2008年4月18日 (金)

環境問題と神道文化

前回の更新よりだいぶ日が経ってしまいましたが、以前の主人の講演趣旨をまとめた原稿をそのままですが掲載させて頂きます。

「環境問題と神道文化-地球環境の危機に直面して、神道文化はどのような打開の方途を示すことが出来るか-」

現在、環境破壊は地球規模で様々な兆候を見せ、人間の存在そのものに容易ならぬ事態を引き起こしている。18世紀西欧で起こった産業革命に起因する啓蒙主義から発した人間中心主義が、近代の世俗的科学技術文明の物質的繁栄をもたらす一方で、現代の深刻な環境破壊に至る根本原因となり、その状況は刻一刻と悪化し続けている。

依然として世界経済の開発動向を支配しているこの価値観を軌道修正するには、先進と後発の諸国が共有できる環境倫理を目指すことが必要となってきているが、これまで環境問題に対してとってきた様々な対応は、あくまで科学技術による対症療法的対応であり、根本的な解決には至っていないのが現状である。

スウェーデンの哲学者アルネ・ネスは科学技術の力によって対症療法的に解決を図る(Shallow Ecology)のではなく、生態系を心で理解し、それまでの物質的繁栄重視の発想から転換を図るべく、深く、徹底的に生態系保全に努めるべきであるとした“Deep Ecology”という概念を示した。つまり科学技術で何とかしようという発想だけでは環境は守れない、人を支えている生態系を豊かにするためには人間以外の生命も含むすべての命に尊厳を認めるべきだという「生命圏平等主義」を主張したのである。

この概念は当時、聖書宗教の世界観を持つ西欧各国では非常に斬新であり大変な衝撃となったが、東アジアでは例えばそれは仏教における「殺生戒(Ahimsa)」という概念や、ジャイナ教などはこの不殺生を徹底して目指したということなどからも、こういった発想は極めて一般的なものであったといえる。しかし、我々は食事など他の生命を奪うことなくしては命を繋ぐことができないのもまた事実であり、宗教的な矛盾を常に抱えていると言える。それは農耕社会に生きる我々日本人にとって穀物、特に米は生命線であり、我々は生きるためにその「稲」という生命を摘まねばならない宿命にあるということである。

神道では「敬神崇祖」と「鎮魂」という概念がある。我々は祖先から生を享け、万物から生かされているという発想、つまり生と死とを通じた生命の霊的連帯の中で自然や人間の霊性を神とも祖先ともして祀り鎮める営みである。それは神道文化が持つ生命観であり生命連鎖という生態系、つまり自分の命を次の世代に引き継ぐことの大切さが見えてくる。そういった考えに基づいて、新嘗祭に代表される神道儀礼において自らの生命を繋ぐ「稲」という尊い生命を神饌という聖なる対象とし、象徴的行為を以てその殺生に対して意味づけすることで前述の宗教的矛盾に応えてきた。また日本人が持つ「神道文化」には「鎮守の杜」という言葉がある。日本人が「杜」には何か霊性とか神が宿るという考えを持つのは極めて自然であった。また「杜」をはじめ全ての生命を含む日本語の「自然」という言葉は名詞でもあり、形容詞でもある。そしてそれが持つ概念は「自づ」から「然る」というものであり、それこそ最良の形であると考える文化的土台に成立した宗教であることに起因して、人もこの一部であると考え、自然との共生を果たしてきたといえる。

現代の環境問題をもたらした要因の中のひとつとして現代に生きている人間だけが権利を持つという発想があり、神道文化での祖先から生を享け万物から生かされている自然的秩序の一員であるという発想は環境問題を打開する上で何らかの手がかりとなるのではないかと考える。それは旧来の精神文化への立ち返りを意味するものではなく、現在の物質文明へのアンチテーゼとなりうるのではないだろうか。そして比較文化を通じて神道文化が持つ概念が世界中で理解されるようになれば、両者を止揚させ「生命文明」と言えるような本質的かつ永続的な文明を築く一翼を担えるのではないか。

現代、世界的には爆発的な人口増加と、開発途上の国々の近代化に伴って環境破壊が致命的なところまで進もうとしている。近い将来予想される深刻な食糧不足、或いは急速な地球温暖化から懸念される氷河期の早期化。

それらに歯止めをかけるためにも、我々日本人が有する文化性、神道に含まれる宗教的規律が今こそ世界に発信され貢献するべき、そんな時代を迎えているのではないだろうか。

まさに今こそが、日本人が真に国際化を果たすべき、その時であると考えるものである。

                           代筆 田舎の神主の妻

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2007年6月30日 (土)

現代と神道 ~特別編その3~

このシリーズも今回で最終回となります。

では早速、前回の続きです。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その3

日本には古来より独自の文化性があった。またヨーロッパも同様である。

そしてここで問題とされている中東地域の各国もまた独自の文化性を有しているのである。

ある国の文化と別の国の文化が触れるとき、化学反応にも似た変化が起きる。

結合・融和して新たな文化が生み出されるか、或いは片方の文化に吸収されてしまうのか、または結合・融和もせず、吸収もされず、両者ともそのままの状態であるのか。

それが本質的な「文化の変遷」というものであろうと考える。

この「文化の変遷」は常に時の権力と密接な関係にあることは否定できない。

そして、抗争の歴史と並行しているものでもある。

前述した日本の近代化に於いても、その背景には全世界規模での「帝国主義」があり、更には強大な軍事力を背景にした欧米列強の圧力があった。

その文脈の中で自らの独立を希求し、それを成し遂げるための「近代化」が起こり、文化的変遷を生んだのである。

しかし「近代化」を推し進める中で、真の独立を求める中で、それは「国家主義」を生み、やがては「超国家主義」へと変容を遂げ、いつしか戦争へと進んでいくのである。

外圧に対して最大限の譲歩を続けながらも、時代の潮流には抗えなかった、と考える。

この現象は単に国内政治レベルという問題ではなく日本の国民的潮流であり、更に言えば全世界的潮流であったとも言うことも出来るであろう。

日本の日韓併合から支那大陸進出、満州事変及び支那事変。

アメリカの排日移民法や石油禁輸政策、更にはハルノートと、様々な諸条件が重なった上での戦争であったのは間違いない。

しかし、それらの諸条件についての言及は今回の趣旨ではないので避ける。

付言するならば、現代に生きる我々が何かを述べるのは間違いであると感じるからである。現代の価値観で歴史を裁くことは出来ないし、またそれはあまり意味を持たない行為であると考えるからである。

時代的潮流に逆らうことが出来なかった日本はやがて「敗戦」という形での決着を見る。

当然のことながら、敗戦国は連合国の管理下に置かれ占領政策が開始されることとなる。

ここで、前述した「民主化」が再び行われるのである。

ここで重要な点は「連合国主体」で「民主化」行われ、先の戦争における「戦争責任」なるものの追求も始まり、その中で「戦犯」として多くの日本人が裁かれたこと。

また、連合国の民間検閲支隊(CCD)による徹底した検閲が繰り広げられ、大日本帝国憲法を排し日本国憲法が連合軍主導の下に制定され、その中で教育基本法なども改められ、それらの条件下で日本国民に対して日本文化の再教育が行われたという点である。(江藤淳著『閉された言語空間』他、参照)

この2点を踏まえて考えると、現在言われている日本の「民主化」は今から凡そ60年前の連合軍占領統治下で起こった、言わば「文化の変遷」であり、積極的に日本人が望んだものではなかったのではないかという疑義が生まれてくる。

またこの時に、前述した私の推論する「禁教令を出すに至った秀吉の思考」と同じ感覚を覚える。

つまり、中世に日本が初めて出会った「グローバリゼーション」である。

戦後の「再教育」の中で日本人は連続した歴史を失い、「民主化」の名の下に自らのアイデンティティを喪失してしまった。

しかし、当時の日本人は長きに渡る戦争によって心身ともに疲弊しており、民族的に異文化に対して排他的でない文化性も手伝って「民主化」、つまり連合国による「グローバリゼーション」を受け入れてしまったのではないだろうか。

勿論、明治維新時にも民族性を失ったが、それは外圧に対抗し自らの独立を、独自の文化性を保とうとするが故の変遷であった。

これは即ち、日本人が世界中の多数存在する異文化の中に自国の文化の存在を知らしめるためのものであったと考えるものである。

まさしく「インターナショナライゼーション」である。

この論を以て言うならば、アフガニスタンに於ける「ターリバーン」の勢力復興も、イラクに於ける軍事行動がイラク国民から見れば「テロ」でなく「レジスタンス」であるということも然るべきことである。

彼らが文化的、或いは宗教的な理由によって「民主化」を拒むのは当然であろう。

それは自らの存在を、「文化」を根底から否定される性質のものであるからに他ならないからである。

つい先日のことであるが、『イラク特措法』の延長が国会で決定された。

現在多くの日本の自衛隊員がイラクに於いて復興支援や人道支援という形で駐留している。

その姿はイラクの国民からどのように見えるのであろうか・・・。

自らのアイデンティティを破壊しようとしている、かつての日本に於ける「連合軍」の一軍として見ているのではないだろうかと危惧を覚える・・・。

そして、かつて日本が経験した「歴史の断絶」がアフガニスタンやイラクでも起こるのだろうか。

日本人とイスラム教国の人々との大きな違いは言うまでもなく「宗教観」であり、それに伴う「文化」「民族性」である。日本人の精神性の源泉の一つと言える「神道」は歴史的に見て、良くも悪くも様々な「異文化」との共存を果たしてきた。

しかしまた、その柔軟性・寛容性が日本人の最大の特性であり、戦後日本を経済大国へと押し上げた最大の要因であると考えている。

その最大の特性を活かし、また、かつての苦い経験を生かし、まさに「異文化」であるアフガニスタンやイラクに対して自衛隊の派遣だけでなく、貢献できる分野があるのではないだろうか。

