2007年8月15日 (水)

「神への信仰」というもの

前回の文章と併せて、同じ先生がお書きになった文章で、これも当社の会報に載せたものです。会報では2ヶ月続けての掲載となりました。では早速・・・

神への信仰というもの

信仰とは読んで字の如く、あくまで「信じて仰ぐ」にある。

神様や人様の言霊を耳に、心に聞いて信じ行う「信行」し、以て実行するところに心の行い「心行」となり、信じ幸せな「信幸」となる。

迷いの心を払い光差し「心光」と書き、外面に視し身の行い「身行」をするので、幸は益々心の幸「心幸」となり、身の幸「身幸」となる。

神に願うのではない。心の願い「心願」である。願するところに根害あり、その害する己の根を掘切る「(おしえ)」を「求」めて「救」われるの文字となる。 

神の御許、教えに進み行く「進行」し、「信仰」によって神を感じ「神降」し、そこからさらに「深考」することから心改まり「心更」の信念が生じ新しき行い「新行」の大道開拓となる。

神仏のための信仰でなく、荒木の心即ち「心荒」のための「沈行」をして徳を遺憾なく発揮することにより愉快な人生を見出すことである。

その為にノビノビと「伸行」し「身行」となり「深交」の良き友が集い来るのは眞の行い「眞行」による来福であり、「深交」するので益々と和樂の日が送れるのである。

己我無(おがむ=拝む)精神無い者は不健全な自己の行動に気付かず、人を恨み、咒い、譏り、怒り、嫉み、行き詰まって震える行い「震行」し、地震の玉子のように身震いしている。自震では生きられない。自らを養い愛で給う神を感じ自神であれ。 自らの心、即ち自心は自信により自眞となし、我の尊さを知る自神となるのである。

さすれば心機一転、神の御力を戴き「振興」となる。野良も自由も蒔かぬ種は生えぬ。花を咲かせ実を結ばせる「深耕」しなければ、種は水に流され鳥に食われる。教えの種を蒔くように神起・心気・新気の種を蒔こう。用意周到の深耕をするのである。

これを患しいと云う事が「貧行」となり「診行」して見放され情けないと泣き溢し、人に拾われるのも知るや知らずや、あぁ情無い不人情の人である。

平常の「心構」が欠けている空(から)心が空駄(からだ)・・・身体・・・「身構」に油断するな。わずかなスキ間に「魔」が入り込んでくる。

私運行(しんこう)」の現世の生活は「親孝」の賜と知れ。

平素日常の神への奉祀と感謝、自己の神「自神」と共に強く祈り「志運行(しんこう)」するところに開運となる。

「心こそ 心迷わす 心なり 心の心 心ゆるすな」

                          了

今回は若干宗教色が強いテーマでしたが、私もこの先生に近い考えを持っております。

日本人の神への信仰心と現代の日常生活を考える上で、こういった規範的な要素が薄らいでいる事実は、現代が抱える様々な問題と無関係でないように思います。

古代、神話を肌で感じてきた日本人が持っていた感覚を、現代を生きる我々は失くしてしまっているのではないでしょうか・・・。

この大自然の運行と「私運行」は無関係ではないはずです。

この先生のこの原稿を読んで、私も「私運行」は「志運行」でありたいと感じました・・・。

先に述べましたが、今回のテーマは若干宗教色が強く、また読みにくかったことと思いますが、御容赦賜れれば幸いと存じます。

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2007年8月12日 (日)

「生きる糧」というもの

更新が滞っておりました。

久々の更新なのですが、以前私の師にあたる先生が会報に寄稿してくださったものがありましたので、ご紹介させていただきます。

またこれと別に、この先生が今回のエントリの原稿と共に書かれた小文もありますので、後日掲載させていただきます。それでは・・・

「生きる糧」というもの

人に生き方を旅路にたとえたり、航路になぞらえたりしますが、長い人生には平穏な時ばかりではありません。

時には雨、風の激しい日、波の立ち騒ぐ日もあることでしょう。

誰でも平穏を望む処ではありますが、そういった航路ばかりを選んでいますと、つい惰性に流され、安流に慣れ、突然の激しい風雨や波風に遭遇した時に、ただ慌てるばかりで適切な処置が出来ず、取り返しのつかない痛手を負ってしまうことにもなります。

楽な生き方には向上性が無く、何によらず良くなる為には困難がつきまとうものであります。

望んでも手に届かなかったものが、懸命な努力によって、或いは長い時間辛抱した結果、得られるからこそ喜びとなるものであり、簡単に手に入るものの中には、その感動や満足感を見出すことは出来ません。

自ら求めてまでもその苦難に体当たりしてゆく生き方にこそ、成し遂げた時の深い喜びが与えられるものです。

昔から「苦労は買ってでもせよ」と云われているように、私達は人生における辛酸を、むしろ自ら進んで求めるくらいの心構えが大切です。苦労から逃避してばかりでは、いつまで経ってもそれを乗り越えてゆく力が備わらず、何事にも挫折してしまう虚しい人生を送る事になります。

苦しみや悲しみを人間向上の為の有難い試練だと、素直に受け入れ頂いてゆく処に価値のある人生が生まれるのです。

また、「味わう」という言葉は、ただ単に体験するだけでなく、それが持つ意味を充分に理解し、感じ取ってゆく事であります。苦しみや悲しみをあるがままに、そのものとして「味わう」ことに依って、自分の「心の糧」としてゆく事ができ、そこで初めて他人の苦しみや悲しみも理解できる、温かい心が養われていく事になるのです。

苦労を共に味わい、噛みしめて、深みのある人生を過ごしていこうではありませんか。

「なぁに、また明日がある」「先がある」と考えていると、いつの間にかどんどん日が経ち、それが一年、二年と続けば、為すべきことも為せずに終わって、後悔することになりかねません。つまり、時間は限りある自分の命をそのものであると云えます・・・。

それは「砂時計」のように、毎日毎日、自分の持っている有限の砂を少しずつ落として生きている、というようなものかも知れません。それはいったん過ぎ去った時間を呼び戻すことも叶わぬことです。

私達が人間として此の世に生を受け、斯く存在しているということは、それ自体が尋常なことではありません。生きとし生けるものは全(みな)等しく、火・水・風(空気)・大地と、とめども尽くせぬ大自然の恵みを受け、またそれから生産される。衣・食・住に事欠くことなく自由に生活を営んでいます。これ等の事にただ感謝と喜びを抱くだけでなく、何かを以て報いようとする事は、人間が大自然の恩恵を受ける存在、それは即ち「かみのこ」として当然の義務であると思います。つまり、世の為、人の為に何かお役に立てるようにと願う気持ちが大切なのであります。

その願いを、仕事を通じて叶えることが出来れば、これは素晴らしいことではないでしょうか。

「少しでも世の中に貢献しなければならない」という使命感を以て事に当たれば、より大きな力を発揮することができ、生気に満ち溢れた意義ある人生を過ごすことが出来るものと確信いたします。

人生の旅すがらには色々な出来事が起こるものです。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいことや煩わしいこと、苦しいこと、辛いこと・・・数限りない出来事が湧いてくるものです。それを一つ一つ味わうだけの「心のゆとり」を持ちたいものであります。

斯く云う私も、十三歳の時から奉公に出された。故郷を発つ時の私の姿は、手織り木綿の着物、持ち物といえば「行李(こうり)」でした。その衣装もお袋の朝早く、夜遅くまでの賃仕事の合間を利用して、丹精込めて作ってくれた手織りの木綿であり、母の心づくしの、唯一の贈り物でした。これが私の六十年ほど前の故郷を出る時の境遇でした。

年期奉公、二十円とかで、旦那さんもお内儀(かみ)さんもよく私を使ってくれました。 明星を頂き夜星を見て大八車を引かされれました。 毎日辛い苦労の続く私でした。

「喰いたい」「あれも欲しい」「之も欲しい」「お金を貯めたい」という欲望は、貧乏な家に育っただけに人一倍強かった事は勿論でした。

故郷を発つ時に、親父が口癖を酸っぱくなる程言っていた。

「頑張るだぞ。辛抱しろよ。腹立てるな。泥棒だけはするなよ・・・・。」

と耳が痛くなるほど聞かされたのです。小ちゃな身体で頑張ったが何せ大八車に薪の山。それを舵取る事は並大抵ではない。おまけに道はでこぼこ道。前に進むのも「ソロリソロリ」と汗がこぼれる、腹が減る。ふと七、八人の高等科(現在の中学生)一、二年生ぐらいの生徒達が荷車の後ろに廻った。「これは嬉しい。車の後押ししてくれる」と思いきや・・・?「や、ヤァ。チビ、チビ小僧だぁ!ワァイ!」と言い乍ら、てんで荷車の後部にぶら下がったのです。

後ろが重くなったので、車を引く私は舵と共に宙に浮いて足をバタバタ「止めてよ、止めてよ!」と叫ぶのですが、一向に生徒達の変わる更るぶら下がる跪拝(きはい)に、流石の私も一寸の虫にも五分の魂と、舵から手腕を離し飛び降りて、腹立ち紛れに荷車の薪を一本抜いた、その瞬間「やぁ!チビ!怒ったぞ!!やっちまえ!!!」と反対に袋叩きになってしまいました。

「この奴ら!!!」の大きな声に気が付いた。起きて見ると、自転車を転がしながら人の良さそうなおじさんが、私のそばに寄って来ました。周囲を見ると、遠くの方に、蜘蛛の子を散らしたように生徒が逃げていく姿が見えました。

「ばかぁさっしやる。可愛そうに。怪我はなかったか」「うん、大丈夫です・・・。」

と、言ったものの右腕に血が滲んでいたり、足腰に痛さを覚えました。

「ありがとうございました。」と言いつつも涙拭き拭き荷車の舵を取ると、おじさんは親切に自転車を転がしながら大八車の後を片手で押してくれました。

「こんなに沢山積んで大変だなぁ。あぁ、何処のお店?・・・あぁ・・・○○○かぁ。大変だろうが、辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。じゃあ・・・おじさんはこの辺で。」

と云うので、うしろを振り返ると、もう親切なおじさんの姿は見えませんでした。 あの時の嬉しさは忘れることも出来ず、あの優しいおじさんのお顔も忘れることは出来ません。

それに一方「チビ小僧」と云いつつ、荷車も押してくれず、ぶら下がったりし、寄って集って袋叩き、押し潰された口惜しさは生涯忘れ得ぬ事と思ったものの、「今に見て居れ!僕だって見上げるほどの大木に、成って見せずにおくものか!!!」との信念を、この私に持たしてくれた人達だと思う時、あの生徒達を恨む処か、むしろ感謝しなければならないのだと思いました。

私の人生の旅はあまりにも過酷過ぎた。だが歩んで来た道にあったのであり、歩んだ道は東でもなく、西でもなく南・・・『皆見』てくれた処から北(来た)道にあったのです。

種々のことがあった・・・。

色々な出来事が、どう仕様もない、一層のこと死んでやろうか、などと思ったこともあったが、それは私を虐待したのではない、苦しめたのではない、又恥をかかせたのでもない。

全て、大自然からの慈悲心からであり、神よりの試練(おためし)でもあったとも思われます。足らずながらも、世の為人の為に尽くしたいとの生き甲斐と、神の前に積み上げた苦労の徳が現れてき来て、両親亡き後でも思い出して喜べる無形の徳。

