2007年8月15日 (水)

「神への信仰」というもの

前回の文章と併せて、同じ先生がお書きになった文章で、これも当社の会報に載せたものです。会報では2ヶ月続けての掲載となりました。では早速・・・

神への信仰というもの

信仰とは読んで字の如く、あくまで「信じて仰ぐ」にある。

神様や人様の言霊を耳に、心に聞いて信じ行う「信行」し、以て実行するところに心の行い「心行」となり、信じ幸せな「信幸」となる。

迷いの心を払い光差し「心光」と書き、外面に視し身の行い「身行」をするので、幸は益々心の幸「心幸」となり、身の幸「身幸」となる。

神に願うのではない。心の願い「心願」である。願するところに根害あり、その害する己の根を掘切る「(おしえ)」を「求」めて「救」われるの文字となる。 

神の御許、教えに進み行く「進行」し、「信仰」によって神を感じ「神降」し、そこからさらに「深考」することから心改まり「心更」の信念が生じ新しき行い「新行」の大道開拓となる。

神仏のための信仰でなく、荒木の心即ち「心荒」のための「沈行」をして徳を遺憾なく発揮することにより愉快な人生を見出すことである。

その為にノビノビと「伸行」し「身行」となり「深交」の良き友が集い来るのは眞の行い「眞行」による来福であり、「深交」するので益々と和樂の日が送れるのである。

己我無(おがむ=拝む)精神無い者は不健全な自己の行動に気付かず、人を恨み、咒い、譏り、怒り、嫉み、行き詰まって震える行い「震行」し、地震の玉子のように身震いしている。自震では生きられない。自らを養い愛で給う神を感じ自神であれ。 自らの心、即ち自心は自信により自眞となし、我の尊さを知る自神となるのである。

さすれば心機一転、神の御力を戴き「振興」となる。野良も自由も蒔かぬ種は生えぬ。花を咲かせ実を結ばせる「深耕」しなければ、種は水に流され鳥に食われる。教えの種を蒔くように神起・心気・新気の種を蒔こう。用意周到の深耕をするのである。

これを患しいと云う事が「貧行」となり「診行」して見放され情けないと泣き溢し、人に拾われるのも知るや知らずや、あぁ情無い不人情の人である。

平常の「心構」が欠けている空(から)心が空駄(からだ)・・・身体・・・「身構」に油断するな。わずかなスキ間に「魔」が入り込んでくる。

私運行(しんこう)」の現世の生活は「親孝」の賜と知れ。

平素日常の神への奉祀と感謝、自己の神「自神」と共に強く祈り「志運行(しんこう)」するところに開運となる。

「心こそ 心迷わす 心なり 心の心 心ゆるすな」

                          了

今回は若干宗教色が強いテーマでしたが、私もこの先生に近い考えを持っております。

日本人の神への信仰心と現代の日常生活を考える上で、こういった規範的な要素が薄らいでいる事実は、現代が抱える様々な問題と無関係でないように思います。

古代、神話を肌で感じてきた日本人が持っていた感覚を、現代を生きる我々は失くしてしまっているのではないでしょうか・・・。

この大自然の運行と「私運行」は無関係ではないはずです。

この先生のこの原稿を読んで、私も「私運行」は「志運行」でありたいと感じました・・・。

先に述べましたが、今回のテーマは若干宗教色が強く、また読みにくかったことと思いますが、御容赦賜れれば幸いと存じます。

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2007年8月12日 (日)

「生きる糧」というもの

更新が滞っておりました。

久々の更新なのですが、以前私の師にあたる先生が会報に寄稿してくださったものがありましたので、ご紹介させていただきます。

またこれと別に、この先生が今回のエントリの原稿と共に書かれた小文もありますので、後日掲載させていただきます。それでは・・・

「生きる糧」というもの

人に生き方を旅路にたとえたり、航路になぞらえたりしますが、長い人生には平穏な時ばかりではありません。

時には雨、風の激しい日、波の立ち騒ぐ日もあることでしょう。

誰でも平穏を望む処ではありますが、そういった航路ばかりを選んでいますと、つい惰性に流され、安流に慣れ、突然の激しい風雨や波風に遭遇した時に、ただ慌てるばかりで適切な処置が出来ず、取り返しのつかない痛手を負ってしまうことにもなります。

楽な生き方には向上性が無く、何によらず良くなる為には困難がつきまとうものであります。

望んでも手に届かなかったものが、懸命な努力によって、或いは長い時間辛抱した結果、得られるからこそ喜びとなるものであり、簡単に手に入るものの中には、その感動や満足感を見出すことは出来ません。