米兵に守られなければ支援活動が出来ない状態の自衛隊員が、生命を危険に晒しながら、アメリカや日本の理論で言う「テロ」によっていつ破壊されてしまうか分からないインフラの整備などをするよりも、政府レベルで対策をすれば他にも出来ることはあると考える。

現代はまさに「国際化社会」である。

様々な「異文化」が混在し、同時に普遍原理としての「文明」が世界中に広がりを見せている。

しかし、「文化」と「文明」は同一のものではないということを理解せねばならない。

「文明の利器」の拡大によって生活の利便性は大きく向上したであろう。

しかし、「グローバリズム」即ち「民主主義」という「文化」の拡大によって戦争を生み、「テロ」或いは「レジスタンス」を生んだ。それによって元来そういった文化性を持たない、或いは受け入れない国々の土着文化や歴史の連続性が失われようとしている

明治維新、敗戦を経て、日本人が失ってしまった文化性、精神性も同様である。

現代の日本に目を遷せば、かつては見られなかった現象に頭を悩ませている。

少年犯罪の凶悪化、家庭内暴力の増加、性風俗の乱れなど、枚挙に暇がないが、それらは日本文化の荒廃が招いているものであろう。

それは「アイデンティティの喪失」と、現代の価値観の多様化がもたらした二元論の崩壊、つまり自己存在に対する善悪の規定の崩壊を意味すると考える。

如何なる国であっても、長い歴史を持つ国であれば、その国の淵源は大抵の場合は「神話」である。戦後に「民主化」された日本は経済的な豊かさを追い求め、資本主義社会を浸透させてきた。

その結果、現代は「唯物論」が支配的となり、「神話」の類に関しては否定的な社会になってしまった。

その理由として民主主義、資本主義を生み出したヨーロッパと「宗教文化」が決定的に違う点が挙げられる。

つまり、戦後の連合国主導の「再教育」によって自国の歴史的連続性が損なわれたと同時に、市場原理によって都市化が進み家郷社会の解体が起こった。それが意味することは、日本の土着宗教である「神道」、即ち「共同体信仰」の原理の破壊であった。

キリスト教やイスラム教などの所謂「一神教」を宗旨に持つ文化圏は、その宗教的概念に於いても、文化的性質に於いても「個人救済」或いは「個人主義」というのが中心にある。であるから故の対立構造が生まれるのは理解できる。

これは世俗化を「是」としたキリスト新教系「グローバリズム」、言い換えれば「一元主義」と世俗化を許さないイスラム教「ファンダメンタリズム(原理主義)」とも言うべき概念の二項対立である。

が、しかし、日本の「神道」の概念、或いは日本人の「文化的特性」他者に対し寛容であり、且つ「異文化」を吸収・消化する柔軟性を持ち合わせているのである。

更に「鎖国時代」の限りある生活環境から培われた文化的特徴として、可能な限り対立を避けようとする特質があったと言えるのではないだろうか。

こういった日本の文化的特質から考えると、敗戦当時の日本は占領政策に対して現在の「ターリバーン」や「アルカイーダ」、イラク国民のように「テロ」或いは「レジスタンス運動」が起きにくい状況であったと考える。

そして現代、キリスト教原理以外の「文明」的要素を受け入れ、「近代化」「民主化」を成し遂げた日本人は、独自の文化性を大部分放棄し、皮肉にも、見事に「グローバル化」を果たしたと言える。

しかし、明治維新後の日本が目指したものは「グローバル化」ではなく「国際化=インターナショナライゼーション」であったはずである。

そして、方向性が変わってしまったことに気付きながらも、糺すことが出来なかったその「ツケ」が、現状に様々な形で現れているのではないだろうか。

「共同体」の原理によって生活規範が保たれていたこの国に、「一神教原理」即ち「個人主義」を背景に持つ政治システムを導入し、そのバックボーンがないまま、どこかに精神性を置き忘れたまま発展させてきた軋轢が、今ここにある。

今まさに、この教訓に学ぶべき時である。

日本が日本足るべき理由と、その存在感を世界に知らしめるためには「アイデンティティの復権」以外にあり得ないのである。

「グローバリズム」の限界が今、中東に見えているのである。

今こそ、各々の文化性を互いに認め合い、共存することこそが真の国際交流の価値であり、その最終目的たり得るものである。

それは日本人にしかできないことである。

日本の誇るべき文化特性が持つ、或いはその土着信仰である「神道」が持つ寛容性、柔軟性を遺憾なく発揮し、国際社会に貢献するべきである。

現在、世界人口は60億といわれる。

これからも爆発的な人口増加が予想される。

それは全世界レベルで「鎖国状態」に陥るということを意味しているように感じるのである。

限られた資源。限られた生活環境。世界的に食料生産に適した耕地面積は限られている。

そんな生活環境で生き抜いてきたのは恐らく、世界的に見ても「鎖国時代」の日本くらいなものであろう。

かつての精神性を取り戻し、アイデンティティの復権がなったその暁には、きっと日本人が、かつての日本人の生活が見直されることとなる。

アフリカで始まっている「もったいない運動」などはまさにその前兆と言えるだろう。

繰り返す。

我々は今一度、自国の「文化」と「宗教性」を見直し、その精神性とアイデンティティの復権を果たさねばならない時が今、来ているのである。

                   了

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2007年6月27日 (水)

現代と神道 ~特別編その2~

前回の続きです。

今回ブログへのエントリアップに伴い、若干文章を付け足してあります。

原稿自体は少し前のものですが、時系列的に最近の事柄も入ってきますのでご了承下さい。

では早速続きを・・・。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性 その2

中世になると日本は若干の混乱期を迎える。

天皇・公家中心の政治体制から武家中心の政治体制へと移行していったのである。

それまで比較的安定的に国家運営が為されていたものが、数多くの戦乱が起こり、文化的にも安定しない時代が続くのである。その戦乱が収まり、文化の発展を見るのは豊臣秀吉の天下統一を経て、徳川幕府の成立を待たねばならなかった。

しかし、その中世に日本は初めて西洋の「グローバリゼーション」と出会った。

当時は「グローバリゼーション」と呼べる様な代物ではなかったかも知れないが、西洋のキリスト教一元主義を基にした「大航海時代」が後の「帝国主義時代」「民主主義の拡大」の到来を予見させるものであったと考察する。

日本の地を踏んだ最初の西洋人はキリスト教宣教師であると言われている。

彼らは種子島に上陸し、鉄砲を伝える。いや、正確には「持ち込んだ」のである。しかし、当時種子島にいた鍛冶などを行う職人たちの眼に触れ、興味を抱いた彼らは分解してその構造を知ると、世界の「最新技術」である鉄砲の製造技術は瞬く間に全国に広げることになる。そして数年後には鉄砲の保有数は世界一になったと言われている。

そんな環境の中でキリスト教宣教師が九州に上陸し、布教を開始する。

布教活動の中で彼らは時の権力者であった大名に取り入り、信者を多数獲得していく。

また、当時天下に最も近いと言われた織田信長に謁見し、直に布教の許可を得ている。

そして彼らは勢力を伸ばし、特に九州に於いてはキリシタン大名の権力を背景に寺社仏閣の破壊行為に及ぶのである。しかし、時を同じくして国内では世に言う「本能寺の変」が起こり、権力の座は信長から秀吉へと移っていった。すると、秀吉はキリシタンが大名の力を借りて領民を半ば強制的にキリシタンにしていることと、それら領民に寺社仏閣の破壊を命じていることに関して疑義を呈するのである。そして彼らに質問状を送るが満足な回答が得られず「伴天連追放令」を出すに至ったのである。

この時、西洋人達は武力の行使も吝かではなかったはずである。

しかし、彼らはそれをしなかった。またそれは何故か。

前述した通り、当時の日本は鉄砲の保有数世界一であった。

つまり、彼らが持ち込んだはずの世界的最新兵器の大量製造が可能な技術力を有し、しかもその技術が全国に広がっており、武力による制圧が不可能と考えていたからに他ならないのである。また、技術が広がっていたことはその当時、職人が国内での移動を比較的容易に行えたことを証明するものでもある。

「伴天連追放令」の後に「切支丹禁教令」が出され、日本国内、特に九州におけるキリシタン弾圧が繰り広げられた

ここで推考しなければならないのは、秀吉が最終的に禁教令を出すに至る彼の思考である。

あくまで個人の思考であるが故に推論の域を出ることはないが、彼が追放令、禁教令と順を追って弾圧への態度を硬化させていく背景には、彼らの寺社仏閣の破壊行為やそれまでの九州地域の領民の生活を強制的に変えさせたことにある様に考えられることである。

つまり「日本独自の既存文化への破壊行為」を通して破壊されるであろう、前述の「日本人の特性」に対して、秀吉は体制の維持が極めて困難な状況に陥る可能性があり許容出来ないと考えたであろうと推考出来るのである。

秀吉のこれらの政策は、当時の社会情勢を鑑みるに、極めて的を射ていたと言えるだろう。

この後、天下を取り、実権を握った徳川家康も江戸に幕府を開き、禁教令を出し、幕府として「鎖国政策」を打ち出すのである。

その結果300年近くの平和と、所謂「町人文化」の隆盛、後の近代化に繋がる国内の産業体制を確立させるに至るのである。この国内における繁栄の背景には高度な技術力を有した職人や、高度な流通システムを醸成させた商人など、所謂「民間の智恵」が大きな働きを有していたことを付記しておく。

そして近世末期、西洋との再会の時を迎えるのである。

その時、世界はまさに弱肉強食の「帝国主義」の時代を迎えていた。

その文脈の中で凡そ300年続けられた「鎖国政策」によってもたらされた、安定した日本社会が仇となり、幕府はその無能さを露呈することとなる。

対外交渉に慣れていない幕臣、平和の中で近代兵器の保有数を制限してきた幕府に対し、屈強な軍事力を背景に交渉を進める欧米列強には抵抗する術がなかったと言っても過言ではない。