果たしてそれは事実となって、今日私の恵まれた生活と立場があるのだと信じます。

徳さえ積んでおけば盤石の強さである。

徳は此の世の主人である。

必要な時に必要なだけ、お与え下さる神と共に生きる生活程強いものはありません。

栄枯盛衰、生死、喜怒哀楽を超えて、悠々と神の御心に添うて生かせて貰ってきました。

「辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。」の声が、今生、心に焼き付いている

                                  

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2007年2月11日 (日)

現代と神道 ~紀元節~

皇紀2667年おめでとう御座います。

本日、建国記念日(紀元節)の良き日を皆様と共にお迎えできましたことは誠に慶賀の極み、心よりお慶び申し上げます。

拙ブログに於いて、これまで幾度か「現代と神道」ということでエントリを書いて参りましたが、今回は「紀元節」、現在で言うところの「建国記念日」とはいったい何なのか、ということについて考えて参りたいと思います。

一言で「紀元節」について申し上げるならば、初代天皇であらせられる「神武天皇」が天皇に即位され、国を開いたとされる、その日であります。

つまり、今日のこの日は「神武元年の正月」にあたり、神武天皇の即位礼が行われたその日である、ということなのです。

そして神武四年の秋に行われた「鳥見山霊畤」「大嘗祭」にあたり、『日本書紀(神武紀)』には

『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天より降鑑(くだりみそな)はして、朕が躬を光助(てらした)すけたまへり。今諸の虜(あだども)既に平ぎ、海内無事(あめのしたしづか)なり。天神を郊祀(まつ)りて、用(もち)て大孝(おやにしたがふこと)を申べたまふべきなり。乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山に立つ。・・・略・・・用て皇祖天神を祭りたまふ。』

とあります。これは天孫降臨から始まったこの地上世界の統治がやっと形を成し、自らの御東征によって一頻り完了したことを、御祖先に対してご報告成されている様を表されていると思われます。

つまり、125代の今上陛下まで続く「御大礼(即位礼、大嘗祭)」の御代始めは、この『神武創業』に立ち帰る所作の現れであり、「皇祖皇宗の遺訓」即ち天照大神から神武天皇を通じて残された教えを国家経営の基本として受け継ぐための儀礼であり、祖先祀りの原型であると考えられます。

そしてこの「紀元節」「報本反始」即ち「神武創業」のその日に立ち帰る、日本人にとって大変意味のある重要な日であるのです。

ここで考えたいのは、「神武創業」はどのような物語であったか、ということであります。

以前にもこのシリーズで何度か『古事記』について取り上げたことがありましたが、やはりこの物語のルーツを求めるにあたって『古事記』が非常に重要な書物であるといえます。

その『古事記』について、平成10年に行われた国際児童図書評議会世界大会に於いて皇后陛下の御講演があり、その中に次のような御言葉があります。少し長いですが、抜粋しながら引用させていただきます。

・・・前略・・・

『私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語(注:古事記)を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は正確な史実ではないかも知れませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。』

・・・中略・・・

『この本(注:古事記)は、日本の物語の原型とも言うべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみを持つ上で、これは大層楽しい入り口ではないかと思っています。』

・・・中略・・・

『それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。』

・・・後略・・・

恥ずかしながら、私も常々「日本は『古事記』の国」と講演をする時などに申し上げるのですが、皇后陛下のこの御講演の御言葉からの受け売りであります。

「建国記念日」「紀元節」を考える時に、恐らく多くの人々は、なくてはならないはずの『民族の起源伝承』がスッポリと抜け落ちているのではないでしょうか・・・。

悲しいことに、現在この国で多くの場面で使われる暦は「西暦」即ち「キリスト教暦」なのであります。

が、しかし、日本は「聖書の国」ではありません。「古事記の国」であるはずなのです。

この「紀元節」に改めて、先人の残した教え・・・日本古来の在り方とその伝承が如何にして受け継がれているのか、我々日本人は考えねばならないと思うのです。

フィンランドの子供達は『カレワラ』を読んで育つ・・・ならば日本の子供達は『古事記』を読んで、もっと日本の神話に親しみを持ち、理解を深めることで自分たちの淵源を知ることで、自分達の生まれたこの国に愛着を持ち、そしてまた祖先祀りの大切さを知ることが出来るのではないでしょうか。

天皇陛下の御代始めの如く、自らの生に感謝し、自らを育んでくれたこの郷土に感謝する。そして、今のこの恵まれた時代を築いてくれた祖先に対しても自然と感謝の念を抱くことが出来るのではないでしょうか・・・。

そして、そんな未来を築くことが出来るのは、今の我々ではないでしょうか・・・・・・。

この「紀元節」に気分を一新して、

さぁ!皆さん!『古事記』を読んで、自分達のルーツを見つめてみませんか!!!

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2007年2月 7日 (水)

新年を迎えるにあたり(1月分会報より)

少し遅れましたが、先月の会報で新春の挨拶ということで書いたものです。

以前、拙ブログでエントリアップ致しました「繁栄と幸福への道」のシリーズの延長線上にある話という趣旨で書きました。

若干、宗教的な色彩が強いと思いますが、そのあたりはご容赦賜りたいと存じます。

新年を迎えるにあたり

新春を皆様と共にお迎えすることを得まして、誠に御同慶の至りとお祝い申し上げます。

新しいとはなんと素晴らしいことであろうか。自ずと新気が湧き、真気となり、神気漲る。

この素晴らしさは単に平面的に素晴らしいと謂うのではなく、過去幾万年という限りなきものからの繋がりある故の神秘なる素晴らしさで、「初日の出」の陽光の神秘も自己の魂の神秘を透して認識される。

正月は神代の偲ばるる月と云える。

故に、進歩躍進のテンポの激しい今日に於いても前進に心を致し、新たなるものを創造するかげに過去の重みと深さに根ざして、素晴らしい新たなるものが創造(つくり)出されるのかとも思われるこの清浄なる「安心(やすらぎ)」の日である元旦。

全ての人が元朝(このひ)の心を基として、ただひたすらに希望に輝いて日々を伸展していきたいものである。

人間(かみのこ)お互いに自己の心構のうちに、自己の鎮魂、大神を通じ、過去の長い歩みを温ねて、新年に信念込めて愈々と堅固なる感謝と祈りの誠を大神に捧げ、本年も重ねて御祈念をするものである。

然し乍ら、これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。

一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

人は常に気を凝らし、気を錬る稽古を充分にしておくことが大切であり、要するに各自に真の自覚というものがないと、しっかりとした人間観を持っていないが故、躓くと絶望してしまったりするものである。

茲に於いて、私達人間はこの点で大いに考えねばならぬと思うのである。

これは大自然が大調和をし、大宇宙が常に栄えている事を知(さと)る時、太陽の働きも地球の廻転も一年を通して同じである。暮れが来たからと云って、太陽がねじり鉢巻で東から西へ吹っ飛んだなどと、一度も見たこともなく、また聞いた試しもないのである。春、夏、秋、冬、陽々として、暢々と、唯ひたすらに光と熱をお与え下さっているのである。大自然、即ち神の道には少しも焦りがない。また歪いもなく、天地世界は一家として秩序整然と守られ生かされているのである。

それこそ、あらゆる国々の人々は大自然即ち神の分身であり、同胞であり、兄弟に等しく、同じ一つの空気を吸って吐いて生かされているのである。

一つの光と一つの空気、一つの慈愛の親の恵みによって、生かされているお互い人間であり、「大宇宙の昼夜休みなき恵み」によって生かさせて頂いているのである。それはつまり、自分で生きているという考えは誤信であり、錯覚であると云うことに他ならない。

私達人間はこの点でも更に考えねばならぬと思うのである。

それは、大自然の限りない恵みによって生かされている人間として、天と地に報ゆる心の道、心の目の開かない処に、現代社会の人間生活に何かと行き詰まりがあると思うものである。

大自然(かみ)の運行(はたらき)に添う心、神への奉仕観念の篤き人と家は、不思議と云ってよい程栄えている。思う事、為す事が順風に帆を上げた如くうまく伸展しているのである。

「何言うだぁ!」「恩もくそもあるものか!」「太陽が出るのはあたりめぇだ!」「今だ、チャンスだ!強いものが勝ちだ!」「早いものが儲かるのだ!」「とかく利益上げねば儲からない!」

・・・・・と集めねば、貯めねばという錯覚を持ってやっている人が、一時は儲けた様に、成功した様に見えるが・・・年限が経って五年、十年経つと、その家の親子、夫婦、兄弟の運命を鑑みたならば、ハッキリと精算が現れているであろう。・・・・人はこの世を、「金・物の世界」と勘違いをして居る人が多いのであるが、徳行なくして貯めた財は、貯まれば畜(たま)るほど、その人の運命は腐っていくものである。

地位の高い人も、その中へ入って親しくその内を見ると、地位や、金や、智慧でどうする事も出来ない苦労と、不幸の濁流が渦巻いている・・・。それは神理(かみのこころ)に添わないからである。

お互い人間生まれて来た時を省みて、誰一人として衣類を着けたり、お金を握って生まれ出た者はいないのである。

お互い素手で生まれて来たのである。

握らず、掴まず生まれさせられた一人一人である。それこそ生まれ落ちたは丸裸の素っ裸である。

持って来たのは金の玉二つ、貝がら一つの凹(ぼこ)と凸(でこ)との幸せである。

この相性は「陰」と「陽」で最高である。

が、これも使用一つ間違えると不幸となる。「性」も「色」も程々が安心であるが、それなのに欲をかいて持とうとするから良くない。・・・尤も人間は四生類や草木などより遙かに多くの自由の意志(こころ)を与えられている点にも、多々問題があると思われる。

人間は万物の霊長である故に、自分の意志を自由に働かせて、大宇宙の運行に型どり、種々のことを想像し、且つ行動することが出来る。

衣類にしても禽(きん)獣(じゅう)虫(ちゅう)魚(ぎょ)の類は皆自然に与えられていて、満足する外ないので、衣類のえり好みによる面倒は一切ないのであるが、人間は衣類、食べ物、住居、その他多くのものを制作するうえに於いて、自由意志を働かせ、それに伴う悲喜劇がついつい多く生じるものである。

従って人間の個別性と自由意志がからまる時、とかく個人的な欲望に負けてしまい、自由意志つまり「我が身かわいや」を働かせ過ぎ、反って自ら苦しめる破目になってしまうのである。

大自然(かみ)は永久(とわ)に生き栄え、豊かな存在であらせられるのである。

この地球上にある全てのもの。日々成長する万物。その悉く大自然の富であり、宇宙(かみ)は無限の豊かさを持っているのである。

私達人間はこの様な大きな富、大きな愛、豊かな宝物の満ちている中に生きているのである。

そしてそれ等は、咸(みな)神からのお恵みを授かっている。

人間(かみのこ)が自己の本性の尊さ知(さと)り、その尊い本性のままの智慧に依って、それ等の富を自由にすることも出来るのであるから、欲望に囚われず、また貧乏性にも陥らぬよう、豊かな心を持ってこの年も自信たっぷり敢然と起つべき事である。

自然の理法(めぐみ)とは昼夜野別をはっきりとし、然も永遠に変わらぬ働きであり、春夏秋冬歪(くる)いない幾万年、幾億年変わりない自然の恵み、それを動かす根本の力である。

