の視線のプレッシャーに負けたのか、次の駅でバツが悪そうに降りていきました。すると隣に立っておられた50~60代くらいの中年の男性が「全く、今時の連中はなっちゃいないな・・・ブツブツ」と小声で仰っていました。

しかしその時、その男性のポケットから携帯の着信音が・・・。そして「マナーモード」にしていない事を悪びれる様子も無く、大きな声で「もしもし?あっ、今?電車。大丈夫、大丈夫。」・・・・・。

半分呆れながらも「車内での通話は皆さんに迷惑ですよ」と注意するとチラッとこちらを見た後は完全無視!!そのまま通話を続けられておられました・・・。少し腹が立ったので「『人のフリ見て我がフリ直せ』と言いますよ」と言ってしまいました。結局最後まで通話を続け、電話を切った後に私に聞こえるか聞こえないかくらいの小声で「最近の若いのは目上に対する礼儀も知らんのか・・・・・」と一言。私は呆れてものも言えませんでした・・・。

そして最近のニュースでは「子供に引ったくりをさせる母親」や「母親に毒物を飲ませ観察する女子高生」や「通りすがりの幼児を殺す大人」など、今までの感覚ではありえなかったであろう犯罪が多発しています。

例えば「BSE問題」や「耐震建築計算書偽造問題」などもそういった、「自分が食べる、住む訳ではないからまぁいいか。」というような利己的な感覚から生じたものと言えるのでしょう。

そして現在の自民党の執行部のように、これまで党に対し大きく貢献されて来られた方々を「処分」と称し力を削ぎ、或いは失脚させる様な政治家の在り方がまかり通り、更にライブドアや楽天、村上ファンドのような法的に正論であっても、人道的に決して褒められない様なものの進め方が横行する世の中で、そういった事件や出来事が起こることは必然なのかもしれません・・・・・。

「法律で守られているんだから我々は保護されて当たり前。悪いのは自分よりも大きな車の方だ」

「金さえ払えばそれでいい」  「若いのはなってない」

「拝金主義」や「勝ち組絶対主義」、そして「行き過ぎた個性の尊重」

それらが「新自由主義」の目指すべき姿であるならば、誰にとっても住みにくい、暮らしにくい時代の到来なのかもしれません・・・・・・・。

誰もが自分が大事で、自分がかわいいのは当たり前。

しかし、それは全ての人が同じことです。

皆が皆、同じように自分が大事で自分がかわいいのです。自分だけではないのです。

だから人間には「思いやり」だとか「尊敬の念」が必要なのだと思うのです。

全ての物事に、全ての人達に「感謝の念」を持って「敬意」を払い、「思いやり」を持って接すること。  

そういう人として当たり前の「公衆道徳という、人と人とが付き合う上で、ルールとも言うべきバランス感覚」が不足してはいけないと思う、今日この頃です・・・・・・・・・。

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2005年11月18日 (金)

教育勅語とナショナリズム

前回、ナショナリズムについて触れ、私なりに思うところがありまして、今回は教育勅語に触れてみたいと思います・・・。長文になりますがご容赦ください。

朕惟フニ 我カ皇祖皇宗 国ヲ肇ムルコト宏遠ニ 德ヲ樹ツルコト深厚ナリ

我カ臣民 克ク忠ニ 克ク孝ニ 億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ

此レ我カ國體ノ精華ニシテ 教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス

爾臣民 父母ニ孝ニ 兄弟ニ友ニ 夫婦相和シ  朋友相信シ

恭儉己レヲ持シ 博愛衆ニ及ホシ 學ヲ修メ 業ヲ習ヒ 以テ知能ヲ啓發シ

德噐ヲ成就シ 進テ公益ヲ廣メ 世務ヲ開キ 常ニ國憲ヲ重シ 國法ニ遵ヒ

一旦緩急アレハ 義勇公ニ奉シ 以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ

是ノ如キハ 獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス 又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ 實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ 子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所

之ヲ古今ニ通シテ謬ラス 之ヲ中外ニ施シテ悖ラス 朕爾臣民ト倶ニ 拳拳服膺シテ

咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二三年十月三十日

 御名  御璽

この文を私なりに訳をしてみました。

教育勅語(私的現代口語文訳)