自ら求めてまでもその苦難に体当たりしてゆく生き方にこそ、成し遂げた時の深い喜びが与えられるものです。

昔から「苦労は買ってでもせよ」と云われているように、私達は人生における辛酸を、むしろ自ら進んで求めるくらいの心構えが大切です。苦労から逃避してばかりでは、いつまで経ってもそれを乗り越えてゆく力が備わらず、何事にも挫折してしまう虚しい人生を送る事になります。

苦しみや悲しみを人間向上の為の有難い試練だと、素直に受け入れ頂いてゆく処に価値のある人生が生まれるのです。

また、「味わう」という言葉は、ただ単に体験するだけでなく、それが持つ意味を充分に理解し、感じ取ってゆく事であります。苦しみや悲しみをあるがままに、そのものとして「味わう」ことに依って、自分の「心の糧」としてゆく事ができ、そこで初めて他人の苦しみや悲しみも理解できる、温かい心が養われていく事になるのです。

苦労を共に味わい、噛みしめて、深みのある人生を過ごしていこうではありませんか。

「なぁに、また明日がある」「先がある」と考えていると、いつの間にかどんどん日が経ち、それが一年、二年と続けば、為すべきことも為せずに終わって、後悔することになりかねません。つまり、時間は限りある自分の命をそのものであると云えます・・・。

それは「砂時計」のように、毎日毎日、自分の持っている有限の砂を少しずつ落として生きている、というようなものかも知れません。それはいったん過ぎ去った時間を呼び戻すことも叶わぬことです。

私達が人間として此の世に生を受け、斯く存在しているということは、それ自体が尋常なことではありません。生きとし生けるものは全(みな)等しく、火・水・風(空気)・大地と、とめども尽くせぬ大自然の恵みを受け、またそれから生産される。衣・食・住に事欠くことなく自由に生活を営んでいます。これ等の事にただ感謝と喜びを抱くだけでなく、何かを以て報いようとする事は、人間が大自然の恩恵を受ける存在、それは即ち「かみのこ」として当然の義務であると思います。つまり、世の為、人の為に何かお役に立てるようにと願う気持ちが大切なのであります。

その願いを、仕事を通じて叶えることが出来れば、これは素晴らしいことではないでしょうか。

「少しでも世の中に貢献しなければならない」という使命感を以て事に当たれば、より大きな力を発揮することができ、生気に満ち溢れた意義ある人生を過ごすことが出来るものと確信いたします。

人生の旅すがらには色々な出来事が起こるものです。楽しいこと、嬉しいこと、悲しいことや煩わしいこと、苦しいこと、辛いこと・・・数限りない出来事が湧いてくるものです。それを一つ一つ味わうだけの「心のゆとり」を持ちたいものであります。

斯く云う私も、十三歳の時から奉公に出された。故郷を発つ時の私の姿は、手織り木綿の着物、持ち物といえば「行李(こうり)」でした。その衣装もお袋の朝早く、夜遅くまでの賃仕事の合間を利用して、丹精込めて作ってくれた手織りの木綿であり、母の心づくしの、唯一の贈り物でした。これが私の六十年ほど前の故郷を出る時の境遇でした。

年期奉公、二十円とかで、旦那さんもお内儀(かみ)さんもよく私を使ってくれました。 明星を頂き夜星を見て大八車を引かされれました。 毎日辛い苦労の続く私でした。

「喰いたい」「あれも欲しい」「之も欲しい」「お金を貯めたい」という欲望は、貧乏な家に育っただけに人一倍強かった事は勿論でした。

故郷を発つ時に、親父が口癖を酸っぱくなる程言っていた。

「頑張るだぞ。辛抱しろよ。腹立てるな。泥棒だけはするなよ・・・・。」

と耳が痛くなるほど聞かされたのです。小ちゃな身体で頑張ったが何せ大八車に薪の山。それを舵取る事は並大抵ではない。おまけに道はでこぼこ道。前に進むのも「ソロリソロリ」と汗がこぼれる、腹が減る。ふと七、八人の高等科(現在の中学生)一、二年生ぐらいの生徒達が荷車の後ろに廻った。「これは嬉しい。車の後押ししてくれる」と思いきや・・・?「や、ヤァ。チビ、チビ小僧だぁ!ワァイ!」と言い乍ら、てんで荷車の後部にぶら下がったのです。

後ろが重くなったので、車を引く私は舵と共に宙に浮いて足をバタバタ「止めてよ、止めてよ!」と叫ぶのですが、一向に生徒達の変わる更るぶら下がる跪拝(きはい)に、流石の私も一寸の虫にも五分の魂と、舵から手腕を離し飛び降りて、腹立ち紛れに荷車の薪を一本抜いた、その瞬間「やぁ!チビ!怒ったぞ!!やっちまえ!!!」と反対に袋叩きになってしまいました。