この動きが人類を始め、あらゆる生命体に行き届いているので健康の身体で居られる。

然し、どれ程頑丈な身体の人でも、空気のない処へ行けばおしまいである。生き生きと茂っていた大木でも、土から掘り出した時、土はそのままであるのに樹の方は直ぐ枯れてしまう。

世の中には、神を私達人間と別々の様に考えて居られる方が多いように思うが、それは考え違いである。

神と我々人間は一体なのである。

よく考えて頂きたい。自然の理法(はからい)で創られ、守られているのをお気付きになる筈である。

我が心の着物である肉体の全てが、素晴らしい、見事な出来ではないか。

神(自然)の恵みほど素晴らしく、永遠なものはないと、今更ながら驚歎せずには居られない。

先ず、その顕れが一切の生命に「新陳代謝」の姿として顕れているのである。私達の身体の上について考えて視ても、脳髄の素晴らしい働き、目に見える運動、そして「耳」「鼻」「口」などの活動、「手の皮」「足の皮」の限りない消耗に対する不断の補充(おぎない)などを思う時、真実の人智で到底及ばぬ働きが、人のある限り、生きる限り与えられているのである。

この恵み、この働きは平等に、それこそ一秒の休みもなく、惜しみなく、お与え下さっているのである。

これが「親心」即ち「大慈大悲」の神理(かみのこころ)なのである。

従って心の着物である肉体全てが、神の守りである事に気付かねばならないのである。

更に私達、何人も、男も女も、此の世に生まれる以前より、自分で目的を起てて生まれてきた者は一人もいないはずである。

大自然(おやなるかみ)の摂理(はからい)で、自然の支配する永遠の天地を親として、生まれさせられ、守られ、生かされている。人間(かみのこ)であることを自覚せねばなりません。

然れば、人間(かみのこ)は親なる神の心を知って、大きく深く悟って、神が歓ぶ、社会を明るくする、人が助かる、神の理想の実現に文句も無しに、理屈も無しに各自の立場を通じて、精進努力することが、素直な神の子の道であると信ずるものである。

私達人類は傷ついた霊(みたま)、汚れた魂をあくまで磨き上げ、自己中心、物欲中心の人間(かたまり)の心を、敬神崇祖の念を体現し、御教示を求め、心の垢を洗い去り、且つ亦、御教示を心の糧として、如何なる事も天意(かみのこころ)が映ってくるような、明鏡の如き神心(しんじん)の本質を磨き出さねばならであろう。心一つの磨き方、持ち方に依って、如何なる神の恵みも頂ける道を大いに進行(すすみゆく)ことである。

新年を迎えて、腹の底よりおめでたいと自ずと慶ばずに居られないような、満たされた迎春。

「今年も神が私に生命をお授け下さっている」、私はそう思わずには居られない。

だから今、生命(いのち)があると云う事は「神が為さねばならぬ使命を与えて、私達に今年も生命を授けた」のだと信ずる。

此の御神意に添うて、唯ひたすらに希望の彼方に向かって正しく進む。生きて甲斐ある人生行路を波穏やかな良い波調に乗れる資格を得られ、安らぎの年が顕現なされますよう、自他共に祈ってやみません。

徳は此の世の主人(あるじ)と云われる。

従って、この「徳」のある家や人には何事も面白い程総てが運び行く。

即ち「運が良い」、萬事順調である。

それこそ「しまった」「損をした」「外れた」「悔しい」「痛い」「つらい」「苦しい」「悶える」等の病気や事件には御縁がないのである。所謂残念な事が一つも起こってこない。ついてくる子供もみんな素直、それこそ非行に走る子など一人も生じない。大自然(かみ)の繁栄(さかえ)と共に、家運は伸びて、栄える、そして太らせて頂き家運は隆盛になるのである。

本年も愈々と一家揃って徳行に励み、心の糧を充分にとって、心の健康を保持し、感謝の心を造る神への御恩報示あるのみである。

その道筋が進行であり、真行であり、信仰である。

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2006年12月24日 (日)

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

更新できなかった間に、少し古くなってしまいましたが先月の会報の原稿をアップしたいと思います。

時節的に少し遅れているかも知れませんがご容赦賜りたいと存じます。

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

 秋の長雨とか昔から言われる。

本当に良く降ったものだが・・・。

それでも雨が降り止むとやはり秋。天高く澄み空はさわやか、山野の紅葉も私達の眼を楽しませてくれたが、早晩秋ともなると、あれほど美しく錦秋を飾った山野草木も何となく色褪せてくる。

落ち葉ひらひら風に舞い、遙かに眺める霊峰富士の御山も白い烏帽子を頂き、秋はもう冬を宿しているのだろうか・・・。

あぁ、そう。そういえば朝露がキラキラと銀色に光って美麗なる霜を見た。

季節は間違いなく冬に向かっている。そう、目前に本年最終の月が迫っている。

「十二月は裁きの月だ」と我が師が言っていたが、間違いなく銘言である。

行き詰まり、倒産、サラ金、夜逃げ、家出、強盗(ぬすみ)、殺し、放火、心中、自殺・・・等々、傷ましい非業のニュースが今年の暮れも賑わうことと思える。

「十二月は反省の月でもある」と言われていたが、来月ばかりが反省月とは決まってはいない。大自然の運行に行き詰まりはないのに、小自然たる人間に行き詰まりがあるは不自然なことである。それは人間が小自然(カミノコ)として行くべき道を間違えているからであって「いやな暮れが来る」と嫌がっても、暮れを越さなければ楽しい正月も来ないのである。「雨はもういやだ」と叫んでみても降る雨は止まない。「冬は寒いからいや」と嫌っても冬は来る。

冬があればこそ陽春(はる)がある。

暑い寒いも、昼も夜も、花も嵐も、師走も元旦も、大自然(かみ)よりの贈り物と思えば、どうせ頂かなければならないそれらを喜んで頂ける「心の器」を平常作っておきたいものである。

人間萬事、平常の徳行が何よりも大切な事である。

「今年はきっと良い花を咲かせる。良い実(身)を求めたい構想を起てて出発した」

そんな年の初めの、お互い一人ひとりであった筈ではあるまいか・・・。

良い花を、素晴らしい実を稔らせるには良い因(タネ)を蒔かねばなるまい。

それは人生を豊にする善行の種子(タネ)である敬神崇祖を基とし、人々の社会への愛行の種である。

種を蒔いても発芽させるように努力せねば花も咲かない。良い実(結実)を求めたいにも拘わらず、世話を惜しみ、水もやらず、良い肥料を施さないというのでは、良い運命の花は咲かないのである。

この世の全てのものは限りのない自然(かみ)の恵みに守られ生かされていることを努忘れてはならない。

自然の恵みということが生かされるものの最大の「恩」ということになる。

例えば、今美しく咲いた菊の花も自分の力だけで育って咲いた訳ではない・・・。

人間然り。自分一人の知恵や力のみで生きて居るのではない。あらゆる御恩に依って生かされているのである。その御恩が「根」即ち「神、先祖、親」であり「元」其れ即ち「会社、店、師」である。

「根」と「元」を大切にする心の行いが「自然」即ち「神」の道に添うことである。

人も、家も、団体も、そして草木も・・・・・。

生命ある一切のものは大恩の道に繋がることを忘れ、「根」に肥を培う事を怠ったならば絶対に栄えることはない。「枯死」する他に道はあるまい・・・。現代の世相を見るに然りである。

日夜、夜毎に後を絶たない今日の暗い出来事、ニュースは世間を恐怖と不安に陥れている。

あぁ・・・悲哀なるかみの叫びを・・・これが萬物の霊長(おさ)たる人間の為せる業かと・・・。我、今八百萬の神々坐すこの国にあり、その神々の恩により生きる者として者として激しい憤りさえ沸いてきてならない・・・。

人間一人の生命は一朝一夕のものではなく、悠遠の歴史を経て初めて存在することが判る。だからこそ「一人の生命は地球よりも重い」とし、人権尊重とも謂う。この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性の、その偉大さに触れているからであり、それが心から納得できれば、大抵人はこの言葉を聞いた瞬間に自己の生命にかけがえがないということを考え、大生命(かみ)、或いは先祖への感謝の念は自ずと湧き出てくる筈である。

尚また、人類全ては何処かで血の繋がった同輩である事も理解でき、真の平和への願望の基点は、実に其処にあるのだと悟ることも出来よう。

しかし、平和は口で唱えたからといって訪れるものではない。

お互い生身の身体。軈ていずれは此の世を去らねばならぬからこそ、当てになるうちに心を磨き、自分を鍛え、己々生命を世の為、人の為に役立て、立派に生かし切りたいものである。

身体は神様からのお借り物。しかもタダである。契約書もなければ借用書一枚も書いた覚えはない。請求もなく無料で拝借し、こうして生かされて居られる身の有難さ・・・これを思う時、何を以て神恩に報いん。此の世の最高動物として生かされて居る以上、人間(小自然=カミノコ)として無意味に生きてはならない。自己の責任を反省しつつ、決意を込めて真の人間らしき行動でありたい。それは誰でも本来無上に尊く生まれているが故に、その本来の偉大性は失われることがないからである。

斯くして神への奉仕、一歩でも神に近づき身を清め、その御教示(みおしえ)を心の糧とする。

ご先祖の御霊には手を合わせ、神前に出れば心の誠を込めての礼拝、感謝の念を捧げる時、希望と励ましの生き甲斐が、自ずと見出されてくるものである。

人は本来「神の子」である。

故に大自然と共に、常に栄えねばならない。だから誰でも悠揚(ゆうちょう)と無邪気と、歓喜と平和そのものを味わってゆく事が出来る。

だがこれも凡人には一時的であり、真の道(=神の道)を行く人は永続的なものであろう。

・・・古来、どのような神社であっても共通して「報恩感謝」の念の大切さを説いてきている。

だが、現世の多くの人は自己中心的な考えに固まり、それが根源となり様々な問題を引き起こしている。もっとも愚かなことは人心の荒廃が色々な形で現れているが、先ずこれも「感謝の心」がないからである。

昔は「もったいない」「冥加に尽きる」などとの有難い言葉があったが、この節このような言葉は暫く耳に触れない。

物の総ても何一つとして自分の力だけで造り出すことなど出来ない。

全てが、人を生かす為に自然、神から恵まれたものから出来ている。そしてこれ等を完全に生かして使うことが、人間の働きをより高める基になるのである。

「困らないから」「豊かであるから」といって、全ての人が無駄遣いに慣れてしまえば、いずれ物資の欠乏を招き、人間生活に破綻が来ることにもなりかねない。

「物」が少ないから大切にするのではなく、「物」の「元」になる大自然の恩恵に対し、又、造った人の御苦労に対して感謝の気持ちがあるからこそ「物」を大切にする、とあるべきである。

覚えているが

今世は物質的に確かに恵まれたが、その恵まれた社会が「感謝」を失いつつある。

「感謝」どころか、自己の生命の本性の偉大さも何処にあるのか忘れ自尊を弁えない。

従って不平不満だけは、故に互いに交流し共通の文化と相互理解とを高める為の「時間」も「修練」も、「誠意」も失いつつある・・・。

それだけに我々は「貧しく」なったのである・・・。

さもあろう・・・。便利でスピード科学化した生活は反って味気なく、人間の心根をカサカサに乾かしては居るまいか・・・。

ボタン一つでご飯が炊けて酒に煙草、食料品も機械が売る。電車の乗車券も機械が売ってくれる。失業者が増えるのも当然といえよう。糠味噌を掻き回したり、漬け物を刻んだりするのは凡そ近代的でないと云う。果たしてそうであろうか・・・。

そう云われれば、都内には俎板のない家庭が多いんだとか、知人に聞かされた。

進む機械も科学も・・・総て人間を育てる為にあるものを、逆に人間が押し潰されては居まいか・・・。人と人との語り合いや、国と国との温かい呼びかけ合いや、湧きいづる人間味を、科学化した近代生活が遮断するのであれば、其れは近代の「進歩」ではなくて人間の「堕落」であり「悲劇」である・・・。

然れど待て・・・。人間が長期に渡って考え抜いた挙句に出来上がったのが現代の科学である。

目に見えぬ神の御援助は大なるもの。表面上は人間自身の努力の結晶である。「大自然(かみ)は科学という物をお与え下さっている」と思えば、文明の利器に対しても合掌の心が湧くであろう。だが云う。

予告無しにミサイルの発射は御免だ!!