外圧に迫られ、幕府は致し方なく開国に踏み切ったのである。

300年近く続いた「鎖国政策」の崩壊と同時に日本はその「帝国主義」という世界の荒波へと漕ぎ出さねばならなくなったのである。

こうして日本は明治維新を迎え、「近代化」への道筋を辿ることとなるのである。

その後は前述した通りであるが、「民主化」がいつ為されたかという点について、ここまでの論に於いて考えられる点は2点である。

一つは敗戦後の高度経済成長を迎える以前の連合軍統治時代か、もう一つは明治維新の際、「近代化」を促す為に欧米列強の政治システムを導入した際か、のどちらかであろう。

国家的な「民主化」という観点からならば後者であろう。

明治維新後に議会が発足し、立憲君主制という政治システムが採用され、国家の運営に民意が反映される仕組みが成立したからである。

また、現代的文脈から考えれば「民主化」とは人民が主権を握ることであり、国民主権の憲法が制定され、それが施行されて初めて為されると解釈すれば前者であると言える。

しかし、この理論はあくまで欧米の、言い換えれば「キリスト教文化圏」の観点ではないだろうか。即ち「グローバリゼーション」的理論なのではないかと疑義を覚えるのである。

振り返ってみると、最も日本が「民主的」であった時代は或いは「近世」なのではないだろうか。

鎖国時代の日本は限られた生活環境限られた物資で生活をせざるを得ない島国であって、その中で育まれた地方自治の在り方などは実に民主的である。

都市部の自治体制、農村部に於けると幕府との年貢米・供出米の交渉とその為に行われる村落の寄り合いや代表者の選任、町火消し等の自警団の組織化など、都市管理については領民達に一任されていたと考えられている。これは前述した「民間の智恵」の連続性の賜物と言えるだろう。

つまり、国家の政に関して民は口出し出来ないが、反対に民の暮らしに幕府が直接介入することは殆どなかったと考えられるのである。

斯様な生活様式は民主的と言えないのか。否、十分に民主的であろう。

それも極めて「日本的」とも言うべき、国の実情と政策が見事にかみ合ったスタイルであると言える。この様な政治体制であったからこそ、300年近くもの長きに渡り戦乱が起こらなかったのではないだろうか。

また、ヨーロッパでは複数回に及ぶ「黒死病(ペスト)」の大流行により人口の大多数を失い、壊滅の危機に瀕したこともある

しかし、日本では古代から現代に渡って大規模な「疫病」に悩まされることはなく、疫病による国家滅亡の危機などなかったのである。

それは何故か。 答えは簡単である。

日本は風土的に、また土着信仰の観点からも「清浄」を好む文化を有しているのである。

具体的に言えば、「穢れ」を忌み嫌う信仰を持つ民族であったが故に入浴する習慣があったという点である。

これはキリスト教にはない感覚である。キリスト教に於いて肉体に関心を持つと言うことは「姦淫」を意味し、罪となる。故に、裸になって自らの身体を清浄に保つための手入れにあたる行為である入浴が習慣化するはずもない。また、衛生設備が皆無であったので排泄物やゴミの類が道路や裏庭に積まれ悪臭を放ち、人間には蚤や虱が湧き不潔そのものであった。

しかし、キリスト教は霊魂の救済こそが徳行であり、肉体そのものをなるべく目から遠ざける人こそが有徳の人であった。

然ればこそ、疫病が広がるのも宜なるかなである。

しかし、悪疫や厳しい自然環境を、ヨーロッパ人は知恵を絞り「大航海時代」経て「産業革命」を達成し、自らの与えられた諸条件の中で克服していくのである。

その中でも特筆すべきは「ルネッサンス」「宗教改革」さらには「啓蒙主義」などを通じて散見される彼らの「知識欲」の対する貪欲さである。こういった文化性こそが、世界から尊敬を集めるヨーロッパたる所以であるのではないだろうか。

主に日本の「近代化」「民主化」を例にとり、対比としてヨーロッパの文化性を考えてきたが、斯様に考察を進めるとどちらもある意味では優れた文化であり、ある意味では劣っていると考えることも出来るのである。

まさに「文化」には優劣の付けようがない、と言ったところであろうか。

日本の文化や神道という民俗信仰も島国という空間的条件あってこそ、イスラム教も砂漠の中にある国であってこそ、キリスト教も然り、資本主義も民主主義も然り、諸々の空間的条件や生活に関する時間的経過によって生み出された、その環境で生き抜く術であると言い換えることも出来るのではないだろうか。

そう考えてみると、「民主化」という概念が正しいものであるかどうかは捉え方により、観点により、その空間的条件により変化するのではないか、と考えるのである。

                            つづく

前回、暫くぶりの更新に対し、多数のコメントをお寄せいただきまして有り難う御座いました。

一時は本当に「ブログが続けられるかどうか」と悩みましたが、閉鎖や休止宣言をしなくて良かったと、心から感謝致しました。

これからもマイペースですが、更新していこうと思います。

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2007年6月25日 (月)

現代と神道 ~特別編その1~

暫くぶりの更新になってしまいました。

本当に有難いことではあるのですが、余りの忙しさに目が回るようでありました。

一時、このブログもあまりに更新が出来ない現状から閉鎖、若しくは休止宣言でもしようかとも思いましたが、少しずつでも更新しようと思いまして、思い留まっておりました。

今回は「手抜き」と思われてしまいそうですが、以前にあるところに寄稿しようと書いたのですが結局使わなかった文章です。

その時に使いたかったのですが、若干趣旨が異なってしまったため使用できなかったものです。比較的長文でありますので、3回に分けて掲載しようと思っております。

長い前置きになりましたが掲載致します。

グローバル化と国際化、民主化と日本人の宗教性

キリスト教にせよ、イスラム教にせよ、神道にせよ、仏教にせよ、全てが各々の土着の信仰であり、文化を形成してきたものである。

社会学者M.ウェーバーはプロテスタンティズムが資本主義社会を生み出したと言った。(『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』参照)

グローバル化に対しテロなどの報復行為が是認されるべきではないが、視点を変えるとキリスト教原理の各国から観れば「テロ」であり、イスラム原理の各国から観れば「レジスタンス」と言えるのである。彼らの文化は資本主義ではないし、民主主義では有り得ない。ムスリムは「世俗化」すること自体が罪であるから、彼らの原理に添うことは万死に値するものだからである。

しかし現状に於いては「文明」という、言うなれば「普遍原理」「文化」という「変遷」を伴う同一のものではないにも拘わらず、その「変遷」に対して他者から強要が行われている。

「グローバリゼーション」という名の欧米軍事列強による「民主主義拡大政策」がそれである。仮に強要、強制の類の行為を受けたとすれば、彼らは「クルアーン」に則って「聖戦=ジハード」を起こす。しかし、それは決して「テロ」と呼ぶ類のものではなく、彼らにとっては「アイデンティティ・ウォー」に他ならないのである。

それが「ターリバーン」や「アルカイーダ」がイスラム諸国から支持を得ている最大の要因であると共に、アメリカが言うところの「文明とテロの戦争」という認識が彼らと如何に遠いところにあるかという証明とも言える。

私の立ち位置は彼らの行為を是認はしない。が、しかし、こういった戦争を招き起こしたアメリカ、それを黙認、是認した日本をも含む欧米諸国(中には反対している国もあるが)も同様に肯定することは出来ない、というものである。

それは即ち「民主主義」と「宗教」が相容れない存在なのではなく、「グローバリゼーション」の名の下に彼らの「アイデンティティ」が蹂躙されることが、彼らには我慢ならない、受け入れられないという考察からである。

仮にイスラム国家において民主化が進められるということがあるのならば、それは彼ら自身によって発議され推し進められるべきであり、アメリカの手によって行われるべき性質のものではないのである。アメリカも9.11以来この類の戦争を展開してきたが、この9.11同時多発テロ(私はこの名称を使うべきではないと考えるが便宜上使用する)も考えてみれば、中東情勢(特にパレスチナ問題)におけるアメリカの国策としてのイスラエル保護に端を発しており、2001年というキリスト教にとっては「特別な年」(ミレニアム=千年帝国の新たな建国・または復活の年)に起こっているという事実を見逃してはならない。

ユダヤ教に起源を持つ両宗教の歴史的構図と現代の「世俗化」されたキリスト教の繁栄が生んだ「驕り」が、本来優劣は存在しないハズの「文化」を、異質のものである「文明」の優劣にすり替え、「文明」の粋である軍事力を持って制した、或いは中東においてイスラエルが行っている軍事行動を容認、援助した事実は、これからも欧米人や日本人が言う「テロ」を益々頻発させるきっかけになることであると考える。

彼らの「行動」を決起させるその「元凶」を絶たない限り、つまり「グローバリゼーション」「インターナショナライゼーション」の違いが見出せない限り、この争いは無くなることはないであろうし、「民主化」が「善」で「非民主主義国家」が「悪」であるという二元論では解決出来ないであろう。

日本が「民主化」を成し遂げた経緯には、「明治維新」からその痕跡を辿ることが出来る。それは日本が当時の欧米列強に対抗する為に「近代化」を最優先課題とし、富国強兵政策を実現する為、積極的に彼らの文化、特に政治システムや軍事体系を取り入れ、日本人の精神的、肉体的改造に踏み切ったゆえである。

しかし「彼ら」にはそういった意志がない。

むしろ拒んでいるのである。

彼らからすれば、これが「強要・強制」でなくてなんなのであろうか・・・。

ここで日本の「民主化」の経緯を考察したい。

異教徒として「資本主義・民主主義」を導入し、象徴として天皇を国民の中心に据え国家の統合を図り、先の大戦へと進み、壊滅的な敗戦。しかし戦後の高度経済成長を経て、世界的な経済大国となった日本を、その先駆けとして世界的視線はどのように見ているのか。