「この奴ら!!!」の大きな声に気が付いた。起きて見ると、自転車を転がしながら人の良さそうなおじさんが、私のそばに寄って来ました。周囲を見ると、遠くの方に、蜘蛛の子を散らしたように生徒が逃げていく姿が見えました。

「ばかぁさっしやる。可愛そうに。怪我はなかったか」「うん、大丈夫です・・・。」

と、言ったものの右腕に血が滲んでいたり、足腰に痛さを覚えました。

「ありがとうございました。」と言いつつも涙拭き拭き荷車の舵を取ると、おじさんは親切に自転車を転がしながら大八車の後を片手で押してくれました。

「こんなに沢山積んで大変だなぁ。あぁ、何処のお店?・・・あぁ・・・○○○かぁ。大変だろうが、辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。じゃあ・・・おじさんはこの辺で。」

と云うので、うしろを振り返ると、もう親切なおじさんの姿は見えませんでした。 あの時の嬉しさは忘れることも出来ず、あの優しいおじさんのお顔も忘れることは出来ません。

それに一方「チビ小僧」と云いつつ、荷車も押してくれず、ぶら下がったりし、寄って集って袋叩き、押し潰された口惜しさは生涯忘れ得ぬ事と思ったものの、「今に見て居れ!僕だって見上げるほどの大木に、成って見せずにおくものか!!!」との信念を、この私に持たしてくれた人達だと思う時、あの生徒達を恨む処か、むしろ感謝しなければならないのだと思いました。

私の人生の旅はあまりにも過酷過ぎた。だが歩んで来た道にあったのであり、歩んだ道は東でもなく、西でもなく南・・・『皆見』てくれた処から北(来た)道にあったのです。

種々のことがあった・・・。

色々な出来事が、どう仕様もない、一層のこと死んでやろうか、などと思ったこともあったが、それは私を虐待したのではない、苦しめたのではない、又恥をかかせたのでもない。

全て、大自然からの慈悲心からであり、神よりの試練(おためし)でもあったとも思われます。足らずながらも、世の為人の為に尽くしたいとの生き甲斐と、神の前に積み上げた苦労の徳が現れてき来て、両親亡き後でも思い出して喜べる無形の徳。

果たしてそれは事実となって、今日私の恵まれた生活と立場があるのだと信じます。

徳さえ積んでおけば盤石の強さである。

徳は此の世の主人である。

必要な時に必要なだけ、お与え下さる神と共に生きる生活程強いものはありません。

栄枯盛衰、生死、喜怒哀楽を超えて、悠々と神の御心に添うて生かせて貰ってきました。

「辛抱してさ、頑張ればな、必ず出世するさ。」の声が、今生、心に焼き付いている

                                  

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2007年2月 7日 (水)

新年を迎えるにあたり(1月分会報より)

少し遅れましたが、先月の会報で新春の挨拶ということで書いたものです。

以前、拙ブログでエントリアップ致しました「繁栄と幸福への道」のシリーズの延長線上にある話という趣旨で書きました。

若干、宗教的な色彩が強いと思いますが、そのあたりはご容赦賜りたいと存じます。

新年を迎えるにあたり

新春を皆様と共にお迎えすることを得まして、誠に御同慶の至りとお祝い申し上げます。

新しいとはなんと素晴らしいことであろうか。自ずと新気が湧き、真気となり、神気漲る。

この素晴らしさは単に平面的に素晴らしいと謂うのではなく、過去幾万年という限りなきものからの繋がりある故の神秘なる素晴らしさで、「初日の出」の陽光の神秘も自己の魂の神秘を透して認識される。

正月は神代の偲ばるる月と云える。

故に、進歩躍進のテンポの激しい今日に於いても前進に心を致し、新たなるものを創造するかげに過去の重みと深さに根ざして、素晴らしい新たなるものが創造(つくり)出されるのかとも思われるこの清浄なる「安心(やすらぎ)」の日である元旦。

全ての人が元朝(このひ)の心を基として、ただひたすらに希望に輝いて日々を伸展していきたいものである。

人間(かみのこ)お互いに自己の心構のうちに、自己の鎮魂、大神を通じ、過去の長い歩みを温ねて、新年に信念込めて愈々と堅固なる感謝と祈りの誠を大神に捧げ、本年も重ねて御祈念をするものである。

然し乍ら、これも一足飛びの向上は考えもので、人間決して焦ってはならない。

一日一日、一歩一歩と順序を追ってその段階に達しなくては危険である。

人は常に気を凝らし、気を錬る稽古を充分にしておくことが大切であり、要するに各自に真の自覚というものがないと、しっかりとした人間観を持っていないが故、躓くと絶望してしまったりするものである。