あまりにも卑劣と云うものだ。隣の国に恐怖を与えて、其れで居て「何が悪い」とシラを切る。御免なさいの一言も言わない・・・。世界は一つと言われるが、斯くの如くに「情けない国」もある。読んで字の如く「情けない」とは「情」が「無い」ことである。古来より「情」のある人を「ぬくもり」のあるお方などと云われ「あたたかみ」に通じる。「情」のない国、従って「冷たい国」、俗に云う「恩(温)知らず」の国と云われても仕方あるまい。・・・さもあろう。物資(もの)が足りない、食料が無い、人民が餓死状態だと他国に救いを求め日本を始め各国からの援助を得られ、挙句の果てにミサイルまでも大量に出来たほど脹れたのは一体全体誰の御蔭かと言いたい。其処まで脹れるほどに出す方も出す方だが・・・。

だが然し、「恩」は「売るべき性質」ではない。けれど「恩」に報いる人、「恩」に報いる家、或いは国は必ず成功発展を視るであろう。今はむやみやたらに発射する程ミサイルを持って居ても、「情」のない国であったら必ず「情けない」と泣く運命の時が来るであろう。

「情」は「上」に通じて昇格を得る。

「情」は「丈」なり。「丈」なり上等の反物の長さよ・・・。

「情」は「成」に通じ、「情」ある人である故に成功する。

「情」は「盛」なり。繁盛する。

「情」は「常」に通じ、「常」に「ぬくもり」の心で周囲(まわり)の人達に接したいものである。常に思いやりの心、好意ある言葉、こういうものをいくら振りまいても損する訳でも減る訳でもない。

「人」と「人」の「間」を「人間」と云う。

その「人間」が社会を為している。お互い気持ち良い交際(つきあい)をしたいものである。

常に相手に対して良い感じ、温かい気持ち、平和な愉快な、何と無しに懐かしい、有難いと云う感じを与えたいものである・・・。

其れには洋々たる度量と臨機応変の才と縦横諧謔の才とが必要である。

人間誰しも自己の優秀を求むべきものである。先ず、自己を充実すべく努力するべきである。徒に虚名を博することを大なる恥とすべきである。志を高く持ち、若き日の自己を尊重し志を高く持つ者には「堕落」はない。晩年になって「我過てり」に気付いてももう遅いのである。若さは金で買えない。

昔、伊達政宗候が宮城・松島は瑞巌寺に参詣した折、其処の寺男をしていた男が寒い時期であったので、その履物である処の下駄を温めてあった事が政宗の誤解を招いた。短気で放翫な政宗が「予の下駄が温かいのはその男が尻に敷いていたに違いない」と思い、弁解の暇もあればこそ・・・その男の顔を下駄で蹴り上げ、額が切れた・・・。自分の親切が仇になった、寺男の無念さは察するに余りある。が、相手は殿様。どうすることも出来ぬ。その男は瑞巌寺から暇をとり、京都は嵯峨の天竜寺の寺男に住み込んだ。寺男をしながら仕事の中にも、しきりに和尚や他の僧達の言動に注意している様が尋常でないので、軈てその管長に愛され、専心に修行をした結果、禅の要諦に達したのである・・・。その上、位階も昇って遂に松島瑞巌寺の住職となって帰って来たのである。その間の困苦精励(こんくせいれい)がどんなで在ったであろうか。全く浮いた話どころではあるまい・・・。事情を知らぬ伊達政宗は新たに瑞巌寺に来た高徳の僧と云うので慇懃に迎えた。その時、新住職が政宗に大切そうに見せたのが、あえて自分の額を切られた下駄であった・・・。実にその新住職にとっては政宗に蹴られた下駄こそ何よりの宝である。この下駄が在った故に発奮したのである。誰であっても、寺男から瑞巌寺の住職になる程の困苦精励をするならば、今の世ならいっそう高所に昇れるであろう。この住職こそ有名なる雲居禅師のことである。

人間はいつでも自分に備わる無限の可能性を忘れてはならない。

その無限の可能性をどのようにして掘り出し、磨き立てるか・・・。

神は教えを通じ吾を力強く守り給う。

大自然の「根」「元」に添う道を歩み続けること・・・「情」ある人であり続けること・・・。

世の為、人の為に尽くし得る大人物に為さしめ給えと強く祈る。

神は必ずそれに答えて知恵を授け給うことであろう・・・。

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2006年11月 7日 (火)

繁栄と幸福への道 ~全文掲載~

繁栄と幸福への道

 人間の幸福を妨げているものはいろいろあると思うが、そのうち主なものは先ず病気心の悩み(心配事)、それに貧乏と云う事の三つであるように思われる。

 この三つのうち一つもない人があったら、その人はすでに「幸福な人」であるが、大抵の人がこのうち一つか二つ、或いは全部を持って苦しんでいるのではないかなどと思う事もある。

 いや、そういうことを言う自分自身、此の処健康を害して病院通いを繰り返していた私は、つくづく健康の優れないのを悲哀に感じたもので、「先ず人間は働かねば」と思っても、体調の優れない体ではその気力もなかなか出ない。

「食欲がない」「食べられない」「痛い採血」「苦い薬」「検査」・・・・。
病気には金持ちと貧乏人、地位の高低などの区別はない。
それこそ、医者の言うなりに、医者の言うことを「ハイ、ハイ」と信仰してしまう。
それも治ればよいが、働き盛りの若さで死んでしまう人もいる・・・。

 金のない者は、何かにつけ「金さえあればなぁ」などと思う。
確かに、実際は金さえあれば都合良く行く事が金のない者には沢山あるが、その「お金」がなかなか手に入らない。
 誠に四百四病の病より「貧」ほど辛いものはない・・・。
昔から「貧乏」である為に如何(どんな)に多くの悲劇が行われたかは言うまでもない。特に「貧乏」のうえに、「病気」や「心の悩み」が加わるとその人達の生活は、まさに此の世の地獄、かくて甚だしいのは無心の幼児を道連れに「一家心中」まで起こり場合もあり、そのような人の全てを先ず、「貧」から救い出す方法(てだて)がないかと思うものである。然し、不況の時代と見聞する。職を探しても職場はそうざらにある訳でない・・・。

 思うに現代の医学が日に、月に進歩しつつあることを喜ぶものであるが、だが然し如何(どんな)に行き届いた医療を受けても治らぬ、などと云う処を見ても、まだ現代医学では完全な治療効果をあげ得ないことであり、勿論医者にかかれぬ「貧乏人」の中には医者にかかれば治る人も居られるで在ろうが、そのような人を救い上げるとともに、全ての人を病人にする以前に、生涯健康で通させる方法はないものであろうか。
 然るに、お互い生身の身体(からだ)を持っている一人一人である。

 それにまた心の悩み、即ち心配事のある人は「この心配事さえなかったらなぁ」と思う。例えば「夫婦間の不和」「親子の不和」「親族との争い」「父または息子の酒乱」「息子の暴力」「浪費」「不良」「先天的な障害」「結婚難」「失業苦」「上役との不和」「借金の苦しみ」「事業の不振」等々、そういう心配事のある人は、その為に安眠も出来ず、毎日悲しみの日々を送るのであろう・・・。

 さて、これら三つの悩み、即ち「金がない」「病気」「心の悩み」とは、そのうちどれ一つあっても、その人は本当の「幸福の人」とは言えないのかも知れない。
 然し、今は科学が発達している時代である故に「心の持ち様」が損なわれている様に散見される。

 本来は科学の進歩同様、我々の考え方も進まねばならぬのではなかろうか・・・。
これら三つの苦悩を全て無くして、誰でも幸福に浸ることは出来得る道はないのであろうか・・・。

 その道がどのような道であるのか・・・。

これから皆様方と一緒に訪ねていくことにしたいと思います。

 想うに春は草木が芽を出し、軈て地上に色とりどりの百花が咲き乱れる。
夏は、草木がいずれも深い緑をたたえて力一杯の繁栄を誇っている。
秋は、草木が其の実を結んで収穫に忙しい。
冬は、草木が悉く枯死せるかと思いきや、この間に春への準備を整えている。

 斯くの如く、春夏秋冬の草木の秩序ある年々の営みの奥には、草木をして、このように在らしめる大きな宇宙の法則。即ち大きな生命の作用があるに相違ないことは、何人(なんびと)にも信じられる。かかる大生命の作用は、勿論、人間その他の生物にも其の作用を及ぼして、其の繁栄をなさしめているのであり、其の特色は其処に一切偏頗(へんぱ)が無いと云う事である。如何なる生物にも、如何に正しい者にも、正しからざる者にも、偏頗無く太陽の光と熱とを与え、雨を降らし、水を施し、空気を与えるのが、其の特色なのである。

 つまり万物と万人とを栄えしめるのが、大生命の作用であり、万物の間に大調和があるのもその為であられるので私達もまた、この大生命の作用に準じて、平生すべての人が栄えるように行動する事が、大生命の作用に依って生かされている人間として、最も正しい生き方である事を知らねばならない。

 これを実際生活に当て嵌めて言えば、すべて各国間が平和を欠き、或いは各個人間が調和を欠いて世の中が騒がしく、人々が不幸な生活をするようになる。其の根本原因は兎角、国家でも、個人でも身贔屓、利己主義が過ぎて、多と共に栄えようとする精神を欠くからであり、言い換えれば、大生命の等しく万物を栄えしめる心に背いている行いが、各国と各人の幸福な生活を乱す基となるのである・・・。

例えば・・・或る一団が共同で仕事をした。其の利益を一団が栄えるように分配し、使用すれば問題が起きない事が多い。然し、其れを誰かが、或いは銘々が、自分独り多くの分け前を取ろうとすれば、其処に不和が生じ、不幸が芽生えるのである。
この簡単な例によっても理解されるように、全ての人々が幸福に暮らす道は、常にすべての人が栄えるように各人が行動するにある、と云う事であろう・・・。