それは極めて「前近代的」な視線である

日本人のイメージは「勤勉であり、礼儀正しく、協調性に優れている」というものが多数であろう。また逆説的にいえば「猿真似が上手い、感情を表さないので何を考えているか解らない、集団で行動するしか脳がなく個人では何も出来ない」等とも言うことが出来よう。

前述した様な日本人のイメージに見られる共通点は何か。

勿論それはかつての日本人の「生活様式」である。

「水田耕作」の文化であり、近世の「鎖国政策」に代表的に見られる「島国文化」である。

狩猟民族が稲作の普及によって定住農耕民族へと変容し、共同体中心の文化が構築された。

また、狩猟個体の絶対数に生活が左右される狩猟生活と異なり、農耕生活は比較的安定的な食糧の供給が約束された上、共同体に於いて創意工夫が成されればその成果に応じた収穫が期待できるようになる。つまり「勤勉性」の確立である。

更に農耕に於いて重要な要素として周囲との信頼・協力関係が前提とされるのである。

そこに求められるものは「協調性」であり、周囲との関係を維持する上で「礼節を重んじる」のも然るべきことであったと考えられる。

これらの特性は、おおよそ日本に稲作が伝来し、それが普及していった「弥生時代」に起源を求めることが出来る。

その後、遣隋使、遣唐使の派遣によってもたらされた「儒教」や「仏教」がこれらの特性を強化する後天的要素として広がりを見せるのも或る意味必然であったとも言える。

しかし、それらの要素が定着する為の前提として「土着」の「信仰・儀礼」があった。

現代的に言えば「神道」である。

それらの後天的要素が入ってきた時には先人は「本地垂迹説」を説き、また生活規範を強化する為の徳目として説いたのである。

つまり、あくまで日本国家は神々の支配する国であり、その国家体制の維持という政策的観点に於いてこれらを利用・活用し、日常に浸透させていったのである。

                                                  つづく

また少しずつではありますが更新して参りたいと思います。

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2007年2月11日 (日)

現代と神道 ~紀元節~

皇紀2667年おめでとう御座います。

本日、建国記念日(紀元節)の良き日を皆様と共にお迎えできましたことは誠に慶賀の極み、心よりお慶び申し上げます。

拙ブログに於いて、これまで幾度か「現代と神道」ということでエントリを書いて参りましたが、今回は「紀元節」、現在で言うところの「建国記念日」とはいったい何なのか、ということについて考えて参りたいと思います。

一言で「紀元節」について申し上げるならば、初代天皇であらせられる「神武天皇」が天皇に即位され、国を開いたとされる、その日であります。

つまり、今日のこの日は「神武元年の正月」にあたり、神武天皇の即位礼が行われたその日である、ということなのです。

そして神武四年の秋に行われた「鳥見山霊畤」「大嘗祭」にあたり、『日本書紀(神武紀)』には

『我が皇祖(みおや)の霊(みたま)、天より降鑑(くだりみそな)はして、朕が躬を光助(てらした)すけたまへり。今諸の虜(あだども)既に平ぎ、海内無事(あめのしたしづか)なり。天神を郊祀(まつ)りて、用(もち)て大孝(おやにしたがふこと)を申べたまふべきなり。乃ち霊畤(まつりのには)を鳥見山に立つ。・・・略・・・用て皇祖天神を祭りたまふ。』

とあります。これは天孫降臨から始まったこの地上世界の統治がやっと形を成し、自らの御東征によって一頻り完了したことを、御祖先に対してご報告成されている様を表されていると思われます。

つまり、125代の今上陛下まで続く「御大礼(即位礼、大嘗祭)」の御代始めは、この『神武創業』に立ち帰る所作の現れであり、「皇祖皇宗の遺訓」即ち天照大神から神武天皇を通じて残された教えを国家経営の基本として受け継ぐための儀礼であり、祖先祀りの原型であると考えられます。

そしてこの「紀元節」「報本反始」即ち「神武創業」のその日に立ち帰る、日本人にとって大変意味のある重要な日であるのです。

ここで考えたいのは、「神武創業」はどのような物語であったか、ということであります。

以前にもこのシリーズで何度か『古事記』について取り上げたことがありましたが、やはりこの物語のルーツを求めるにあたって『古事記』が非常に重要な書物であるといえます。

その『古事記』について、平成10年に行われた国際児童図書評議会世界大会に於いて皇后陛下の御講演があり、その中に次のような御言葉があります。少し長いですが、抜粋しながら引用させていただきます。

・・・前略・・・

『私は、自分が子供であったためか、民族の子供時代のようなこの太古の物語(注:古事記)を、大変面白く読みました。今思うのですが、一国の神話や伝説は正確な史実ではないかも知れませんが、不思議とその民族を象徴します。これに民話の世界を加えると、それぞれの国や地域の人々が、どのような自然観や生死観を持っていたか、何を尊び、何を恐れたか、どのような想像力を持っていたか等が、うっすらとですが感じられます。 父がくれた神話伝説の本は、私に、個々の家族以外にも、民族の共通の祖先があることを教えたという意味で、私に一つの根っこのようなものを与えてくれました。』

・・・中略・・・

『この本(注:古事記)は、日本の物語の原型とも言うべきものを私に示してくれました。やがてはその広大な裾野に、児童文学が生まれる力強い原型です。そしてこの原型との子供時代の出会いは、その後私が異国を知ろうとする時に、何よりもまず、その国の物語を知りたいと思うきっかけを作ってくれました。私にとり、フィンランドは第一にカレワラの国であり、アイルランドはオシーンやリヤの子供達の国、インドはラマヤナやジャータカの国、メキシコはポポル・ブフの国です。これだけがその国の全てでないことは勿論ですが、他国に親しみを持つ上で、これは大層楽しい入り口ではないかと思っています。』

・・・中略・・・

『それはある時には私に根っこを与え、ある時には翼をくれました。この根っこと翼は、私が外に、内に、橋をかけ、自分の世界を少しずつ広げて育っていくときに、大きな助けとなってくれました。』

・・・後略・・・

恥ずかしながら、私も常々「日本は『古事記』の国」と講演をする時などに申し上げるのですが、皇后陛下のこの御講演の御言葉からの受け売りであります。

「建国記念日」「紀元節」を考える時に、恐らく多くの人々は、なくてはならないはずの『民族の起源伝承』がスッポリと抜け落ちているのではないでしょうか・・・。

悲しいことに、現在この国で多くの場面で使われる暦は「西暦」即ち「キリスト教暦」なのであります。

が、しかし、日本は「聖書の国」ではありません。「古事記の国」であるはずなのです。

この「紀元節」に改めて、先人の残した教え・・・日本古来の在り方とその伝承が如何にして受け継がれているのか、我々日本人は考えねばならないと思うのです。

フィンランドの子供達は『カレワラ』を読んで育つ・・・ならば日本の子供達は『古事記』を読んで、もっと日本の神話に親しみを持ち、理解を深めることで自分たちの淵源を知ることで、自分達の生まれたこの国に愛着を持ち、そしてまた祖先祀りの大切さを知ることが出来るのではないでしょうか。

天皇陛下の御代始めの如く、自らの生に感謝し、自らを育んでくれたこの郷土に感謝する。そして、今のこの恵まれた時代を築いてくれた祖先に対しても自然と感謝の念を抱くことが出来るのではないでしょうか・・・。

そして、そんな未来を築くことが出来るのは、今の我々ではないでしょうか・・・・・・。

この「紀元節」に気分を一新して、

さぁ!皆さん!『古事記』を読んで、自分達のルーツを見つめてみませんか!!!

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2007年2月 7日 (水)

新年を迎えるにあたり(1月分会報より)

少し遅れましたが、先月の会報で新春の挨拶ということで書いたものです。

以前、拙ブログでエントリアップ致しました「繁栄と幸福への道」のシリーズの延長線上にある話という趣旨で書きました。

若干、宗教的な色彩が強いと思いますが、そのあたりはご容赦賜りたいと存じます。

新年を迎えるにあたり

新春を皆様と共にお迎えすることを得まして、誠に御同慶の至りとお祝い申し上げます。

新しいとはなんと素晴らしいことであろうか。自ずと新気が湧き、真気となり、神気漲る。

この素晴らしさは単に平面的に素晴らしいと謂うのではなく、過去幾万年という限りなきものからの繋がりある故の神秘なる素晴らしさで、「初日の出」の陽光の神秘も自己の魂の神秘を透して認識される。

正月は神代の偲ばるる月と云える。

故に、進歩躍進のテンポの激しい今日に於いても前進に心を致し、新たなるものを創造するかげに過去の重みと深さに根ざして、素晴らしい新たなるものが創造(つくり)出されるのかとも思われるこの清浄なる「安心(やすらぎ)」の日である元旦。

全ての人が元朝(このひ)の心を基として、ただひたすらに希望に輝いて日々を伸展していきたいものである。

人間(かみのこ)お互いに自己の心構のうちに、自己の鎮魂、大神を通じ、過去の長い歩みを温ねて、新年に信念込めて愈々と堅固なる感謝と祈りの誠を大神に捧げ、本年も重ねて御祈念をするものである。

然し乍ら、これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。

一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

人は常に気を凝らし、気を錬る稽古を充分にしておくことが大切であり、要するに各自に真の自覚というものがないと、しっかりとした人間観を持っていないが故、躓くと絶望してしまったりするものである。