茲に於いて、私達人間はこの点で大いに考えねばならぬと思うのである。

これは大自然が大調和をし、大宇宙が常に栄えている事を知(さと)る時、太陽の働きも地球の廻転も一年を通して同じである。暮れが来たからと云って、太陽がねじり鉢巻で東から西へ吹っ飛んだなどと、一度も見たこともなく、また聞いた試しもないのである。春、夏、秋、冬、陽々として、暢々と、唯ひたすらに光と熱をお与え下さっているのである。大自然、即ち神の道には少しも焦りがない。また歪いもなく、天地世界は一家として秩序整然と守られ生かされているのである。

それこそ、あらゆる国々の人々は大自然即ち神の分身であり、同胞であり、兄弟に等しく、同じ一つの空気を吸って吐いて生かされているのである。

一つの光と一つの空気、一つの慈愛の親の恵みによって、生かされているお互い人間であり、「大宇宙の昼夜休みなき恵み」によって生かさせて頂いているのである。それはつまり、自分で生きているという考えは誤信であり、錯覚であると云うことに他ならない。

私達人間はこの点でも更に考えねばならぬと思うのである。

それは、大自然の限りない恵みによって生かされている人間として、天と地に報ゆる心の道、心の目の開かない処に、現代社会の人間生活に何かと行き詰まりがあると思うものである。

大自然(かみ)の運行(はたらき)に添う心、神への奉仕観念の篤き人と家は、不思議と云ってよい程栄えている。思う事、為す事が順風に帆を上げた如くうまく伸展しているのである。

「何言うだぁ!」「恩もくそもあるものか!」「太陽が出るのはあたりめぇだ!」「今だ、チャンスだ!強いものが勝ちだ!」「早いものが儲かるのだ!」「とかく利益上げねば儲からない!」

・・・・・と集めねば、貯めねばという錯覚を持ってやっている人が、一時は儲けた様に、成功した様に見えるが・・・年限が経って五年、十年経つと、その家の親子、夫婦、兄弟の運命を鑑みたならば、ハッキリと精算が現れているであろう。・・・・人はこの世を、「金・物の世界」と勘違いをして居る人が多いのであるが、徳行なくして貯めた財は、貯まれば畜(たま)るほど、その人の運命は腐っていくものである。

地位の高い人も、その中へ入って親しくその内を見ると、地位や、金や、智慧でどうする事も出来ない苦労と、不幸の濁流が渦巻いている・・・。それは神理(かみのこころ)に添わないからである。

お互い人間生まれて来た時を省みて、誰一人として衣類を着けたり、お金を握って生まれ出た者はいないのである。

お互い素手で生まれて来たのである。

握らず、掴まず生まれさせられた一人一人である。それこそ生まれ落ちたは丸裸の素っ裸である。

持って来たのは金の玉二つ、貝がら一つの凹(ぼこ)と凸(でこ)との幸せである。

この相性は「陰」と「陽」で最高である。

が、これも使用一つ間違えると不幸となる。「性」も「色」も程々が安心であるが、それなのに欲をかいて持とうとするから良くない。・・・尤も人間は四生類や草木などより遙かに多くの自由の意志(こころ)を与えられている点にも、多々問題があると思われる。

人間は万物の霊長である故に、自分の意志を自由に働かせて、大宇宙の運行に型どり、種々のことを想像し、且つ行動することが出来る。

衣類にしても禽(きん)獣(じゅう)虫(ちゅう)魚(ぎょ)の類は皆自然に与えられていて、満足する外ないので、衣類のえり好みによる面倒は一切ないのであるが、人間は衣類、食べ物、住居、その他多くのものを制作するうえに於いて、自由意志を働かせ、それに伴う悲喜劇がついつい多く生じるものである。

従って人間の個別性と自由意志がからまる時、とかく個人的な欲望に負けてしまい、自由意志つまり「我が身かわいや」を働かせ過ぎ、反って自ら苦しめる破目になってしまうのである。

大自然(かみ)は永久(とわ)に生き栄え、豊かな存在であらせられるのである。

この地球上にある全てのもの。日々成長する万物。その悉く大自然の富であり、宇宙(かみ)は無限の豊かさを持っているのである。

私達人間はこの様な大きな富、大きな愛、豊かな宝物の満ちている中に生きているのである。

そしてそれ等は、咸(みな)神からのお恵みを授かっている。

人間(かみのこ)が自己の本性の尊さ知(さと)り、その尊い本性のままの智慧に依って、それ等の富を自由にすることも出来るのであるから、欲望に囚われず、また貧乏性にも陥らぬよう、豊かな心を持ってこの年も自信たっぷり敢然と起つべき事である。