 例えば茲に素晴らしい科学の利益がある。其れを或る国が利用し、他国を征服する為に用いたとする。他国を征服する為に使用(つかう)事になれば、他国が脅威を感じて其処に不和が生じ、其の対策の為に・・・、それから其の国々の不幸、国民の不幸が生じる・・・。
 然し、其れ等を悉く自国と他国とが共に栄える為に使用する心構を持ち使用したならば、その為に幸福は大きく増しても、不幸が増す事はないであろう。
此の事は科学の発達に依り、一切の利益も、等しく万人を繁栄せしめる道に沿うて使わねばならぬと云う事を、大自然、即ち親なる神が教え給うものであろう。

 斯くて各国と、各個人が等しく幸福に栄える精神指導は、常に万人が共に栄える、宇宙の繁栄道に遵うに在りである。

 斯くの如く、科学の発達による便利をも含めて、あらゆる場面に於いて、前回に述べたような人々を幸福にする一大指導精神が発見されてくると自分が尊いこと、即ち「己」の大切さが分かってくる。
 そのような感性に目覚めた者は、万物を見る目がそれ以前とは違ってくる。
言わば森羅万象の全てを生命的に見る眼、大生命の個別的顕現「物事をはっきりと顕すこと」と見る眼が啓けたりするもので、其処に生えている一本の草や一本の木を見て「神格化」さえ覚えるようになるものである。

このことを我が師の言葉をお借りするならば「宇宙の繁栄道、大原則」であるという。

 「宇宙の繁栄道」とは?
目に見える現象界の奥にあって「現象界を斯くしめている」目に見えぬ宇宙の大法則のことである。それは永遠の過去から、永遠の未来にわたって日夜に万物を生じ、万物を育て、且つ万物を栄えしめつつ、然もその間に大調和在らしめている道のことである。
そのように全ての生き物をその胎内で育てている「宇宙」そのものは、生きているに相違ないと見るのが師の、そして私自身の着眼点である。
なぜならば、生き物は生き物からしか生まれないからである。
宇宙を大きな生物、即ち「大生命」とはこのことを指し、云うのであり、所謂人類は「小生命」である。
故に宇宙はそのまま大きな生命であって、その大きな生物の作用が万物を栄えしめているのであると、我が師、そして私は信じるのである。

 私達は「小生命」たる人間として、このような「大生命」の作用を端的に「宇宙の繁栄道」と、そう呼んでいる訳である。
従って私達のいう「宇宙の繁栄道」「宇宙の大法則」の事であり、所謂「大生命の作用」を云うのである。

 この宇宙間には斯くの如く、万人を繁栄、幸福に導く「一大鉱脈」が在る事を知った者は幸いである。自己の繁栄を希う者は、この道に帰一すれば良い、自己の健康を希う者もこの道に精進すれば良いのである。
この宇宙がそのまま一つの大きな生命である事を知り、人間を始めとして、万物は皆その大生命の胎内に生じている小生命であること。
言い換えれば、万物は皆、「大生命」の個別的顕現であることを理解し、「大生命」と「小生命」たる万物は一体である知り、悟るのがそれであろう。
その様な生命観、一体観を宗教的に把握するのを仏道では「悟道」とか言うが、それは科学的な教理や実験、推理に依らずに、その人の心身が浄化し尽くしている時に「パッ」と直感的に感じる、その体験体得が「悟り」であり、「所謂大生命と小生命とが一体になった事を感じた」その瞬間であり、まさしくそういった体験こそが、「惟神の大道(かんながらのみち)」で在るに相違ない。

斯くの如く小生命なる人間も尊い存在であるが故に、自分の心掛けに依っては、其処から素晴らしい智恵を幾度も引出し得る事も出来ると信じられよう。
世の多くの諸人達よ、これから志を立て万人を等し栄えしめんが為の着想につき、大生命の宝庫の鍵を開けられるべきであろう。
言うなれば、その時、その場に於ける、苦心と努力が神の御心、即ち「惟神の大道」に添うて居れば幸福に繋がって行く。そして不自然な自己本位の利己主義が、不幸の因(たね)となるのである。

 自然は正しく神の理(コトハリ=こころ)に添うて努力する者、精進する者、神恩に報いて感謝、奉仕する者には絶対に不利益な精算はしない。
正しい心に精算が現れ来て、心豊かに暮らせ得るのである。

以前、本報に寄稿した「苦は楽の種」という原稿があった。
その原稿の内容に対し、ある御仁から御質問を頂戴した。
「苦労」と一言に括っても「必要な苦労」と、そうでない言わば「しなくても良い苦労」と両方在るのではないか、そういった主旨であった。
そして更に質問は続き、「悦び」から人は成長できぬものだろうかと、そう仰っていた。
成程、確かにそうかも知れぬ、と一面ではそう思う。
然し、これは表裏一体のものでなければならぬとも感じた。

 「運命」とは、読んで字の如し「運んだ命」である。
お互い一人ひとり、心と身体が一つになって、一時間、一日、一ヶ月、一年と進めて通った道筋、過去からが「運命」である。

 また「因縁」という言葉がある。
言葉は違っても「運命」という言葉と同じものであろう。
「因縁」も「因」が心であって「縁」は年月、時間である。
この過去歩んだ道程が自己中心主義のものであるのが「悪運命」であり、「悪因縁」である。反対に、神恩に報い、親や社会の人の幸いを中心とした道筋の歩み方が「善運命」であり、「善き因縁」である。
「大生命」の偉大なる御徳を我が心として、他を活かす者は活かされ、他を繁栄せしめる者は自ら繁栄し、自己本位で他を繁栄せしめない者は自らも繁栄しないことは必然である。
神の御心を我が心とせず、自らの使命に叛く人は生活にも悦びがなく、感謝の心は更にない。自分だけの満足をひたすらに独占しようとして全ての愛を失い、その代償として苦しみは増すばかりである。
世の中に尽くしてゆくことが人生の意義であり、また私達は世の中から無限の恩恵を受けている。「共存共栄」、即ちお互いに与えあってこそ本来の世の中が成り立つのである。

 そしてこれは己のことばかりではない。このようにして作った「悪因縁」「天借(てんしゃく)」である。即ち自分のみならず、その家の子孫に受け継がれるものである。
本来、生まれてきた子供には何の罪も科もないはずである。
然し乍ら、生まれながらにして先天の病を持つ子が生まれたり、その子供が生まれ落ちて後に謂われのない暴力を受けたり、迫害を受けることもある・・・。
それはまさしく祖先や親、或いは宗教的に言う「前世」の残した「悪因縁」のもたらす「災厄」に他ならない。

 然し、反対に考えるのであればその生まれ落ちた子供はその「悪因縁」を払い、「天借」を返すことの出来る、その大きな力を、運命=因縁を持った子供なのである。
そしてその子供を大切に育てることに依って、またはその色々な苦労を背負ってしまった子供の場合は、酷であるかも知れないが自らの不断の努力に依って、自らの、更には子孫末代までの幸福、繁栄の道を模索せねばなるまい。
その為には与えられた命に対して心の眞底より感謝の誠を捧げ、与えられた艱難辛苦も神慮の試練として迎え、それらを悦びとして迎える心構を養うことである。

 今回のこの御質問は私自身の考察を深めるためにも非常に有意義な御質問であり、有難いものであった。この場をお借りして一言、御礼と感謝の念を表させて頂くこととする。

 現代は物質(もの)が豊富にあり、何でも簡単に手に入ってしまう世の中故か、与えられることに慣れてしまい、其の事に感謝の念を抱くことが出来ていない人達が多く見受けられる。
 恩恵は権利を主張して求めるようなものではない。其の人間の世の中に尽くす行為に対して自ずから与えられるものである。
労せずして得たようなものは、決して長くは身につかないばかりか、結果は元も子も無くなるであろう。行き詰まって人間は思案する。自分自身に良くないことと云う事が判れば直ちに不業績の心の持ち方を更える事である。そして結果が転換するほどの善い行いを積極的に断行することである。

 人間いくら理論が通り、頭が良くても、財産があっても大生命(かみ)の法則、即ち「大宇宙の繁栄道」に添わねば、運命的に負けて終いである。徳積とは過去の悪行が次第に消えていくものである。
 なるが故に、人間、即ち小生命(かみのこ)は天地自然の無限なる大愛に感謝し、自分以外の人の幸福の為に善根を施す徳を積む事の実践が大生命(かみ)より信頼篤く、御神恵多き、尊い人であり、このように人間の本性が最も尊いもの、善なるものであることを知る者は幸福である。

 以上私達はこれまでに、私達小生命は宇宙大生命と一体である事を知(さと)り、従ってまた、私達の小生命は本来、この大宇宙に鳴り亘るものであることも知(さと)った訳で、このことは言い換えれば、私達もまた宇宙の繁栄道の体現者であり、現世に於ける任務・・・即ち人生の目的は我々が現世にある間に宇宙の繁栄道を実践しつつ、万人と共に豊かに幸福な生涯を送るにある、ということである。
 斯くて私達の尊さは、宇宙間の万象をして、大生命の尊さと同じである、ということである。

 昔、お釈迦様が「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたそうであるが、若しこれが釈迦自らだけの事を仰ったのであれば釈迦は大変な独善家であろう。
 が、しかし、本当はそうではなく、釈迦は全ての人の本性が「天上天下唯我独尊」であると言われたのだろうと信ずる。それは釈迦が三十五歳の十二月八日に悟りを開いた時「我と大地有情と同時に成道(じょうどう)す」と仰った。
 この言葉は即ち釈迦が悟りを開いてみたならば、この世のありとあらゆる生命(大地有情)が悉く同時に成道している(自分と同時にそのままを本来悟っている)ことを知ったと云う意味であるが、その事実に依っても釈迦は全ての人の本性の尊さを知っていたものと察せられる。

 天照大神を始めとする八百万の神々においても、この世のありとあらゆる生命に対し偏り無くその尊い恵みを与え給う。また、天照大神からの御皇統を受け継がれる天皇陛下においては一年三百六十五日、日々欠かすことなく全人類の繁栄と幸福をお祈り下さっている。

 斯くの如く人間の本性が最も尊いものである。
 また、その本性が善であることを知る者は幸福である。

 昨今、親子間、家族間においていたましい事件が後を絶たない。

 昨年であったか、父親に馬鹿にされたと言って、十五歳の少年がその父と母を殺し、その上爆発物を仕掛けて遺体を消失しようとした事件があった。
 恐ろしい極みである・・・。

 子供を馬鹿にすることも迂闊に出来ない・・・。いや、父親は馬鹿にしたわけでは無かろう・・・。

 しかし、ここに於いて世の中の全ての両親(おや)は我が子の善なる本性を信じ、進んで我が子に惚れ込まねば成るまい。
 学校の成績がどうであろうと、いま如何に無能が現れていようとも、その本性は宇宙、即ち大生命と同じように尊くまた、他日に至れば万人の繁栄の為に尽くす者であると思えば粗末には扱えないと云うことである。

 私達は若き日の不良児や学業不成績の者が他日有用な人格になった、幾多の事実を知っているはずである。

 斯くの如く、子供の良き本性を開拓してやる道は、ただ親が子供の善性を絶対に信じて、それを常に言業(げんぎょう)に表すという、日夜の親の行いに依る。全ての親は心から子を愛し、それが立派な人物に成長するのを望み乍ら・・・。
 不良にしてしまわぬ為には、あくまで本性の善を見て、それを育み続けることであろう。若し子供に不良の兆しが見えたなら、尚更その子の善なる本性を見てその子を愛育するならば、その時は子供も必ず親孝行な良い子供に成長していくのであり、万一そのようにしても尚、子供が親に迷惑をかける場合、その子を責める前に、先ずその親が因果について反省すべきなのである。