茲に於いて、私達人間はこの点で大いに考えねばならぬと思うのである。

これは大自然が大調和をし、大宇宙が常に栄えている事を知(さと)る時、太陽の働きも地球の廻転も一年を通して同じである。暮れが来たからと云って、太陽がねじり鉢巻で東から西へ吹っ飛んだなどと、一度も見たこともなく、また聞いた試しもないのである。春、夏、秋、冬、陽々として、暢々と、唯ひたすらに光と熱をお与え下さっているのである。大自然、即ち神の道には少しも焦りがない。また歪いもなく、天地世界は一家として秩序整然と守られ生かされているのである。

それこそ、あらゆる国々の人々は大自然即ち神の分身であり、同胞であり、兄弟に等しく、同じ一つの空気を吸って吐いて生かされているのである。

一つの光と一つの空気、一つの慈愛の親の恵みによって、生かされているお互い人間であり、「大宇宙の昼夜休みなき恵み」によって生かさせて頂いているのである。それはつまり、自分で生きているという考えは誤信であり、錯覚であると云うことに他ならない。

私達人間はこの点でも更に考えねばならぬと思うのである。

それは、大自然の限りない恵みによって生かされている人間として、天と地に報ゆる心の道、心の目の開かない処に、現代社会の人間生活に何かと行き詰まりがあると思うものである。

大自然(かみ)の運行(はたらき)に添う心、神への奉仕観念の篤き人と家は、不思議と云ってよい程栄えている。思う事、為す事が順風に帆を上げた如くうまく伸展しているのである。

「何言うだぁ!」「恩もくそもあるものか!」「太陽が出るのはあたりめぇだ!」「今だ、チャンスだ!強いものが勝ちだ!」「早いものが儲かるのだ!」「とかく利益上げねば儲からない!」

・・・・・と集めねば、貯めねばという錯覚を持ってやっている人が、一時は儲けた様に、成功した様に見えるが・・・年限が経って五年、十年経つと、その家の親子、夫婦、兄弟の運命を鑑みたならば、ハッキリと精算が現れているであろう。・・・・人はこの世を、「金・物の世界」と勘違いをして居る人が多いのであるが、徳行なくして貯めた財は、貯まれば畜(たま)るほど、その人の運命は腐っていくものである。

地位の高い人も、その中へ入って親しくその内を見ると、地位や、金や、智慧でどうする事も出来ない苦労と、不幸の濁流が渦巻いている・・・。それは神理(かみのこころ)に添わないからである。

お互い人間生まれて来た時を省みて、誰一人として衣類を着けたり、お金を握って生まれ出た者はいないのである。

お互い素手で生まれて来たのである。

握らず、掴まず生まれさせられた一人一人である。それこそ生まれ落ちたは丸裸の素っ裸である。

持って来たのは金の玉二つ、貝がら一つの凹(ぼこ)と凸(でこ)との幸せである。

この相性は「陰」と「陽」で最高である。

が、これも使用一つ間違えると不幸となる。「性」も「色」も程々が安心であるが、それなのに欲をかいて持とうとするから良くない。・・・尤も人間は四生類や草木などより遙かに多くの自由の意志(こころ)を与えられている点にも、多々問題があると思われる。

人間は万物の霊長である故に、自分の意志を自由に働かせて、大宇宙の運行に型どり、種々のことを想像し、且つ行動することが出来る。

衣類にしても禽(きん)獣(じゅう)虫(ちゅう)魚(ぎょ)の類は皆自然に与えられていて、満足する外ないので、衣類のえり好みによる面倒は一切ないのであるが、人間は衣類、食べ物、住居、その他多くのものを制作するうえに於いて、自由意志を働かせ、それに伴う悲喜劇がついつい多く生じるものである。

従って人間の個別性と自由意志がからまる時、とかく個人的な欲望に負けてしまい、自由意志つまり「我が身かわいや」を働かせ過ぎ、反って自ら苦しめる破目になってしまうのである。

大自然(かみ)は永久(とわ)に生き栄え、豊かな存在であらせられるのである。

この地球上にある全てのもの。日々成長する万物。その悉く大自然の富であり、宇宙(かみ)は無限の豊かさを持っているのである。

私達人間はこの様な大きな富、大きな愛、豊かな宝物の満ちている中に生きているのである。

そしてそれ等は、咸(みな)神からのお恵みを授かっている。

人間(かみのこ)が自己の本性の尊さ知(さと)り、その尊い本性のままの智慧に依って、それ等の富を自由にすることも出来るのであるから、欲望に囚われず、また貧乏性にも陥らぬよう、豊かな心を持ってこの年も自信たっぷり敢然と起つべき事である。

自然の理法(めぐみ)とは昼夜野別をはっきりとし、然も永遠に変わらぬ働きであり、春夏秋冬歪(くる)いない幾万年、幾億年変わりない自然の恵み、それを動かす根本の力である。

この動きが人類を始め、あらゆる生命体に行き届いているので健康の身体で居られる。

然し、どれ程頑丈な身体の人でも、空気のない処へ行けばおしまいである。生き生きと茂っていた大木でも、土から掘り出した時、土はそのままであるのに樹の方は直ぐ枯れてしまう。

世の中には、神を私達人間と別々の様に考えて居られる方が多いように思うが、それは考え違いである。

神と我々人間は一体なのである。

よく考えて頂きたい。自然の理法(はからい)で創られ、守られているのをお気付きになる筈である。

我が心の着物である肉体の全てが、素晴らしい、見事な出来ではないか。

神(自然)の恵みほど素晴らしく、永遠なものはないと、今更ながら驚歎せずには居られない。

先ず、その顕れが一切の生命に「新陳代謝」の姿として顕れているのである。私達の身体の上について考えて視ても、脳髄の素晴らしい働き、目に見える運動、そして「耳」「鼻」「口」などの活動、「手の皮」「足の皮」の限りない消耗に対する不断の補充(おぎない)などを思う時、真実の人智で到底及ばぬ働きが、人のある限り、生きる限り与えられているのである。

この恵み、この働きは平等に、それこそ一秒の休みもなく、惜しみなく、お与え下さっているのである。

これが「親心」即ち「大慈大悲」の神理(かみのこころ)なのである。

従って心の着物である肉体全てが、神の守りである事に気付かねばならないのである。

更に私達、何人も、男も女も、此の世に生まれる以前より、自分で目的を起てて生まれてきた者は一人もいないはずである。

大自然(おやなるかみ)の摂理(はからい)で、自然の支配する永遠の天地を親として、生まれさせられ、守られ、生かされている。人間(かみのこ)であることを自覚せねばなりません。

然れば、人間(かみのこ)は親なる神の心を知って、大きく深く悟って、神が歓ぶ、社会を明るくする、人が助かる、神の理想の実現に文句も無しに、理屈も無しに各自の立場を通じて、精進努力することが、素直な神の子の道であると信ずるものである。

私達人類は傷ついた霊(みたま)、汚れた魂をあくまで磨き上げ、自己中心、物欲中心の人間(かたまり)の心を、敬神崇祖の念を体現し、御教示を求め、心の垢を洗い去り、且つ亦、御教示を心の糧として、如何なる事も天意(かみのこころ)が映ってくるような、明鏡の如き神心(しんじん)の本質を磨き出さねばならであろう。心一つの磨き方、持ち方に依って、如何なる神の恵みも頂ける道を大いに進行(すすみゆく)ことである。

新年を迎えて、腹の底よりおめでたいと自ずと慶ばずに居られないような、満たされた迎春。

「今年も神が私に生命をお授け下さっている」、私はそう思わずには居られない。

だから今、生命(いのち)があると云う事は「神が為さねばならぬ使命を与えて、私達に今年も生命を授けた」のだと信ずる。

此の御神意に添うて、唯ひたすらに希望の彼方に向かって正しく進む。生きて甲斐ある人生行路を波穏やかな良い波調に乗れる資格を得られ、安らぎの年が顕現なされますよう、自他共に祈ってやみません。

徳は此の世の主人(あるじ)と云われる。

従って、この「徳」のある家や人には何事も面白い程総てが運び行く。

即ち「運が良い」、萬事順調である。

それこそ「しまった」「損をした」「外れた」「悔しい」「痛い」「つらい」「苦しい」「悶える」等の病気や事件には御縁がないのである。所謂残念な事が一つも起こってこない。ついてくる子供もみんな素直、それこそ非行に走る子など一人も生じない。大自然(かみ)の繁栄(さかえ)と共に、家運は伸びて、栄える、そして太らせて頂き家運は隆盛になるのである。

本年も愈々と一家揃って徳行に励み、心の糧を充分にとって、心の健康を保持し、感謝の心を造る神への御恩報示あるのみである。

その道筋が進行であり、真行であり、信仰である。

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2006年9月 3日 (日)

現代と神道 ~その4~

 さて、前回の続きです。

今回でイザナギノミコトとイザナミノミコトの黄泉の国禊ぎ祓いの行も最終回です。

 黄泉の国からやっとのことで逃れて国へ帰ったイザナギノミコトは次のように洩らしたのでした。

「思えば私は、なんて厭な、醜い、汚いところへとわざわざ出向いたしまったのだろう・・・。私の身体はすっかり穢れてしまった。この身体を『禊ぎ』して清浄にせねばならない・・・。」

そう言うと「筑紫の日向の小戸の阿波岐原(ツクシノヒムカノオドノアハギハラ)」において穢れた身体を浄めるための「禊ぎ祓い」の儀式を行うことにしました。

 まず最初に手にしていた杖を投げ捨てると、その杖は黄泉比良坂に突き刺さり、「この禍に近づくな」というツキタツフナドノカミが生った。次に帯を解いて投げ捨てると、道中の安全を守る、場合によってはそこに危険をもたらすミチナガチハノカミが、次に腰の下に巻いていた裳を投げ捨てると、「死穢」を解き放つ、またはそこへ解き置くというトキハカシ(トキオカシ)ノカミが、次に上に着ていた衣を投げ捨てると、禍から免れた、または患いを内包するというワヅラヒノウシノカミが、次に褌を投げ捨てると、衢を守り、または分かれ道の迷い神と云われるチマタノカミが、次に冠を投げ捨てると、「穢れ」が明けたことを示す、または「穢れ」を内包するアキグヒウシノカミが、更に左手に纏いた玉飾を投げ捨てるとオキザルノカミオキツナギサビコノカミオキツカヒベラノカミという、海の沖、渚、その中間の海を守り、または禍をもたらす三柱の神が、右手の玉飾を投げ捨てるとヘザカルノカミヘツナギサビコノカミヘツカヒベラノカミという水平線を守り、または禍をもたらす三柱の神が生まれました。