自然の理法(めぐみ)とは昼夜野別をはっきりとし、然も永遠に変わらぬ働きであり、春夏秋冬歪(くる)いない幾万年、幾億年変わりない自然の恵み、それを動かす根本の力である。

この動きが人類を始め、あらゆる生命体に行き届いているので健康の身体で居られる。

然し、どれ程頑丈な身体の人でも、空気のない処へ行けばおしまいである。生き生きと茂っていた大木でも、土から掘り出した時、土はそのままであるのに樹の方は直ぐ枯れてしまう。

世の中には、神を私達人間と別々の様に考えて居られる方が多いように思うが、それは考え違いである。

神と我々人間は一体なのである。

よく考えて頂きたい。自然の理法(はからい)で創られ、守られているのをお気付きになる筈である。

我が心の着物である肉体の全てが、素晴らしい、見事な出来ではないか。

神(自然)の恵みほど素晴らしく、永遠なものはないと、今更ながら驚歎せずには居られない。

先ず、その顕れが一切の生命に「新陳代謝」の姿として顕れているのである。私達の身体の上について考えて視ても、脳髄の素晴らしい働き、目に見える運動、そして「耳」「鼻」「口」などの活動、「手の皮」「足の皮」の限りない消耗に対する不断の補充(おぎない)などを思う時、真実の人智で到底及ばぬ働きが、人のある限り、生きる限り与えられているのである。

この恵み、この働きは平等に、それこそ一秒の休みもなく、惜しみなく、お与え下さっているのである。

これが「親心」即ち「大慈大悲」の神理(かみのこころ)なのである。

従って心の着物である肉体全てが、神の守りである事に気付かねばならないのである。

更に私達、何人も、男も女も、此の世に生まれる以前より、自分で目的を起てて生まれてきた者は一人もいないはずである。

大自然(おやなるかみ)の摂理(はからい)で、自然の支配する永遠の天地を親として、生まれさせられ、守られ、生かされている。人間(かみのこ)であることを自覚せねばなりません。

然れば、人間(かみのこ)は親なる神の心を知って、大きく深く悟って、神が歓ぶ、社会を明るくする、人が助かる、神の理想の実現に文句も無しに、理屈も無しに各自の立場を通じて、精進努力することが、素直な神の子の道であると信ずるものである。

私達人類は傷ついた霊(みたま)、汚れた魂をあくまで磨き上げ、自己中心、物欲中心の人間(かたまり)の心を、敬神崇祖の念を体現し、御教示を求め、心の垢を洗い去り、且つ亦、御教示を心の糧として、如何なる事も天意(かみのこころ)が映ってくるような、明鏡の如き神心(しんじん)の本質を磨き出さねばならであろう。心一つの磨き方、持ち方に依って、如何なる神の恵みも頂ける道を大いに進行(すすみゆく)ことである。

新年を迎えて、腹の底よりおめでたいと自ずと慶ばずに居られないような、満たされた迎春。

「今年も神が私に生命をお授け下さっている」、私はそう思わずには居られない。

だから今、生命(いのち)があると云う事は「神が為さねばならぬ使命を与えて、私達に今年も生命を授けた」のだと信ずる。

此の御神意に添うて、唯ひたすらに希望の彼方に向かって正しく進む。生きて甲斐ある人生行路を波穏やかな良い波調に乗れる資格を得られ、安らぎの年が顕現なされますよう、自他共に祈ってやみません。

徳は此の世の主人(あるじ)と云われる。

従って、この「徳」のある家や人には何事も面白い程総てが運び行く。

即ち「運が良い」、萬事順調である。

それこそ「しまった」「損をした」「外れた」「悔しい」「痛い」「つらい」「苦しい」「悶える」等の病気や事件には御縁がないのである。所謂残念な事が一つも起こってこない。ついてくる子供もみんな素直、それこそ非行に走る子など一人も生じない。大自然(かみ)の繁栄(さかえ)と共に、家運は伸びて、栄える、そして太らせて頂き家運は隆盛になるのである。

本年も愈々と一家揃って徳行に励み、心の糧を充分にとって、心の健康を保持し、感謝の心を造る神への御恩報示あるのみである。

その道筋が進行であり、真行であり、信仰である。

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2006年12月24日 (日)

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

更新できなかった間に、少し古くなってしまいましたが先月の会報の原稿をアップしたいと思います。

時節的に少し遅れているかも知れませんがご容赦賜りたいと存じます。

「根」と「元」と「情」と感謝報恩

 秋の長雨とか昔から言われる。

本当に良く降ったものだが・・・。

それでも雨が降り止むとやはり秋。天高く澄み空はさわやか、山野の紅葉も私達の眼を楽しませてくれたが、早晩秋ともなると、あれほど美しく錦秋を飾った山野草木も何となく色褪せてくる。