 その為に親・・・全ての大人達はこれらの反省を活かし、困難に負けること無く、挫けることなく、明るい未来へと邁進すべきである。
 大生命には行き詰まりが無く、常に明るい希望、未来を惜しみなく我々に与えて下さるのである。神、そして両親に与えられたこの命、この身体で全身全霊を以て打ち込み、いざ世の為、人の為に楽しく、明るく起動させ、身命に従い徳業に邁進し、神から人として授かった五体、五感、五情、五味、考えれば手の指も、足の指も五本、これらを正しく、充足に働かせることが何よりも大切である。
 この事に気付き、心と身体を生き返らせ、新しい息吹の基に邁進する、その姿こそを子供に見せ、伝えていかねばならぬのである。それ即ち「宇宙の繁栄道」に沿って生きることに他ならない。

 それこそが繁栄と幸福への道であり、人として、親として、最大の財産作りとなっていくのである。

                                              了

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2006年11月 5日 (日)

繁栄と幸福への道 ~その4~

ここまで続けてきたこのシリーズも今回が一応の最終回となります。

かなり間隔が空いてしまいましたが、全四回を出来ることならば通して読んでいただけると幸いです。

繁栄と幸福への道 第四回

 以上私達はこれまでに、私達小生命は宇宙大生命と一体である事を知(さと)り、従ってまた、私達の小生命は本来、この大宇宙に鳴り亘るものであることも知(さと)った訳で、このことは言い換えれば、私達もまた宇宙の繁栄道の体現者であり、現世に於ける任務・・・即ち人生の目的は我々が現世にある間に宇宙の繁栄道を実践しつつ、万人と共に豊かに幸福な生涯を送るにある、ということである。
 斯くて私達の尊さは、宇宙間の万象をして、大生命の尊さと同じである、ということである。

 昔、お釈迦様が「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたそうであるが、若しこれが釈迦自らだけの事を仰ったのであれば釈迦は大変な独善家であろう。
 が、しかし、本当はそうではなく、釈迦は全ての人の本性が「天上天下唯我独尊」であると言われたのだろうと信ずる。それは釈迦が三十五歳の十二月八日に悟りを開いた時「我と大地有情と同時に成道(じょうどう)す」と仰った。
 この言葉は即ち釈迦が悟りを開いてみたならば、この世のありとあらゆる生命(大地有情)が悉く同時に成道している(自分と同時にそのままを本来悟っている)ことを知ったと云う意味であるが、その事実に依っても釈迦は全ての人の本性の尊さを知っていたものと察せられる。

 天照大神を始めとする八百万の神々においても、この世のありとあらゆる生命に対し偏り無くその尊い恵みを与え給う。また、天照大神からの御皇統を受け継がれる天皇陛下においては一年三百六十五日、日々欠かすことなく全人類の繁栄と幸福をお祈り下さっている。

 斯くの如く人間の本性が最も尊いものである。
 また、その本性が善であることを知る者は幸福である。

 昨今、親子間、家族間においていたましい事件が後を絶たない。

 昨年であったか、父親に馬鹿にされたと言って、十五歳の少年がその父と母を殺し、その上爆発物を仕掛けて遺体を消失しようとした事件があった。
 恐ろしい極みである・・・。

 子供を馬鹿にすることも迂闊に出来ない・・・。いや、父親は馬鹿にしたわけでは無かろう・・・。

 しかし、ここに於いて世の中の全ての両親(おや)は我が子の善なる本性を信じ、進んで我が子に惚れ込まねば成るまい。
 学校の成績がどうであろうと、いま如何に無能が現れていようとも、その本性は宇宙、即ち大生命と同じように尊くまた、他日に至れば万人の繁栄の為に尽くす者であると思えば粗末には扱えないと云うことである。

 私達は若き日の不良児や学業不成績の者が他日有用な人格になった、幾多の事実を知っているはずである。

 斯くの如く、子供の良き本性を開拓してやる道は、ただ親が子供の善性を絶対に信じて、それを常に言業(げんぎょう)に表すという、日夜の親の行いに依る。全ての親は心から子を愛し、それが立派な人物に成長するのを望み乍ら・・・。
 不良にしてしまわぬ為には、あくまで本性の善を見て、それを育み続けることであろう。若し子供に不良の兆しが見えたなら、尚更その子の善なる本性を見てその子を愛育するならば、その時は子供も必ず親孝行な良い子供に成長していくのであり、万一そのようにしても尚、子供が親に迷惑をかける場合、その子を責める前に、先ずその親が因果について反省すべきなのである。

 その為に親・・・全ての大人達はこれらの反省を活かし、困難に負けること無く、挫けることなく、明るい未来へと邁進すべきである。
 大生命には行き詰まりが無く、常に明るい希望、未来を惜しみなく我々に与えて下さるのである。神、そして両親に与えられたこの命、この身体で全身全霊を以て打ち込み、いざ世の為、人の為に楽しく、明るく起動させ、身命に従い徳業に邁進し、神から人として授かった五体、五感、五情、五味、考えれば手の指も、足の指も五本、これらを正しく、充足に働かせることが何よりも大切である。
 この事に気付き、心と身体を生き返らせ、新しい息吹の基に邁進する、その姿こそを子供に見せ、伝えていかねばならぬのである。それ即ち「宇宙の繁栄道」に沿って生きることに他ならない。

 それこそが繁栄と幸福への道であり、人として、親として、最大の財産作りとなっていくのである。

                                                  了

後日日を改めて、全文を一つのエントリとして掲載したいと思います。

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2006年9月14日 (木)

繁栄と幸福への道 ~その3~

今回で三回目を迎えたこの連載ですが、やっと当社の会報にも載せる運びとなり、八月の最終号から掲載し、連載の方はもう既に前回、前々回の分は掲載致しました。

次号では今回の分を掲載する予定であります。

また、掲載にあたって、第二回までの評判でなかなかの高評価を頂戴し、与えられたスペースが多くなった為、今回はここまでの三回の中で一番の長文となってしまいました。

読みにくいかも知れませんがどうか御容赦頂きたいと思います。

繁栄と幸福への道

 斯くの如く、科学の発達による便利をも含めて、あらゆる場面に於いて、前回に述べたような人々を幸福にする一大指導精神が発見されてくると自分が尊いこと、即ち「己」の大切さが分かってくる。
 そのような感性に目覚めた者は、万物を見る目がそれ以前とは違ってくる。
言わば森羅万象の全てを生命的に見る眼、大生命の個別的顕現「物事をはっきりと顕すこと」と見る眼が啓けたりするもので、其処に生えている一本の草や一本の木を見て「神格化」さえ覚えるようになるものである。

このことを我が師の言葉をお借りするならば「宇宙の繁栄道、大原則」であるという。

 「宇宙の繁栄道」とは?
目に見える現象界の奥にあって「現象界を斯くしめている」目に見えぬ宇宙の大法則のことである。それは永遠の過去から、永遠の未来にわたって日夜に万物を生じ、万物を育て、且つ万物を栄えしめつつ、然もその間に大調和在らしめている道のことである。
そのように全ての生き物をその胎内で育てている「宇宙」そのものは、生きているに相違ないと見るのが師の、そして私自身の着眼点である。
なぜならば、生き物は生き物からしか生まれないからである。
宇宙を大きな生物、即ち「大生命」とはこのことを指し、云うのであり、所謂人類は「小生命」である。
故に宇宙はそのまま大きな生命であって、その大きな生物の作用が万物を栄えしめているのであると、我が師、そして私は信じるのである。

 私達は「小生命」たる人間として、このような「大生命」の作用を端的に「宇宙の繁栄道」と、そう呼んでいる訳である。
従って私達のいう「宇宙の繁栄道」「宇宙の大法則」の事であり、所謂「大生命の作用」を云うのである。

 この宇宙間には斯くの如く、万人を繁栄、幸福に導く「一大鉱脈」が在る事を知った者は幸いである。自己の繁栄を希う者は、この道に帰一すれば良い、自己の健康を希う者もこの道に精進すれば良いのである。
この宇宙がそのまま一つの大きな生命である事を知り、人間を始めとして、万物は皆その大生命の胎内に生じている小生命であること。
言い換えれば、万物は皆、「大生命」の個別的顕現であることを理解し、「大生命」と「小生命」たる万物は一体である知り、悟るのがそれであろう。
その様な生命観、一体観を宗教的に把握するのを仏道では「悟道」とか言うが、それは科学的な教理や実験、推理に依らずに、その人の心身が浄化し尽くしている時に「パッ」と直感的に感じる、その体験体得が「悟り」であり、「所謂大生命と小生命とが一体になった事を感じた」その瞬間であり、まさしくそういった体験こそが、「惟神の大道(かんながらのみち)」で在るに相違ない。

斯くの如く小生命なる人間も尊い存在であるが故に、自分の心掛けに依っては、其処から素晴らしい智恵を幾度も引出し得る事も出来ると信じられよう。
世の多くの諸人達よ、これから志を立て万人を等し栄えしめんが為の着想につき、大生命の宝庫の鍵を開けられるべきであろう。
言うなれば、その時、その場に於ける、苦心と努力が神の御心、即ち「惟神の大道」に添うて居れば幸福に繋がって行く。そして不自然な自己本位の利己主義が、不幸の因(たね)となるのである。

 自然は正しく神の理(コトハリ=こころ)に添うて努力する者、精進する者、神恩に報いて感謝、奉仕する者には絶対に不利益な精算はしない。
正しい心に精算が現れ来て、心豊かに暮らせ得るのである。

以前、本報に寄稿した「苦は楽の種」という原稿があった。
その原稿の内容に対し、ある御仁から御質問を頂戴した。
「苦労」と一言に括っても「必要な苦労」と、そうでない言わば「しなくても良い苦労」と両方在るのではないか、そういった主旨であった。
そして更に質問は続き、「悦び」から人は成長できぬものだろうかと、そう仰っていた。
成程、確かにそうかも知れぬ、と一面ではそう思う。
然し、これは表裏一体のものでなければならぬとも感じた。

 「運命」とは、読んで字の如し「運んだ命」である。
お互い一人ひとり、心と身体が一つになって、一時間、一日、一ヶ月、一年と進めて通った道筋、過去からが「運命」である。

 また「因縁」という言葉がある。
言葉は違っても「運命」という言葉と同じものであろう。
「因縁」も「因」が心であって「縁」は年月、時間である。
この過去歩んだ道程が自己中心主義のものであるのが「悪運命」であり、「悪因縁」である。反対に、神恩に報い、親や社会の人の幸いを中心とした道筋の歩み方が「善運命」であり、「善き因縁」である。
「大生命」の偉大なる御徳を我が心として、他を活かす者は活かされ、他を繁栄せしめる者は自ら繁栄し、自己本位で他を繁栄せしめない者は自らも繁栄しないことは必然である。
神の御心を我が心とせず、自らの使命に叛く人は生活にも悦びがなく、感謝の心は更にない。自分だけの満足をひたすらに独占しようとして全ての愛を失い、その代償として苦しみは増すばかりである。
世の中に尽くしてゆくことが人生の意義であり、また私達は世の中から無限の恩恵を受けている。「共存共栄」、即ちお互いに与えあってこそ本来の世の中が成り立つのである。