私は、昔、私達の祖先が大志と理想を持ち、この日本という国をお開きになったものと信じます。

それからというもの国民は、深く道徳を考え、それを生活のあらゆる面に根付かせ、真心を持って祖国に尽くし、人を大切にして心を一つにし、今日に至るまで先祖代々受け継いできた美しい美風を育んで参りましたことは、日本の優れた国柄の賜物であるといわねばなりませんが、私は教育の根本もまた、ここにあると信じます。

国民の皆さんは、父母を大切に敬い、兄弟姉妹は互いに力を合わせ助け合い、夫婦は心を通わせ支え合い、友人は友情を育み信じ合い、そして己の身を常に慎み、決して驕り高ぶらず、学問を怠らず、職業に専念し、新しい知識や能力を存分に発揮し、立派な行いができるように心がけ、進んで世の中の為に貢献し、国民として憲法、法律や秩序を守ることは勿論のこと、非常事態が発生した場合には、正義を心がけ、勇気を奮い、真心を捧げて、一丸となって国の平和と安全に奉仕しなければなりません。

そして、これらの教えを善良な国民としてよく守ることは、立派な日本国民であるばかりでなく、私達の祖先が今日まで身をもって示し残された伝統的な美風をしっかりと受け継ぎ、これから祖国を担っていく子孫達に正しく伝えていこうと、心に留め生きている証でもあります。

このような国民の歩むべき道は、神話の時代から続く、私達の祖先が残された教訓であって私達子孫が守り遵わねばならない所であると共に、この教えは昔も今も、将来にわたって変わらぬ正しい道であり、日本だけでなく、世界のどこへ行っても間違いのない人の道でありますから、私もまた国民の皆さんと共に、祖先の教えを胸に抱いて、徳を積み、人格を高め、謹んで踏み行い、立派な日本人となれるように、心から念願するものであります。

明治二三年十月三十日

 ご署名 御印

マレーシア独立の父でラジャー・ノンティック氏という方がいらっしゃいます。

彼が日本人の現状を知り一遍の詩を残されています。

かつて 日本人は 清らかで美しかった

かつて 日本人は 親切で心豊かだった

アジアの国の誰にでも 自分のことのように 一生懸命つくしてくれた

これらを読んでかつてこんな日本があったのか、という嬉さと誇りがわいて来ました。

それと同時に今の日本がとても恥ずかしく、そして情けなくなりました・・・。

偏狭で排外的なナショナリズムではなく、ただ単純に「日本人として失われた精神の高潔さ」を取り戻したいと心から思うのです・・・・・・・・・・・。

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2005年11月 6日 (日)

第3子誕生!!!!

めちゃくちゃ私事であります。

第3子が誕生いたしました!!

予定では来月だったのですが、1ヶ月も早く産まれて来てしまいました。

最近、更新していなかったのも決してサボっていた訳ではありません・・・・・。

たくさんのTBやコメントを頂いていたにもかかわらず、レスが遅れてしまいまして大変失礼致しました・・・・・・・。

しかし今更ながら家の「カミさん」の偉大さが身にしみます・・・・・。

普段、いかに「カミさん」に依存しているか、こんな時にならないとなかなか気付けないものですね・・・。

二人の子供は全く私の言うことを聞いてくれず、口を開けば

「お母さんは?」

うーん・・・・・・・・・・。

父の威厳の無いことこの上なく・・・・・・。

しかもタイミング悪く、仕事の方では宮司(私の父ですが)が持病で入院し、権宮司である私が一人で仕事を切り盛りしなければならなくなり、「育児」と「仕事」の両面で負担が増大し、その上、本人は季節の変わり目でやられ「風邪っぴき」であります・・・・・。

そんな状態ではありますが微力な私を支えてくださる「氏子」の方や多くの「先生」方もいらっしゃいますし、そんな私を頼ってくださる方々もいらっしゃいます。そして何より大事な「母ちゃん」と「子供達」が居ります。

「父ちゃん、こんな事でへこたれてはおれんぞー!!!」

と決死の覚悟で今、記事を書いています。

・・・・・・・おいおい、決死の覚悟ならもっと他のところでしろよ・・・・・・・・・。

そんなお声も聞こえてきそうですが・・・・・・・。

まぁまぁ、どんなことでも頑張ると言う事はいいことですよね!