落ち葉ひらひら風に舞い、遙かに眺める霊峰富士の御山も白い烏帽子を頂き、秋はもう冬を宿しているのだろうか・・・。

あぁ、そう。そういえば朝露がキラキラと銀色に光って美麗なる霜を見た。

季節は間違いなく冬に向かっている。そう、目前に本年最終の月が迫っている。

「十二月は裁きの月だ」と我が師が言っていたが、間違いなく銘言である。

行き詰まり、倒産、サラ金、夜逃げ、家出、強盗(ぬすみ)、殺し、放火、心中、自殺・・・等々、傷ましい非業のニュースが今年の暮れも賑わうことと思える。

「十二月は反省の月でもある」と言われていたが、来月ばかりが反省月とは決まってはいない。大自然の運行に行き詰まりはないのに、小自然たる人間に行き詰まりがあるは不自然なことである。それは人間が小自然(カミノコ)として行くべき道を間違えているからであって「いやな暮れが来る」と嫌がっても、暮れを越さなければ楽しい正月も来ないのである。「雨はもういやだ」と叫んでみても降る雨は止まない。「冬は寒いからいや」と嫌っても冬は来る。

冬があればこそ陽春(はる)がある。

暑い寒いも、昼も夜も、花も嵐も、師走も元旦も、大自然(かみ)よりの贈り物と思えば、どうせ頂かなければならないそれらを喜んで頂ける「心の器」を平常作っておきたいものである。

人間萬事、平常の徳行が何よりも大切な事である。

「今年はきっと良い花を咲かせる。良い実(身)を求めたい構想を起てて出発した」

そんな年の初めの、お互い一人ひとりであった筈ではあるまいか・・・。

良い花を、素晴らしい実を稔らせるには良い因(タネ)を蒔かねばなるまい。

それは人生を豊にする善行の種子(タネ)である敬神崇祖を基とし、人々の社会への愛行の種である。

種を蒔いても発芽させるように努力せねば花も咲かない。良い実(結実)を求めたいにも拘わらず、世話を惜しみ、水もやらず、良い肥料を施さないというのでは、良い運命の花は咲かないのである。

この世の全てのものは限りのない自然(かみ)の恵みに守られ生かされていることを努忘れてはならない。

自然の恵みということが生かされるものの最大の「恩」ということになる。

例えば、今美しく咲いた菊の花も自分の力だけで育って咲いた訳ではない・・・。

人間然り。自分一人の知恵や力のみで生きて居るのではない。あらゆる御恩に依って生かされているのである。その御恩が「根」即ち「神、先祖、親」であり「元」其れ即ち「会社、店、師」である。

「根」と「元」を大切にする心の行いが「自然」即ち「神」の道に添うことである。

人も、家も、団体も、そして草木も・・・・・。

生命ある一切のものは大恩の道に繋がることを忘れ、「根」に肥を培う事を怠ったならば絶対に栄えることはない。「枯死」する他に道はあるまい・・・。現代の世相を見るに然りである。

日夜、夜毎に後を絶たない今日の暗い出来事、ニュースは世間を恐怖と不安に陥れている。

あぁ・・・悲哀なるかみの叫びを・・・これが萬物の霊長(おさ)たる人間の為せる業かと・・・。我、今八百萬の神々坐すこの国にあり、その神々の恩により生きる者として者として激しい憤りさえ沸いてきてならない・・・。

人間一人の生命は一朝一夕のものではなく、悠遠の歴史を経て初めて存在することが判る。だからこそ「一人の生命は地球よりも重い」とし、人権尊重とも謂う。この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性の、その偉大さに触れているからであり、それが心から納得できれば、大抵人はこの言葉を聞いた瞬間に自己の生命にかけがえがないということを考え、大生命(かみ)、或いは先祖への感謝の念は自ずと湧き出てくる筈である。

尚また、人類全ては何処かで血の繋がった同輩である事も理解でき、真の平和への願望の基点は、実に其処にあるのだと悟ることも出来よう。

しかし、平和は口で唱えたからといって訪れるものではない。

お互い生身の身体。軈ていずれは此の世を去らねばならぬからこそ、当てになるうちに心を磨き、自分を鍛え、己々生命を世の為、人の為に役立て、立派に生かし切りたいものである。