 そしてこれは己のことばかりではない。このようにして作った「悪因縁」「天借(てんしゃく)」である。即ち自分のみならず、その家の子孫に受け継がれるものである。
本来、生まれてきた子供には何の罪も科もないはずである。
然し乍ら、生まれながらにして先天の病を持つ子が生まれたり、その子供が生まれ落ちて後に謂われのない暴力を受けたり、迫害を受けることもある・・・。
それはまさしく祖先や親、或いは宗教的に言う「前世」の残した「悪因縁」のもたらす「災厄」に他ならない。

 然し、反対に考えるのであればその生まれ落ちた子供はその「悪因縁」を払い、「天借」を返すことの出来る、その大きな力を、運命=因縁を持った子供なのである。
そしてその子供を大切に育てることに依って、またはその色々な苦労を背負ってしまった子供の場合は、酷であるかも知れないが自らの不断の努力に依って、自らの、更には子孫末代までの幸福、繁栄の道を模索せねばなるまい。
その為には与えられた命に対して心の眞底より感謝の誠を捧げ、与えられた艱難辛苦も神慮の試練として迎え、それらを悦びとして迎える心構を養うことである。

 今回のこの御質問は私自身の考察を深めるためにも非常に有意義な御質問であり、有難いものであった。この場をお借りして一言、御礼と感謝の念を表させて頂くこととする。

 現代は物質(もの)が豊富にあり、何でも簡単に手に入ってしまう世の中故か、与えられることに慣れてしまい、其の事に感謝の念を抱くことが出来ていない人達が多く見受けられる。
 恩恵は権利を主張して求めるようなものではない。其の人間の世の中に尽くす行為に対して自ずから与えられるものである。
労せずして得たようなものは、決して長くは身につかないばかりか、結果は元も子も無くなるであろう。行き詰まって人間は思案する。自分自身に良くないことと云う事が判れば直ちに不業績の心の持ち方を更える事である。そして結果が転換するほどの善い行いを積極的に断行することである。

 人間いくら理論が通り、頭が良くても、財産があっても大生命(かみ)の法則、即ち「大宇宙の繁栄道」に添わねば、運命的に負けて終いである。徳積とは過去の悪行が次第に消えていくものである。
 なるが故に、人間、即ち小生命(かみのこ)は天地自然の無限なる大愛に感謝し、自分以外の人の幸福の為に善根を施す徳を積む事の実践が大生命(かみ)より信頼篤く、御神恵多き、尊い人であり、このように人間の本性が最も尊いもの、善なるものであることを知る者は幸福である。

  つづく・・・

補足:この文章の高評価を頂いていることに際しまして、今回の文章を書くきっかけを下さったmergeさんに心より感謝の辞を述べさせて頂きたいと存じます。

mergeさん、本当に有難う御座いました。

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2006年9月 3日 (日)

現代と神道 ~その4~

 さて、前回の続きです。

今回でイザナギノミコトとイザナミノミコトの黄泉の国禊ぎ祓いの行も最終回です。

 黄泉の国からやっとのことで逃れて国へ帰ったイザナギノミコトは次のように洩らしたのでした。

「思えば私は、なんて厭な、醜い、汚いところへとわざわざ出向いたしまったのだろう・・・。私の身体はすっかり穢れてしまった。この身体を『禊ぎ』して清浄にせねばならない・・・。」

そう言うと「筑紫の日向の小戸の阿波岐原(ツクシノヒムカノオドノアハギハラ)」において穢れた身体を浄めるための「禊ぎ祓い」の儀式を行うことにしました。

 まず最初に手にしていた杖を投げ捨てると、その杖は黄泉比良坂に突き刺さり、「この禍に近づくな」というツキタツフナドノカミが生った。次に帯を解いて投げ捨てると、道中の安全を守る、場合によってはそこに危険をもたらすミチナガチハノカミが、次に腰の下に巻いていた裳を投げ捨てると、「死穢」を解き放つ、またはそこへ解き置くというトキハカシ(トキオカシ)ノカミが、次に上に着ていた衣を投げ捨てると、禍から免れた、または患いを内包するというワヅラヒノウシノカミが、次に褌を投げ捨てると、衢を守り、または分かれ道の迷い神と云われるチマタノカミが、次に冠を投げ捨てると、「穢れ」が明けたことを示す、または「穢れ」を内包するアキグヒウシノカミが、更に左手に纏いた玉飾を投げ捨てるとオキザルノカミオキツナギサビコノカミオキツカヒベラノカミという、海の沖、渚、その中間の海を守り、または禍をもたらす三柱の神が、右手の玉飾を投げ捨てるとヘザカルノカミヘツナギサビコノカミヘツカヒベラノカミという水平線を守り、または禍をもたらす三柱の神が生まれました。

それまで身につけていたものを全て脱ぎ、または外すことに依って、そこに付いていた「穢れ」と、その穢れが付着していたイザナギノミコトがお召しになっていた「着物」から「禍」とその禍から「守ったり」、それを「直す」両面を持ち合わせた、十二柱の神々が生まれたのでした。

 こうして全てを脱ぎ捨てたイザナギノミコトは朝日にきらめき輝いている海面に眼をやると
「上の瀬は潮の流れが速い。下の瀬の方が流れが緩やかだ。」
と呟き、中の瀬のあたりにザブンと飛び込み、冷たい海に潜り、身体に水をくぐりながら洗い清めて行くのでした。
その時生まれた神の名は八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)次に大禍津日神(オオマガツヒノカミ)でありました。この二柱の神は、かの醜い黄泉の国に行った時に、身体に付いて来た「穢れ」が基となって生まれ出た神でありました。
この「穢れ」を直そうと、次にイザナギノミコトの身体を伝い流れる水から生まれたのが神直毘神(カムナホビノカミ)、次に大直毘神(オオナホビノカミ)でありました。
そしてその「穢れ」が濯ぎ落とされ清らかになったことを示すイズメノカミがお生まれになります。

 そしてもっと深く潜られ、底へとたどり着いたときにお生まれになった神の名は底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)底筒之男命(ソコヅツノオノミコト)浮き上がってくる途中でお生まれになった神の名は中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)中筒之男命(ナカヅツノオノミコト)、海面に近づいたときにお生まれになった神の名は上綿津見神(ウハワタツミノカミ)上筒之男命(ウハヅツノオノミコト)、いずれも海路や港を守る神であります。
そしてこの三柱のワタツミノ神は朝廷に海の幸を献上していた阿曇連(アズミノムラジ)の祖先と言われています。
また、三柱のツツノオノ命は墨江、後の住吉大社の祭神であり、ここから全国の住吉神社へとお祀りされるようになりました。

 そして、やっと海面に顔を出したイザナギノミコトが左の眼を洗うと天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、次に右の眼を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)が、最後に鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)がお生まれになったのです。

ここにお生まれになったヤソマガツヒノ神からハヤスサノオノ命までの十四柱の神は、身体を洗い清めたことによって生まれ出た神でした。

 ここに於いてイザナギ大神は心から歓喜の声をお上げになり、次のように言いました。

「私は次々と子供を生んできたが、その最後にやっと、三柱の世にも尊い子供達を得た。」

そう言うと頸に掛けていた玉飾を手に取り、きららかな音色を発しゆらゆらと響くそれを天照大御神に手渡すと、

「お前は私に代わって高天原(タカマノハラ)を治めよ。」

そう命じ、天照大御神は仕事を請け負ったしるしに、その玉飾を賜りました。その玉飾を御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)といいました。
次に月読命には、

「お前は私に代わって夜之食國(ヨルノオスクニ)を治めよ。」

そう命じ仕事を任せられました。
次に建速須佐之男命には、

「お前は私に代わって海原を治めよ。」

そう命じ、仕事を任せられました。

こうして全てが三人の御子達の手に委ねられたのでした。

さて、ここでやっとイザナミノミコトの死後、黄泉の国へと赴き、それを追って行ったイザナギノミコトが現世に戻り、「禊ぎ祓い」を行い、「三貴子」と呼ばれる日本の八百萬と云われる神々の中で最も尊い神様をお生みになり、そして自らの跡継ぎとして「事依さし」された、というわけです。

前回の分から余談もいくつかあります。
例えばイザナミノミコトが黄泉の国で作った食事を取ったが為にその一員になってしまったことは「同じ釜の飯を食う」の語源になっていると言われていたり、イザナギノミコトが櫛の歯を折って火を灯したことで不吉なものを見てしまったことから「折れた櫛は使うものではない」なんてことが言われる様になった、なんて言います。それと今回、「三貴子」をお生みになった後、古事記の原文においてイザナギノ「命」がイザナギ「大神」と呼称が変わるのですが、それは跡継ぎをお生みになって御隠居されたから、などとも言われます。

それはさておき、ここでここまでの一連の流れで私はあることを思います。

それはイザナミノミコトの死後、その悲しみを忘れることの出来ないイザナギノミコトはそれを追って黄泉の国へと赴かれました。
それは妻を愛するが故の行動であり、その妻が死んでしまったその悲しみや心の隙間を埋めることが出来なかったが故の行動であると思うのです。
その悲しみは黄泉の国へと向かう前に「殯(もがり)」をしていた時点でも明らかだった訳ですが、それでも彼の気持ちは収まらなかった、ということです。

これは現代に於いて考えてみても似たような事例は在るのではないでしょうか・・・。

先日、私のごく身近な方がお亡くなりになりました。
その方はもう、齢八十も数えられ、今年に入ってからというもの入退院を繰り返されていました・・・。
そしてつい先日、お亡くなりになったのですが、お亡くなりになったとき、周囲の方々(特に余り近くないご親族の方々)は

「もうこれだけ生きて、最後は病んで苦しんだのだからもう大往生だ。あんまりメソメソ泣いてちゃいかんだろう。」

と仰っていました。が、奥様やお嬢様はとても悲しまれていらっしゃって、そんなとても「大往生なんだから・・・」というような言葉を掛けられる、そんな状況ではありませんでした。

いくら年を取っても、「大往生」と周りから言われても、身内のものが悲しいと思うのは当たり前のことであり、或る意味当然のことなのだと再確認しました。

この方の葬儀は「神葬祭」で行われ、私は祭主としてお務めさせて頂きましたが、どんな葬儀もそうですが、亡くなった方の「人柄」が垣間見えるものなのです。
それは「人」が「命(みこと=神)」になっていく過程でどれだけの「想い」を背負って行けるか、神となるに相応しいだけの徳があるのかどうか、ということでもあるのではないかと感じます。

少し話が横道に逸れましたが元に戻したいと思います。

人の死はどんな状況で在っても悲しいものですが、その後の様々な悲しみや苦しみ、辛い、哀しいという思いを乗り越えてこそ、何か新しい、大切なものが生まれてくるのではないでしょうか。

イザナギノミコトは黄泉の国で散々な目に遭いました。
しかし、そこで身につけてきた「穢れ」を禊ぎ、祓い清めると禍神が生まれ、それらを正す神が生まれ、そして最後に自らの跡継ぎとも言うべき「三貴子」がお生まれになった・・・。

人の死が様々な「争い」や「諍い」を生むこともあることでしょう・・・。
しかし、それを正す行いも生まれることでしょう。
そして、その亡くなった方を偲び、想いを馳せることで、その方が残してくださった尊い「教え」「御言葉」を思い出すことも出来るでしょう。

その「教え」「御言葉」から自らが迷ったとき、その迷いを晴らしてくれる、進むべき道を指し示して下さることもあるでしょう。

前回、「生命の縦の繋がり」、即ち「Eternal  Life」と書きましたが、そんな「永遠に続く生命の連鎖」も生まれてくるのではないでしょうか・・・。
そしてその連鎖を断ち切らない為にも、我々は後世を生きる者達に何を残さねばならないのでしょうか・・・。

そして我々は先人が残して下さった尊い「教え」や「御言葉」から何を学ぶべきなのでしょうか・・・。
それらを学びとることが出来たのなら、それを受け継いでいかねばなりません。

そして・・・・・私達は護らねばなりません。

この国の歴史を・・・伝統を・・・。
この国の美しい国柄を・・・。

そして「死」の悲しみを乗り越えることで我々は何を得ることが出来るのか・・・・。

現代における様々な問題も先人が残して下さった「教え」や「御言葉」の中に答えが見つかることもあるでしょう。
私はブログでも良く申すことなのですが、
「温故知新」
今、その意味を深く、そして真剣に考えるときなのではないのだろうか・・・そんな風に思うのです。

でもそれは、そんな難しく考えることでもないと思うのです。
まずは身近なところから始めてはいかがでしょうか。
もう、お盆は過ぎましたが、今からでも遅くはありません。
今年行かれた方も、行かれなかった方も、御先祖様のお墓参りから始められてはどうでしょうか?
別にご自分の御祖先ですから、お盆に限らず、いつでも、毎月でも行かれるのが良いと思います。

だいぶ時機を逸してしまいましたが(反省)、皆さん、今年のお盆はどうでしたか?