「有難い」という字は読んで字の如く「難が有るからこそ有難い」ものなのだとつくづく感じさせていただきました。

色々、苦労できるということは生きているからこそ。

子供の面倒を見れるのも自分の体に自由があるからこそ。

仕事させていただけるのも多くの方の御陰を戴いてこそ。

今を生きていられるということは多くの周りの方の御尽力があって初めて生かされている訳ですから。

人は誰でも一人では生きていけませんから。

家族や自分の周りで御陰を下さる方々があるからこそ強くなっていけるのだと思います。

偉そうな物言いで失礼致しました・・・・・・(反省)。

でも、これだけは書いておきたい。

「母ちゃん、いつも有難う!!これからもよろしく!!」

それと子供たちへ「父ちゃんこれからも頑張るからぞ!!よろしくな!!」

うーん・・・・・・。一人悦ですね・・・・。

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2005年10月20日 (木)

「靖国神社参拝問題」に見受けられる現状を鑑みる

小泉首相、靖国神社に参拝

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051017-00000022-jij-pol

参拝については賛否両論、様々な意見がありますが私個人の意見としては「参拝すべき」と考えています。

「戦犯合祀」の問題が取り沙汰される中で、私が述べたいことは戦争で亡くなった方々の「死」に対する考え方です。

日本の宗教観というものは世界的にも特殊であります。

長い歴史の中で「神道」という民族信仰を生み、「仏教」という外来宗教と共生させて来ました。 その結果「神仏混淆」という独特な宗教観を作り出したのです。

そして「神仏」の概念に於いて「死者」=「仏様」という方程式が成り立つ訳です。

この国独自の信仰である「神道」というのはヨーロッパなどの民族信仰に見られる「アミニズム」、所謂「精霊信仰」に通ずる部分が多数あります。

例えば「お天道様」は神であり、「大地」は神である。この地球上に在る全てのものに神が宿っており神の力の御陰を持って存在たらしめているものなのです。 その時代ごとに暮らしている人間の「不足」の部分を補おうとするものであるのです。

そして「戦争」でさえも神の力によって引き起こされるわけです。

その時代に生きる人間に不足している「何か」を気付かせたり、「不足」を補い、後に現在のような平和で豊かな国を創る足掛かりを与えてくださったと考えるのです。

そうすると「戦犯」であろうがただの一兵士であろうが、一市井であろうがその時代の流れによって犠牲になった方は全て「仏様」であり、「時代の殉難者」であるとの考えに至るわけです。

この犠牲者の方々にもその時、家族が在った訳ですし、今も生きておられる子孫が存在するのです。 そういった方々にとっては例え「戦犯」であったとしても「御先祖様」にあたる訳です。どんな人だって祖先無しに自分の存在は無いわけですから「御先祖様」は無条件に有難いものと言えます。それが例えどのような人格の持ち主であったとしても・・・です。

確かに戦争はいけないものです。しかし、戦没者というのは文字通りこの国を死ぬ気で守ろうとした結果亡くなった方達であり、決して侵略の為に無駄死にして行った訳ではないと思うのです。私達の祖先はむやみやたらな侵略行為を行ったのではなく、その「時」の流れによって国益や国民を守る為に戦争へと進んで行ってしまった・・・。
私はそう信じています・・・。

「御先祖様の死」を「無駄死にである」と切り捨てることができますか?

この参拝が意味するものは「我々の祖先を不当な侮辱から守る」ということであると考えます。

これを仮に「無駄死にである」と論じるのであれば、死者の行為を否定し、あまつさえ死者の想いを曲解する、不遜の極みであると深い悲しみを感じます。

しかし、残念ながらマスコミが繰り広げる「靖国問題」はこういった部分が欠落している上に、本来ドメスティックな問題である「国内の宗教的な問題」を「外交問題」に多く置き換えて報道されているわけです。