身体は神様からのお借り物。しかもタダである。契約書もなければ借用書一枚も書いた覚えはない。請求もなく無料で拝借し、こうして生かされて居られる身の有難さ・・・これを思う時、何を以て神恩に報いん。此の世の最高動物として生かされて居る以上、人間(小自然=カミノコ)として無意味に生きてはならない。自己の責任を反省しつつ、決意を込めて真の人間らしき行動でありたい。それは誰でも本来無上に尊く生まれているが故に、その本来の偉大性は失われることがないからである。

斯くして神への奉仕、一歩でも神に近づき身を清め、その御教示(みおしえ)を心の糧とする。

ご先祖の御霊には手を合わせ、神前に出れば心の誠を込めての礼拝、感謝の念を捧げる時、希望と励ましの生き甲斐が、自ずと見出されてくるものである。

人は本来「神の子」である。

故に大自然と共に、常に栄えねばならない。だから誰でも悠揚(ゆうちょう)と無邪気と、歓喜と平和そのものを味わってゆく事が出来る。

だがこれも凡人には一時的であり、真の道(=神の道)を行く人は永続的なものであろう。

・・・古来、どのような神社であっても共通して「報恩感謝」の念の大切さを説いてきている。

だが、現世の多くの人は自己中心的な考えに固まり、それが根源となり様々な問題を引き起こしている。もっとも愚かなことは人心の荒廃が色々な形で現れているが、先ずこれも「感謝の心」がないからである。

昔は「もったいない」「冥加に尽きる」などとの有難い言葉があったが、この節このような言葉は暫く耳に触れない。

物の総ても何一つとして自分の力だけで造り出すことなど出来ない。

全てが、人を生かす為に自然、神から恵まれたものから出来ている。そしてこれ等を完全に生かして使うことが、人間の働きをより高める基になるのである。

「困らないから」「豊かであるから」といって、全ての人が無駄遣いに慣れてしまえば、いずれ物資の欠乏を招き、人間生活に破綻が来ることにもなりかねない。

「物」が少ないから大切にするのではなく、「物」の「元」になる大自然の恩恵に対し、又、造った人の御苦労に対して感謝の気持ちがあるからこそ「物」を大切にする、とあるべきである。

覚えているが

今世は物質的に確かに恵まれたが、その恵まれた社会が「感謝」を失いつつある。

「感謝」どころか、自己の生命の本性の偉大さも何処にあるのか忘れ自尊を弁えない。

従って不平不満だけは、故に互いに交流し共通の文化と相互理解とを高める為の「時間」も「修練」も、「誠意」も失いつつある・・・。

それだけに我々は「貧しく」なったのである・・・。

さもあろう・・・。便利でスピード科学化した生活は反って味気なく、人間の心根をカサカサに乾かしては居るまいか・・・。

ボタン一つでご飯が炊けて酒に煙草、食料品も機械が売る。電車の乗車券も機械が売ってくれる。失業者が増えるのも当然といえよう。糠味噌を掻き回したり、漬け物を刻んだりするのは凡そ近代的でないと云う。果たしてそうであろうか・・・。

そう云われれば、都内には俎板のない家庭が多いんだとか、知人に聞かされた。

進む機械も科学も・・・総て人間を育てる為にあるものを、逆に人間が押し潰されては居まいか・・・。人と人との語り合いや、国と国との温かい呼びかけ合いや、湧きいづる人間味を、科学化した近代生活が遮断するのであれば、其れは近代の「進歩」ではなくて人間の「堕落」であり「悲劇」である・・・。

然れど待て・・・。人間が長期に渡って考え抜いた挙句に出来上がったのが現代の科学である。

目に見えぬ神の御援助は大なるもの。表面上は人間自身の努力の結晶である。「大自然(かみ)は科学という物をお与え下さっている」と思えば、文明の利器に対しても合掌の心が湧くであろう。だが云う。

予告無しにミサイルの発射は御免だ!!

あまりにも卑劣と云うものだ。隣の国に恐怖を与えて、其れで居て「何が悪い」とシラを切る。御免なさいの一言も言わない・・・。世界は一つと言われるが、斯くの如くに「情けない国」もある。読んで字の如く「情けない」とは「情」が「無い」ことである。古来より「情」のある人を「ぬくもり」のあるお方などと云われ「あたたかみ」に通じる。「情」のない国、従って「冷たい国」、俗に云う「恩(温)知らず」の国と云われても仕方あるまい。・・・さもあろう。物資(もの)が足りない、食料が無い、人民が餓死状態だと他国に救いを求め日本を始め各国からの援助を得られ、挙句の果てにミサイルまでも大量に出来たほど脹れたのは一体全体誰の御蔭かと言いたい。其処まで脹れるほどに出す方も出す方だが・・・。