今回はメチャクチャ長文になってしまい、読みにくかったことと思いますがどうかご容赦ください。

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2006年8月28日 (月)

現代と神道 ~その3~

 さて、前々回の続きです。

 どうしてもイザナミノミコトを忘れることの出来ないイザナギノミコトは黄泉の国まで逢いに行きます。

 黄泉の国・・・そこは死者の国です・・・。
 生きた者が来るのを堅く拒んでいる・・・。

 その御殿は冷たい扉が現世との間をしっかりと塞いでいました。

 しかし、愛する夫イザナギノミコトが遙々、このようなところまで訪ねてくれたことを知り、妻であるイザナミノミコトは扉のところまでやって来ます。

 すると、扉越しにイザナギノミコトが優しい声で
「あぁ、愛しい我妻イザナミよ・・・。私とお前が創った国はまだ形を創っただけではないか・・・。まだ完成したわけではない・・・。私にはまだお前の助けが必要なのだ。どうか私と一緒にもう一度戻ってきてはくれまいか・・・。」

 この呼びかけに対し、イザナミノミコトは次のように答えました。
「あぁ、愛しい我が夫よ。何故もっと早く来てくださらなかったのですか・・・。私はもうこの黄泉の国で、不浄な火と水で炊いた食べ物を口にしてしまいました・・・。私の身体はもう穢れてしまった・・・。それでも愛しい我が背の君(女性が兄、夫、恋人を呼ぶ時に使う言葉)が、わざわざ私をお迎えにおいでになったことは嬉しくて堪りません。私はなんとしても帰りたいと思います。ですからこの黄泉神達に相談をして帰っても良いか、お伺いを立てて参ります。ただ、その間はどうか、私の姿はご覧にならないで下さいませ・・・。」
そう言って御殿の中へと戻って仕舞われました。

 言われた通りに扉の前で佇み、お待ちになるイザナギノミコト。
しかし、いくら待っても愛する妻は戻ってこないのです。
待ちかねたイザナギノミコトは約束を破って扉の中へと入っていく決意を固めました・・・。

その扉の中は真っ暗闇で、イザナギノミコトは角髪にゆったその髪を留める爪櫛を手に取り、その櫛の1番大きな歯を折り、そこへ火を灯し、暗闇の御殿の中を中を先へ、先へと進んでいきました。

その乏しい光に照らされてようやくイザナミの姿が眼に映りました・・・・が、なんという有様なのでしょう!!!

 それはかつて自分が知っていた、愛する妻とは思えない・・・、身体中に小さな蛆がたかりクネクネと動き、至る処から膿がドロドロと流れ出している身体でした・・・。
 さらに、愛する妻の身体・・・その頭からは大雷(オホイカヅチ)が、その胸には火雷(ホノイカヅチ)、その腹には黒雷(クロイカヅチ)、陰処(ほと)には拆雷(サクイカヅチ)、左手には若雷(ワキイカヅチ)、右手には土雷(ツチイカヅチ)、左足には鳴雷(ナルイカヅチ)、右足には伏雷(フシイカヅチ)という都合八柱の雷神がおどろおどろしく、愛する妻の、・・・その腐り果てた身体から生まれていたのです・・・。

 さすがのイザナギノミコトもその有様を見て、恐怖に凍りつき、恐れおののきながら一目散にそこを逃げ出しました。
その逃げていく愛する夫の姿を見たイザナミノミコトは

「あなたという方は・・・。私の恥ずかしいこの有様をご覧になりましたね・・・。」

 そう口悔しげに叫び、黄泉醜女(よもつしこめ=黄泉の国の醜い女神)達に命じ、その後を追いかけさせました。
イザナギノミコトは一生懸命逃げましたが追いつかれそうになり、自分の髪を留めていた鬘(かずら=髪を留める冠)を後ろに投げ捨てました。
すると地に落ちた鬘から葡萄がなり、腹を空かせた黄泉醜女はその実を奪い合って食べ始めたのです。その間にイザナギノミコトは遠くへ逃げることが出来ました。

 しかし、その葡萄の実を食べ終えると黄泉醜女達は再び追い始め、また危なくなりました。今度は、さっき歯を折って火を灯した櫛を再び髪から外し後ろへ投げました。
すると地に落ちた櫛がタケノコとなり地面からニョキニョキと生えました。
黄泉醜女達がそれを食べている間にもっと、もっと遠くへ逃げることが成功したのです。

一方、イザナミノミコトは更に怒り狂い、自分の身体から生った八柱の雷神達に命じ、黄泉の国の軍隊をつけ夫の後を追いかけさせます。
雷神と大軍に迫られたイザナギノミコトは十拳剣(とつかつるぎ=長さが拳十個分の意)を抜き、黄泉の軍隊を振り回しながら追い払い、遠くへ逃げていきました。
それでも追っ手は追跡をやめませんでしたが、とうとうイザナギノミコトは黄泉比良坂(よもつひらさか=黄泉の国と現世との境とされる)の麓までたどり着きました。
そして、その坂の麓にあった桃の実を三つ取り上げ追っ手に向かって投げつけました。
するとその勢いに追っ手の者共は恐れをなし、悉く逃げ帰って行くのでした。

大変な危機から逃れたイザナギノミコトは桃に向かってこう言いました。
「お前は今、私を助けてくれた。この国に住むありとあらゆる命健やかな人達が、もしも辛い目に遭って苦しむようなことがあったら私と同じように助けてやってくれ。」
そしてその桃に「意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト=大神の実)」というなを与えました。

一方、追跡が失敗に終わったことを知ったイザナミノミコトは最後に自ら、夫の後を追ってきました。が、イザナギノミコトは「千引石」という千人力でやっと動かせるほどの大岩を黄泉比良坂の中央まで引きずってきてそこへ置き、その出入口を塞いでしまいました。
そしてその岩のところまでやって来たイザナミノミコトに向かって、イザナギノミコトは岩を挟んだ状態で事戸(これを限りに契を解くこと=離縁宣言)を申し渡しました。

この言葉を聞いたイザナミノミコトは
「愛しい我が背の君よ・・・。あなたは約束を破って私を辱めました・・・。私はあなたを許しません。その仕返しにあなたに国の人々を一日に千人ずつ絞り殺しましょう。」
これに対してイザナギノミコトはこう答えたのです。
「愛しい我妻よ・・・。確かに私はお前を辱めてしまった・・・。だからお前がそのような非道なことをするのであれば甘んじて受けよう・・・。だが、私の方は一日に千五百の産屋を建て、子供を産ませることにしよう。」

このような誓いがあったので、この国の人口はこれ以降、一日に五百人ずつ増え続け、現代に至ると云われています。また、この誓いに於いて「死」を司る立場となったイザナミノミコトのことを「黄泉津大神(ヨモツオホカミ)」とも言われる様になりました。

 さて、長い前置きでしたが、ここまで「古事記」の内容に触れてきて、今回は一つの事柄についてだけ考えてみたいと思います。それ以外は次回「イザナギノミコトの禊ぎ祓い」で触れたいと思います。

 今回はこの最後の行。イザナギノミコトとイザナミノミコトの事戸、「離縁宣言」の部分について触れたいと思います。

 ここではイザナミノミコトが辱められたことに対して怒り、そして悲しみ、その憤りからイザナギノミコトの国の民を一日に千人ずつ殺す事を明言します。
そこには、この世に「生」を受けた者はいつか必ず「死」を迎えるという生命の終わり、つまり「死の原則」が隠されているように思います。
また、イザナギノミコトはそのイザナミノミコトの憤りを、怒りを受け入れ甘んじて受け入れるという姿勢(この意訳には賛否両論ありそうですが)を以てその「死の原則」を受容し、我々人間がその「死」への唯一の対抗手段とも言うべき「子孫を残す」という行動に依って「死」というものの恐怖から解放され、より我々が繁栄をするための道を指し示しているように思うのです。
つまり、それは「生命の縦の連鎖」であり、太古の祖先から現代を生きる我々まで広遠と繋がる「Eternal Life」なのではないでしょうか。

「死」、それは恐るるにも足らぬ事である。
我々は子孫を残し、我々が築いてきた伝統や文化、歴史を受け継いでもらうこと。
それによって我らの生きた証、道統を残せるではないか・・・。

そんな風に、先人達が言っているように私には聞こえるのです。

 しかし、現代は「男女共同参画基本法」に代表される「フェミニズム」「ジェンダーフリー」などという、人間が本来、生得的に持ち合わせている役割を無視したような思想や社会状況が推進され、特に「女性の社会進出」が声高に叫ばれています。
 この「古事記」のこの項における教えの一つとして、男女の役割を必要以上に変えることなく、生得的に神様がお与え下さった役割や立場などを尊重し、お互いが助け合い、そのバランスを均等に保つことが重要なのではないか、と感じるのです。

 そして今、この日本では「少子高齢化」が加速的な早さで進行し、遂には「人口の減少傾向」が起こり始めました・・・。

 私は女性の社会進出を拒むわけではありません。また、『所謂「大和撫子」を手本とし、女は控えめにして男を立てろ』などと言うつもりも毛頭ありません。
 しかし、女性の方でも社会進出をすることよりも専業主婦を望む方も多くいらっしゃると思うのです。(私の妻もその一人です。)
それなのに、俗に言う「フェミニスト」の方や「ジェンダーフリー」を推進される方々は勿論ですが、現政府の政策の在り方までもが・・・・・と感じてしまうのです。

 このまま「女性の力」(黄泉津大神=イザナミノミコトの力)があまりにも強くなって行ってしまうと・・・・・。
 少子化は解決できないのではなかろうか・・・・・そんな危惧を抱いてしまう、今日この頃です。

   つづく・・・・・

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