中国を始めとする参拝に対して批判的な国は所謂「大陸系儒教」の国々ですから、たとえその方が亡くなったとしても、その方が生前犯した罪は消えないものと考えるのです。そういったものを鑑みれば日本の「神仏」の概念とは相計ることの出来ない存在である訳です。 然しながら小泉首相の発言は本筋とかけ離れたものであり、参拝の手段についても中途半端でありました。 ですから、これから政府は本筋に沿い、しっかりとした説明をし、理解を求めることにもっと尽力しなければならないと考えます。そして日本人の宗教観を理解させ、そういったものが外交の手段としては相応しいものではないことを認めさせる必要があると考えています。 そして先人が苦労して築きあげて来たこの国を「平和な国家」として守り抜いていく事こそ本道なのではないか、と思います。

だからこそ先達の御苦労を知り、その思いを汲み、御霊を敬い、鎮め、慰める。

「かつて戦争があり、多くの方が亡くなった。そういった先人達の御苦労があって今の豊かで平和な日本がある。だからこそ、そのような惨劇を二度と繰り返してはならない。それこそが戦後、日本が平和国家として誓ってきたことであり、これから先、国際社会に於いて、果たさねばならない役割である。」

私は次代を担う子供達にこの事を語り継いでいきたい、そう決意しています。

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2005年10月 7日 (金)

この国の子供達の将来を憂う その2

学校というのは多くの友達と遊び、色々な課外活動をし、そして授業にて勉学を学ぶ。

そういう場所であると同時に、子供たちの人格の形成に於いて多大な影響を与える場所であります。

そして子供たちが後に出て行くであろう「世間」というものの在り方を共同生活を通じ学んでいく場所でもあるでしょう。

私、個人は学校というものは「およげ!たいやきくん」の唄のようにある程度人間を鋳型にはめるシステムだと考えております。

それは何故か。

中には「そんな考えは子供の個性を殺し、画一的な人間を作るだけだ」というような声も聞こえてきそうですが、私はそういう意見の方に逆にお聞きしたい。「では、あなたは真っ黒に焦げたタイ焼きやあんこの入っていない皮だけのタイ焼きを食べる気になりますか?」と・・・。

そもそも、子供たちの「個性」とは一体どのように育まれて来るのでしょうか。

伸び伸びと、自由に、その子の持っている全てを尊重し、大人達が寛大に見守る。

それが子供たちの「個性」の成育、「人格」の形成につながっていくのでしょうか?

私はむしろ「個性」というものは抑圧され、叩かれることを通して鍛えられていくものではないかと考えます。「自分の思う通りには生きられない」と理想と現実のギャップを感じ、それを悩むことは大概の人は経験をすることでしょう。人間、特に「思春期」の若者にとってそういった現実と向き合い、戦うことを通して「己」の存在について自問自答し、そして生きるべき道を見つけ、進んでいく・・・。それこそが「個性」が作られいくて過程であり、人格の形成というものではないのでしょうか。

現在、学校に於いてなされる教育の中に「ジェンダーフリー教育」というものが在ります。

それは男女平等、女性差別の概念の除去、一人の人間、「個」として生きていくことへの在り方、そういった概念に基づいた教育を施す目的で用いられたものなのでしょう。こういった考え方や差別をなくそうとする動きを推進するということ自体は絶対に必要なものであります。

しかし、現在の「ジェンダーフリー教育」は多くの社会問題を生み出しています。

低学年からの過激な性教育や、所謂「らしさ」の否定、言葉狩り問題、挙句の果てには「桃太郎」を始めとする童話などの否定etc・・・・。

教科書などの問題もここにあります。歴史教科書や公民教科書だけでなく、家庭科や国語、倫理の教科書についても多くの問題があると感じています。

国語の教科書には学説的に間違いがあるのではといわれるジェンダー関連の論文を引用した文章が載っていたり、家庭科の教科書ではとり方によっては離婚やシングルマザーを奨励するような文面で物が書かれていたり、倫理の教科書については時代考証を明らかに間違えて「ジェンダーフリー」を必要以上に正当化する内容になっていたり・・・。

進む方向、間違ってやしませんか?

子供たちに伝えなければならない物事の本質を見誤っていませんか?