それまで身につけていたものを全て脱ぎ、または外すことに依って、そこに付いていた「穢れ」と、その穢れが付着していたイザナギノミコトがお召しになっていた「着物」から「禍」とその禍から「守ったり」、それを「直す」両面を持ち合わせた、十二柱の神々が生まれたのでした。

 こうして全てを脱ぎ捨てたイザナギノミコトは朝日にきらめき輝いている海面に眼をやると
「上の瀬は潮の流れが速い。下の瀬の方が流れが緩やかだ。」
と呟き、中の瀬のあたりにザブンと飛び込み、冷たい海に潜り、身体に水をくぐりながら洗い清めて行くのでした。
その時生まれた神の名は八十禍津日神(ヤソマガツヒノカミ)次に大禍津日神(オオマガツヒノカミ)でありました。この二柱の神は、かの醜い黄泉の国に行った時に、身体に付いて来た「穢れ」が基となって生まれ出た神でありました。
この「穢れ」を直そうと、次にイザナギノミコトの身体を伝い流れる水から生まれたのが神直毘神(カムナホビノカミ)、次に大直毘神(オオナホビノカミ)でありました。
そしてその「穢れ」が濯ぎ落とされ清らかになったことを示すイズメノカミがお生まれになります。

 そしてもっと深く潜られ、底へとたどり着いたときにお生まれになった神の名は底津綿津見神(ソコツワタツミノカミ)底筒之男命(ソコヅツノオノミコト)浮き上がってくる途中でお生まれになった神の名は中津綿津見神(ナカツワタツミノカミ)中筒之男命(ナカヅツノオノミコト)、海面に近づいたときにお生まれになった神の名は上綿津見神(ウハワタツミノカミ)上筒之男命(ウハヅツノオノミコト)、いずれも海路や港を守る神であります。
そしてこの三柱のワタツミノ神は朝廷に海の幸を献上していた阿曇連(アズミノムラジ)の祖先と言われています。
また、三柱のツツノオノ命は墨江、後の住吉大社の祭神であり、ここから全国の住吉神社へとお祀りされるようになりました。

 そして、やっと海面に顔を出したイザナギノミコトが左の眼を洗うと天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、次に右の眼を洗うと月読命(ツクヨミノミコト)が、最後に鼻を洗うと建速須佐之男命(タケハヤスサノオノミコト)がお生まれになったのです。

ここにお生まれになったヤソマガツヒノ神からハヤスサノオノ命までの十四柱の神は、身体を洗い清めたことによって生まれ出た神でした。

 ここに於いてイザナギ大神は心から歓喜の声をお上げになり、次のように言いました。

「私は次々と子供を生んできたが、その最後にやっと、三柱の世にも尊い子供達を得た。」

そう言うと頸に掛けていた玉飾を手に取り、きららかな音色を発しゆらゆらと響くそれを天照大御神に手渡すと、

「お前は私に代わって高天原(タカマノハラ)を治めよ。」

そう命じ、天照大御神は仕事を請け負ったしるしに、その玉飾を賜りました。その玉飾を御倉板挙之神(ミクラタナノカミ)といいました。
次に月読命には、

「お前は私に代わって夜之食國(ヨルノオスクニ)を治めよ。」

そう命じ仕事を任せられました。
次に建速須佐之男命には、

「お前は私に代わって海原を治めよ。」

そう命じ、仕事を任せられました。

こうして全てが三人の御子達の手に委ねられたのでした。

さて、ここでやっとイザナミノミコトの死後、黄泉の国へと赴き、それを追って行ったイザナギノミコトが現世に戻り、「禊ぎ祓い」を行い、「三貴子」と呼ばれる日本の八百萬と云われる神々の中で最も尊い神様をお生みになり、そして自らの跡継ぎとして「事依さし」された、というわけです。

前回の分から余談もいくつかあります。
例えばイザナミノミコトが黄泉の国で作った食事を取ったが為にその一員になってしまったことは「同じ釜の飯を食う」の語源になっていると言われていたり、イザナギノミコトが櫛の歯を折って火を灯したことで不吉なものを見てしまったことから「折れた櫛は使うものではない」なんてことが言われる様になった、なんて言います。それと今回、「三貴子」をお生みになった後、古事記の原文においてイザナギノ「命」がイザナギ「大神」と呼称が変わるのですが、それは跡継ぎをお生みになって御隠居されたから、などとも言われます。

それはさておき、ここでここまでの一連の流れで私はあることを思います。

それはイザナミノミコトの死後、その悲しみを忘れることの出来ないイザナギノミコトはそれを追って黄泉の国へと赴かれました。
それは妻を愛するが故の行動であり、その妻が死んでしまったその悲しみや心の隙間を埋めることが出来なかったが故の行動であると思うのです。
その悲しみは黄泉の国へと向かう前に「殯(もがり)」をしていた時点でも明らかだった訳ですが、それでも彼の気持ちは収まらなかった、ということです。

これは現代に於いて考えてみても似たような事例は在るのではないでしょうか・・・。

先日、私のごく身近な方がお亡くなりになりました。
その方はもう、齢八十も数えられ、今年に入ってからというもの入退院を繰り返されていました・・・。
そしてつい先日、お亡くなりになったのですが、お亡くなりになったとき、周囲の方々(特に余り近くないご親族の方々)は

「もうこれだけ生きて、最後は病んで苦しんだのだからもう大往生だ。あんまりメソメソ泣いてちゃいかんだろう。」

と仰っていました。が、奥様やお嬢様はとても悲しまれていらっしゃって、そんなとても「大往生なんだから・・・」というような言葉を掛けられる、そんな状況ではありませんでした。

いくら年を取っても、「大往生」と周りから言われても、身内のものが悲しいと思うのは当たり前のことであり、或る意味当然のことなのだと再確認しました。

この方の葬儀は「神葬祭」で行われ、私は祭主としてお務めさせて頂きましたが、どんな葬儀もそうですが、亡くなった方の「人柄」が垣間見えるものなのです。
それは「人」が「命(みこと=神)」になっていく過程でどれだけの「想い」を背負って行けるか、神となるに相応しいだけの徳があるのかどうか、ということでもあるのではないかと感じます。

少し話が横道に逸れましたが元に戻したいと思います。

人の死はどんな状況で在っても悲しいものですが、その後の様々な悲しみや苦しみ、辛い、哀しいという思いを乗り越えてこそ、何か新しい、大切なものが生まれてくるのではないでしょうか。

イザナギノミコトは黄泉の国で散々な目に遭いました。
しかし、そこで身につけてきた「穢れ」を禊ぎ、祓い清めると禍神が生まれ、それらを正す神が生まれ、そして最後に自らの跡継ぎとも言うべき「三貴子」がお生まれになった・・・。

人の死が様々な「争い」や「諍い」を生むこともあることでしょう・・・。
しかし、それを正す行いも生まれることでしょう。
そして、その亡くなった方を偲び、想いを馳せることで、その方が残してくださった尊い「教え」「御言葉」を思い出すことも出来るでしょう。

その「教え」「御言葉」から自らが迷ったとき、その迷いを晴らしてくれる、進むべき道を指し示して下さることもあるでしょう。

前回、「生命の縦の繋がり」、即ち「Eternal  Life」と書きましたが、そんな「永遠に続く生命の連鎖」も生まれてくるのではないでしょうか・・・。
そしてその連鎖を断ち切らない為にも、我々は後世を生きる者達に何を残さねばならないのでしょうか・・・。

そして我々は先人が残して下さった尊い「教え」や「御言葉」から何を学ぶべきなのでしょうか・・・。
それらを学びとることが出来たのなら、それを受け継いでいかねばなりません。

そして・・・・・私達は護らねばなりません。

この国の歴史を・・・伝統を・・・。
この国の美しい国柄を・・・。

そして「死」の悲しみを乗り越えることで我々は何を得ることが出来るのか・・・・。

現代における様々な問題も先人が残して下さった「教え」や「御言葉」の中に答えが見つかることもあるでしょう。
私はブログでも良く申すことなのですが、
「温故知新」
今、その意味を深く、そして真剣に考えるときなのではないのだろうか・・・そんな風に思うのです。

でもそれは、そんな難しく考えることでもないと思うのです。
まずは身近なところから始めてはいかがでしょうか。
もう、お盆は過ぎましたが、今からでも遅くはありません。
今年行かれた方も、行かれなかった方も、御先祖様のお墓参りから始められてはどうでしょうか?
別にご自分の御祖先ですから、お盆に限らず、いつでも、毎月でも行かれるのが良いと思います。

だいぶ時機を逸してしまいましたが(反省)、皆さん、今年のお盆はどうでしたか?