「男が偉い」とか「女は従属するべきだ」なんて・・・過大解釈としか私には感じられないのですが・・・。

私が思う「男女平等」や「男女共生」とは、男女がお互いの「質」の違いを理解し、尊重し合い、感謝し、助け合い、そしていい意味で「鍛えられた個性」を発揮していける社会、家庭を構築していくことだと考えています。

そして、そういった社会を実現していくことに努力を惜しまず、大人達が物事を本質的に理解し、尽力する。

その姿こそが子供たちに伝えるべき本質、そして「学校」の在るべき姿ではないかと思うのです・・・。

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2005年10月 4日 (火)

この国の子供達の将来を憂う その1

先の総選挙に於いては小泉首相率いる「自公連立政権」の圧勝に終わりました。

しかし、選挙戦の過程に於ける小泉首相らの在り方は実に茶番でありました。

「刺客」やら「くの一」やら・・・・・・。

「郵政民営化にYESかNOか」やら「官から民へ」やら・・・・・・。

「御題目」並べてイメージだけで選挙戦を戦い抜くなんて「小選挙区制選挙」であればこそのやり方ですね。

そしてそこにまた「彼」得意の騙し討ちが潜んでいた訳で・・・・。

選挙前、サラリーマン増税について「政府税調は間違っている」って言ってませんでしたっけ? それが「サラリーマンだけをターゲットにしているわけではない」なんて・・・。色々なものに付いていた控除の見直しをするってーのはサラリーマン増税じゃなくてなんなんですかね?定率減税についてはサラリーマンも自営業者も関係ないから「サラリーマンだけを」じゃないってことですか?(下記URL参照)

http://www.yomiuri.co.jp/atmoney/mnews/20041006mh05.htm

http://ts.way-nifty.com/makura/2005/09/post_1d4e.html

小泉さんや竹中さんのような「新自由主義者(ネオ・リベラリズム)」は結局のところ「勝ち組」と「負け組」に分けて物を考えるわけですよね。「市場原理の絶対化」、それと「政府機能のダウンサイジング(つまり「小さな政府」)」、その行く末にあるものは「小さきものには死を、大きなものには生を」という弱者切捨ての結末を迎える以外にないのでは・・・?さらに小泉首相の独善的な政治手法を見ては・・・・・。

このような現状を目の当たりにして、私達、親は子供に向かって「世間」というものをどう説明したらよいのでしょうか・・・・。

「この世は弱肉強食。騙さなければ騙されるし、陥れなければ陥れられる。だから、どんな手を使ってもいいから世間の『勝ち組』になりなさい。そうなれなければ人間なんてクズ同然なんだから。」

とでも言わせたいのでしょうか?この「新自由主義」を正しく、子供たちに理解させるのに今回の小泉さんの手法は子供達のお手本たる在り方なのでしょうか?

普通の人は人に親切にして貰えば有難いと感謝し、その人の為に何かしてあげたいという感覚を持つものです。こういった感情を抱くことは人間としてごく自然なことです。

しかし現状のように、今まで同僚であった方々を放逐し、失脚させ、さらに残った方々も言うことを聞かなければどのような処分が待っているかも知れないような政治の在り方が横行する。

その様をマスコミを通じて子供たちが見て、果たして何を感じ、何を思うのか・・・・・。

それが「勝ち組」の在り方と感じ、「恩義」に対して「感謝」を感じなくなり、「されて当たり前」「利用できるものは何でも利用し、いらなくなれば捨てればいい」そして「奪えるものは何でも奪え」となってしまうのかも知れません・・・。

既に成人式で騒いだり、暴れたりする若者や、親に叱られたからと言って親を殺してしまう少年はこういった感覚に陥っているのでしょう。にもかかわらず、そういった青少年に対して手本を示すべき大人、それも内閣総理大臣という日本人を代表する存在にある方がこのような立ち居振る舞いをされるのは如何なものでしょう。先述の若者たちは国や地域、親に庇護され様々な教育を受けさせてもらい、さらには安全で快適な暮らしを享受しながらも、その恩義を全くと言って良いほど感じることが出来ず、その恩義を与えてくれた存在に対して無礼極まる態度を取ったり、或いは殺してしまう・・・。人間として最低といえるでしょう。

そして現在、小泉首相がとっている政治手法はそれと、然程、変わりはないのではないかと感じています・・・・・・・。

この国の子供達の未来が不安でたまりません・・・・・・・。

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