今回はメチャクチャ長文になってしまい、読みにくかったことと思いますがどうかご容赦ください。

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2006年8月28日 (月)

現代と神道 ~その3~

 さて、前々回の続きです。

 どうしてもイザナミノミコトを忘れることの出来ないイザナギノミコトは黄泉の国まで逢いに行きます。

 黄泉の国・・・そこは死者の国です・・・。
 生きた者が来るのを堅く拒んでいる・・・。

 その御殿は冷たい扉が現世との間をしっかりと塞いでいました。

 しかし、愛する夫イザナギノミコトが遙々、このようなところまで訪ねてくれたことを知り、妻であるイザナミノミコトは扉のところまでやって来ます。

 すると、扉越しにイザナギノミコトが優しい声で
「あぁ、愛しい我妻イザナミよ・・・。私とお前が創った国はまだ形を創っただけではないか・・・。まだ完成したわけではない・・・。私にはまだお前の助けが必要なのだ。どうか私と一緒にもう一度戻ってきてはくれまいか・・・。」

 この呼びかけに対し、イザナミノミコトは次のように答えました。
「あぁ、愛しい我が夫よ。何故もっと早く来てくださらなかったのですか・・・。私はもうこの黄泉の国で、不浄な火と水で炊いた食べ物を口にしてしまいました・・・。私の身体はもう穢れてしまった・・・。それでも愛しい我が背の君(女性が兄、夫、恋人を呼ぶ時に使う言葉)が、わざわざ私をお迎えにおいでになったことは嬉しくて堪りません。私はなんとしても帰りたいと思います。ですからこの黄泉神達に相談をして帰っても良いか、お伺いを立てて参ります。ただ、その間はどうか、私の姿はご覧にならないで下さいませ・・・。」
そう言って御殿の中へと戻って仕舞われました。

 言われた通りに扉の前で佇み、お待ちになるイザナギノミコト。
しかし、いくら待っても愛する妻は戻ってこないのです。
待ちかねたイザナギノミコトは約束を破って扉の中へと入っていく決意を固めました・・・。

その扉の中は真っ暗闇で、イザナギノミコトは角髪にゆったその髪を留める爪櫛を手に取り、その櫛の1番大きな歯を折り、そこへ火を灯し、暗闇の御殿の中を中を先へ、先へと進んでいきました。

その乏しい光に照らされてようやくイザナミの姿が眼に映りました・・・・が、なんという有様なのでしょう!!!

 それはかつて自分が知っていた、愛する妻とは思えない・・・、身体中に小さな蛆がたかりクネクネと動き、至る処から膿がドロドロと流れ出している身体でした・・・。
 さらに、愛する妻の身体・・・その頭からは大雷(オホイカヅチ)が、その胸には火雷(ホノイカヅチ)、その腹には黒雷(クロイカヅチ)、陰処(ほと)には拆雷(サクイカヅチ)、左手には若雷(ワキイカヅチ)、右手には土雷(ツチイカヅチ)、左足には鳴雷(ナルイカヅチ)、右足には伏雷(フシイカヅチ)という都合八柱の雷神がおどろおどろしく、愛する妻の、・・・その腐り果てた身体から生まれていたのです・・・。

 さすがのイザナギノミコトもその有様を見て、恐怖に凍りつき、恐れおののきながら一目散にそこを逃げ出しました。
その逃げていく愛する夫の姿を見たイザナミノミコトは

「あなたという方は・・・。私の恥ずかしいこの有様をご覧になりましたね・・・。」

 そう口悔しげに叫び、黄泉醜女(よもつしこめ=黄泉の国の醜い女神)達に命じ、その後を追いかけさせました。
イザナギノミコトは一生懸命逃げましたが追いつかれそうになり、自分の髪を留めていた鬘(かずら=髪を留める冠)を後ろに投げ捨てました。
すると地に落ちた鬘から葡萄がなり、腹を空かせた黄泉醜女はその実を奪い合って食べ始めたのです。その間にイザナギノミコトは遠くへ逃げることが出来ました。

 しかし、その葡萄の実を食べ終えると黄泉醜女達は再び追い始め、また危なくなりました。今度は、さっき歯を折って火を灯した櫛を再び髪から外し後ろへ投げました。
すると地に落ちた櫛がタケノコとなり地面からニョキニョキと生えました。
黄泉醜女達がそれを食べている間にもっと、もっと遠くへ逃げることが成功したのです。

一方、イザナミノミコトは更に怒り狂い、自分の身体から生った八柱の雷神達に命じ、黄泉の国の軍隊をつけ夫の後を追いかけさせます。
雷神と大軍に迫られたイザナギノミコトは十拳剣(とつかつるぎ=長さが拳十個分の意)を抜き、黄泉の軍隊を振り回しながら追い払い、遠くへ逃げていきました。
それでも追っ手は追跡をやめませんでしたが、とうとうイザナギノミコトは黄泉比良坂(よもつひらさか=黄泉の国と現世との境とされる)の麓までたどり着きました。
そして、その坂の麓にあった桃の実を三つ取り上げ追っ手に向かって投げつけました。
するとその勢いに追っ手の者共は恐れをなし、悉く逃げ帰って行くのでした。

大変な危機から逃れたイザナギノミコトは桃に向かってこう言いました。
「お前は今、私を助けてくれた。この国に住むありとあらゆる命健やかな人達が、もしも辛い目に遭って苦しむようなことがあったら私と同じように助けてやってくれ。」
そしてその桃に「意富加牟豆美命(オホカムヅミノミコト=大神の実)」というなを与えました。

一方、追跡が失敗に終わったことを知ったイザナミノミコトは最後に自ら、夫の後を追ってきました。が、イザナギノミコトは「千引石」という千人力でやっと動かせるほどの大岩を黄泉比良坂の中央まで引きずってきてそこへ置き、その出入口を塞いでしまいました。
そしてその岩のところまでやって来たイザナミノミコトに向かって、イザナギノミコトは岩を挟んだ状態で事戸(これを限りに契を解くこと=離縁宣言)を申し渡しました。

この言葉を聞いたイザナミノミコトは
「愛しい我が背の君よ・・・。あなたは約束を破って私を辱めました・・・。私はあなたを許しません。その仕返しにあなたに国の人々を一日に千人ずつ絞り殺しましょう。」
これに対してイザナギノミコトはこう答えたのです。
「愛しい我妻よ・・・。確かに私はお前を辱めてしまった・・・。だからお前がそのような非道なことをするのであれば甘んじて受けよう・・・。だが、私の方は一日に千五百の産屋を建て、子供を産ませることにしよう。」

このような誓いがあったので、この国の人口はこれ以降、一日に五百人ずつ増え続け、現代に至ると云われています。また、この誓いに於いて「死」を司る立場となったイザナミノミコトのことを「黄泉津大神(ヨモツオホカミ)」とも言われる様になりました。

 さて、長い前置きでしたが、ここまで「古事記」の内容に触れてきて、今回は一つの事柄についてだけ考えてみたいと思います。それ以外は次回「イザナギノミコトの禊ぎ祓い」で触れたいと思います。

 今回はこの最後の行。イザナギノミコトとイザナミノミコトの事戸、「離縁宣言」の部分について触れたいと思います。

 ここではイザナミノミコトが辱められたことに対して怒り、そして悲しみ、その憤りからイザナギノミコトの国の民を一日に千人ずつ殺す事を明言します。
そこには、この世に「生」を受けた者はいつか必ず「死」を迎えるという生命の終わり、つまり「死の原則」が隠されているように思います。
また、イザナギノミコトはそのイザナミノミコトの憤りを、怒りを受け入れ甘んじて受け入れるという姿勢(この意訳には賛否両論ありそうですが)を以てその「死の原則」を受容し、我々人間がその「死」への唯一の対抗手段とも言うべき「子孫を残す」という行動に依って「死」というものの恐怖から解放され、より我々が繁栄をするための道を指し示しているように思うのです。
つまり、それは「生命の縦の連鎖」であり、太古の祖先から現代を生きる我々まで広遠と繋がる「Eternal Life」なのではないでしょうか。

「死」、それは恐るるにも足らぬ事である。
我々は子孫を残し、我々が築いてきた伝統や文化、歴史を受け継いでもらうこと。
それによって我らの生きた証、道統を残せるではないか・・・。

そんな風に、先人達が言っているように私には聞こえるのです。

 しかし、現代は「男女共同参画基本法」に代表される「フェミニズム」「ジェンダーフリー」などという、人間が本来、生得的に持ち合わせている役割を無視したような思想や社会状況が推進され、特に「女性の社会進出」が声高に叫ばれています。
 この「古事記」のこの項における教えの一つとして、男女の役割を必要以上に変えることなく、生得的に神様がお与え下さった役割や立場などを尊重し、お互いが助け合い、そのバランスを均等に保つことが重要なのではないか、と感じるのです。

 そして今、この日本では「少子高齢化」が加速的な早さで進行し、遂には「人口の減少傾向」が起こり始めました・・・。

 私は女性の社会進出を拒むわけではありません。また、『所謂「大和撫子」を手本とし、女は控えめにして男を立てろ』などと言うつもりも毛頭ありません。
 しかし、女性の方でも社会進出をすることよりも専業主婦を望む方も多くいらっしゃると思うのです。(私の妻もその一人です。)
それなのに、俗に言う「フェミニスト」の方や「ジェンダーフリー」を推進される方々は勿論ですが、現政府の政策の在り方までもが・・・・・と感じてしまうのです。

 このまま「女性の力」(黄泉津大神=イザナミノミコトの力)があまりにも強くなって行ってしまうと・・・・・。
 少子化は解決できないのではなかろうか・・・・・そんな危惧を抱いてしまう、今日この頃です。

   つづく・・・・・

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2006年8月18日 (金)

現代と神道 ~その2~

 今回は「神道」を学術的に考えるとき、重要な素材の一つとなる「神道古典」から「神道に於ける死生観」について考察を深めたいと思います。

 「神道古典」の中でもとりわけ重要とされる「記紀」
 特に今回は「古事記」の中から本来は順を追ってお話をさせて頂くべきなのですが、失礼ながら1部抜粋させていただき、そこから話を始めさせていただきたいと思います。
 かなり前、途中、後を端折りますが、私なりに口語訳及び省略させて頂きながら話を進めたいと思います。

 『天神諸からこの世界の「修理固成」を命ぜられたイザナギノミコトイザナミノミコト「国生み」「神生み」を進められ、そして或る時、イザナミノミコトは火神である「ホノカグツチノミコト」をお産みになった。しかし、その火神の火の勢いが余りにも強かったため、イザナミノミコトは女陰(ほと)に大火傷を負われた。そしてイザナミノミコトはその火傷が元でお亡くなりになって仕舞われた。』

 先ずここで一つ考えたいことは、「イザナミノミコト」の死と引き替えにもたらされた「火神」がこの国の民に何をもたらしたのか、ということではないかと思うのです。
 「火」は我々日本人が弥生時代より主食としてきた「米」を炊いたり、料理をするためには欠かすことの出来ないものです。
 更にそれらを調理するために必要不可欠なもの、そう、鍋等の調理道具です。
つまり、当時で考えるならば、それは「土器」であり、「銅器、鉄器、金属器」であったでしょう。やはりそれらを焼いたり、精製したり、加工するためには「火」は欠かすことが出来ません。即ち「土器文明」「銅器、鉄器、金属器文明」もここから端を発していると考えられるのではないでしょうか。
 それを裏付けるように「古事記」の中では「イザナミノミコト」が寝込まれた際に、その吐瀉物から「カナヤマビコノカミ、カナヤマビメノカミ」という鉄や金物の神、屎から「ハニヤスビコノカミ、ハニヤスビメノカミ」という土、粘土の神、更に尿からは、後に「食物神」として良く「稲荷社」に祀られている「豊受毘賣神(トヨウケビメノカミ)」をお生みになる「ミツハメノカミ、ワクムスヒノカミ」という神がお成りになったのです。それらのことを複合的に考えるならば、日本人の「熟食の道」を開き、古代の文明社会の基礎が生まれていった、そう考えても良いのではないでしょうか。

 『イザナギノミコトイザナミノミコトの死を悲しみ、その「死」の原因となったホノカグツチノミコトの首を、怒りにまかせてたたき切ってしまう。そしてその後、イザナギノミコトはイザナミノミコトの死を悼み、その亡骸の周囲をグルグルと回りながら泣き叫んだ。

 この行は「殯(もがり)の儀」、即ち現代に於ける「通夜祭」若しくは「通夜の儀」を表現していると考えられます。つい今しがたまで動いていた愛する者が動かなくなり、それを何とかして「もう一度動いてくれ」「その手足をもう一度動かして・・・甦ってくれ」と祈り、大きな声を出してその魂を呼び戻す、所謂「魂呼び」といわれる儀式の基礎となったのではないかとも考えられます。

 『いくら殯(もがり)を行っても甦ることのないイザナミノミコトを眺め、もう動き出すことのないことを悟ったイザナギノミコトは出雲の国と伯耆の国の境にある比婆の山にその亡骸を葬った。しかし、どうしても妻のことを忘れられないイザナギノミコトは愛する妻と逢うために「黄泉の国」へと赴く・・・・・。』

 この行も前項と同様、現代に於ける「葬場祭」若しくは「葬儀、告別式」、更に「埋葬」について表現されているのではないでしょうか。「通夜」を通じもう甦らぬことを悟り、神葬祭で言うところの「遷霊」を行い、「埋葬」となるのです。現代と違うところは・・・と言えばその後の部分にある、死んでしまった「イザナミノミコト」に逢いに行ってしまった「イザナギノミコト」と違い、神式では「十日祭」などのように十日毎、仏式では「初七日」に代表されるように七日毎に、亡くなった方を悼み、惜しみ、悲しみながらも遺族がその方の「死」を受け入れるために「御供養」をされると云うことでしょうか・・・。

 しかし、そういう慣習も様々な宗教的な教えも勿論ありますが、それらに基づくということだけでなく、先人達の悲しむ姿がそういった精神的な負担を徐々に軽減させていこうとした周囲の人々の「思いやり」が育んできた、結果でもあるかも知れません・・・。 これは私の勝手な推測でしかありませんが・・・・・。

・・・・・・物語はまだまだ続きますが、次回に引っ張らせて頂きたいと思います。
・・・・・・少し、いやらしいですかね?
      なかなか更新できないので少し引っ張らせてください。(笑)

  次回はいよいよ、イザナギノミコトが黄泉の国へと赴きます!

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2006年8月 4日 (金)

現代と神道 ~その1~

しばらくの間、いつものようなエントリに挟みまして、最近の主旨とは若干趣向を変え、「神道」というものの学術的に捉え、現代における問題を考察してみたいと考えています。
今回は「神道と日本人」というテーマで論考してみたいと思います。

まず元来の日本人と神道のつながりについて考察していきたいと思います。

日本文化の特性と神道の起源及び性質について考えていくと大変密接な関連性が見えてきます。
日本人にとって生活変化の大きな分岐点となった「稲作農耕」伝来以来、農耕中心の基盤が作られ、それまでの狩猟生活と代わり「定住生活」になりました。
そして、その「稲作農耕」がそれまでの価値観を大きく変え、日本人の精神的特徴と考えて差し支えないであろう「勤勉性」「集団性」が育まれていくわけです。
そこに「大自然」と切っても切れない関係が始まったのです。

農耕における大きな特徴として、自分達が頑張れば頑張った分だけ収穫があり、更に言えば、その収穫量を高めるために、様々な努力を重ねればそれだけの恩恵を受けることが出来たのでしょう。若干乱暴な理論ではありますが、そこから「勤勉性」という要素が出来上がったと考えます。
更に「稲作農耕」には出来るだけ多くの「手」が必要です。
そういった文脈の中で多くの日本人達が「共同体」を形成し、農耕を営む、そこには特別な「仲間意識」のようなものが芽生えてくるというよりは、日常の生活の中で、お互いを必要とし、され、自然と相手の気持ちを考え、「思いやり」が生まれてきたのではないでしょうか。それを「集団性」と考えます。

これらを前提としたうえで、その農耕に際して重要なものがあります。
      「暦」です。
安定した稲作農耕を行うために季節を知らずしては出来ません。
その季節は何によって左右されているのか・・・・・。
      そう、「太陽」です。
つまり、農耕を営むうえで必要不可欠である「季節」を司るのは「太陽」であり、所謂「お天道様」の御心一つで稲の豊穣が左右されるのです。
神道において最高神とされるのは(ご存じの方ばかりだとは思いますが)、天照大神です。
天照大神「太陽神」とされる女神であり、神々の世界「高天原」を司る神でもあります。
そして、「時間、季節」を司る神として月読命がいらっしゃいます。
さらに大海原を始めとして地上の水、全てを司られる建速須佐男之命がいらっしゃるのです。

この三柱の神様達は前述の事柄だけを司るわけではありませんが、古事記の「ことよさし」において、各々がそれらを司るように伊邪那岐大神に命ぜられています。
これらが大変重要な事柄を示唆しているように思います。

つまり、「神道信仰」の起源は「暦」が必要となり、季節を左右する太陽、雨(水)の存在が大変重要であった時期、即ち日本に稲作農耕が伝わってきた弥生時代であり、それは日本人の祖先が日本人的な性質、前述の「勤勉性」「集団性」を育み始めた頃と同時期ではないか、と私は考えます。

この私の考えを裏付けてくださるような学説も多くあります。
國學院大學学長の安蘇谷正彦氏は著書(「神道とはなにか」 ペリカン社 1994年)の中で安津素彦氏の日本文化人説(神道思想史 前篇)を支持し、神道的祭りの成立時期、神饌としての「米」の重要性、延喜式などの祭りの制度的側面における稲作農耕との関連性、日本書紀の「斎庭の穂の神勅」などに散見される関連性、さらには本エントリの上記にある日本文化の特性に見られる稲作農耕との関連性など、もっと学者らしい論説を述べられています。

そこで現代に目を移してみたいと思います。

まず「勤勉性」という点について考えると、現政府が推進する所謂「新自由主義」といわれる市場原理至上主義に基づく株式売買などによるマネーゲームの横行であったり、社会情勢、経済の不安によってもたらされた「ニート」「引きこもり」といわれる働かない、就学しない若者の増加であったり、戦後の様々な要因によって引き起こされてきた教育に関する問題など、元来の日本人の特性としての「勤勉性」は最早失われてしまったように思います・・・。
さらに「集団性=思いやり」という点について考えるともっとひどいように思われます。
様々な場面で公衆道徳といわれるものが欠けている方を良く拝見したり、近所のトラブルが元で人を殺したり、大人が子供を連れ去り殺したり、反対に子供が親を殺めたり・・・。挙げていけばキリがありません・・・。
教育現場における荒廃であるとか、マスコミの報道の在り様であるとか、「個」を尊重し過ぎるきらいがあるうえに、「教育勅語」のように自己犠牲の精神を尊べというようなことを言えば、やれ「軍国主義だ、全体主義だ」と騒ぎ立てる・・・・・。
そして先日の先帝陛下の発言とされる、所謂「富田メモ」などの報道に見られる現状など、その最たるものであるように思います。
きちんとした検証もせず、自分達の都合に合わせ恣意的な解釈、報道をし、本当の先帝陛下の御心など顧みもしない。
その発言がどれだけの影響を及ぼし、同じ日本人に対してどれ程の迷惑を与え、日本人としての心を傷つけることなのか、考えずに報道されているように思います。

現代の日本人の在り方に足りないもの・・・・・・・・・・・・・。

そういうものが本来の日本人の在り方に立ち戻れば、はっきりとした形で見えてくるのではないのでしょうか・・・。

少しエキサイトしすぎて論点がずれてきたように感じます・・・・・。
ちょっと頭を冷やした方が良さそうです・・・。(汗)
また続きは時間が出来たときにしたいと思います。
中途半端になってしまい申し訳有りません。(反省)

また、別のエントリを挟んで続きを書きたいと思います。

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