だが然し、「恩」は「売るべき性質」ではない。けれど「恩」に報いる人、「恩」に報いる家、或いは国は必ず成功発展を視るであろう。今はむやみやたらに発射する程ミサイルを持って居ても、「情」のない国であったら必ず「情けない」と泣く運命の時が来るであろう。

「情」は「上」に通じて昇格を得る。

「情」は「丈」なり。「丈」なり上等の反物の長さよ・・・。

「情」は「成」に通じ、「情」ある人である故に成功する。

「情」は「盛」なり。繁盛する。

「情」は「常」に通じ、「常」に「ぬくもり」の心で周囲(まわり)の人達に接したいものである。常に思いやりの心、好意ある言葉、こういうものをいくら振りまいても損する訳でも減る訳でもない。

「人」と「人」の「間」を「人間」と云う。

その「人間」が社会を為している。お互い気持ち良い交際(つきあい)をしたいものである。

常に相手に対して良い感じ、温かい気持ち、平和な愉快な、何と無しに懐かしい、有難いと云う感じを与えたいものである・・・。

其れには洋々たる度量と臨機応変の才と縦横諧謔の才とが必要である。

人間誰しも自己の優秀を求むべきものである。先ず、自己を充実すべく努力するべきである。徒に虚名を博することを大なる恥とすべきである。志を高く持ち、若き日の自己を尊重し志を高く持つ者には「堕落」はない。晩年になって「我過てり」に気付いてももう遅いのである。若さは金で買えない。

昔、伊達政宗候が宮城・松島は瑞巌寺に参詣した折、其処の寺男をしていた男が寒い時期であったので、その履物である処の下駄を温めてあった事が政宗の誤解を招いた。短気で放翫な政宗が「予の下駄が温かいのはその男が尻に敷いていたに違いない」と思い、弁解の暇もあればこそ・・・その男の顔を下駄で蹴り上げ、額が切れた・・・。自分の親切が仇になった、寺男の無念さは察するに余りある。が、相手は殿様。どうすることも出来ぬ。その男は瑞巌寺から暇をとり、京都は嵯峨の天竜寺の寺男に住み込んだ。寺男をしながら仕事の中にも、しきりに和尚や他の僧達の言動に注意している様が尋常でないので、軈てその管長に愛され、専心に修行をした結果、禅の要諦に達したのである・・・。その上、位階も昇って遂に松島瑞巌寺の住職となって帰って来たのである。その間の困苦精励(こんくせいれい)がどんなで在ったであろうか。全く浮いた話どころではあるまい・・・。事情を知らぬ伊達政宗は新たに瑞巌寺に来た高徳の僧と云うので慇懃に迎えた。その時、新住職が政宗に大切そうに見せたのが、あえて自分の額を切られた下駄であった・・・。実にその新住職にとっては政宗に蹴られた下駄こそ何よりの宝である。この下駄が在った故に発奮したのである。誰であっても、寺男から瑞巌寺の住職になる程の困苦精励をするならば、今の世ならいっそう高所に昇れるであろう。この住職こそ有名なる雲居禅師のことである。

人間はいつでも自分に備わる無限の可能性を忘れてはならない。

その無限の可能性をどのようにして掘り出し、磨き立てるか・・・。

神は教えを通じ吾を力強く守り給う。

大自然の「根」「元」に添う道を歩み続けること・・・「情」ある人であり続けること・・・。

世の為、人の為に尽くし得る大人物に為さしめ給えと強く祈る。

神は必ずそれに答えて知恵を授け給うことであろう・・・。

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2006年11月 7日 (火)

繁栄と幸福への道 ~全文掲載~

繁栄と幸福への道

 人間の幸福を妨げているものはいろいろあると思うが、そのうち主なものは先ず病気心の悩み(心配事)、それに貧乏と云う事の三つであるように思われる。

 この三つのうち一つもない人があったら、その人はすでに「幸福な人」であるが、大抵の人がこのうち一つか二つ、或いは全部を持って苦しんでいるのではないかなどと思う事もある。

 いや、そういうことを言う自分自身、此の処健康を害して病院通いを繰り返していた私は、つくづく健康の優れないのを悲哀に感じたもので、「先ず人間は働かねば」と思っても、体調の優れない体ではその気力もなかなか出ない。

「食欲がない」「食べられない」「痛い採血」「苦い薬」「検査」・・・・。
病気には金持ちと貧乏人、地位の高低などの区別はない。
それこそ、医者の言うなりに、医者の言うことを「ハイ、ハイ」と信仰してしまう。
それも治ればよいが、働き盛りの若さで死んでしまう人もいる・・・。

 金のない者は、何かにつけ「金さえあればなぁ」などと思う。
確かに、実際は金さえあれば都合良く行く事が金のない者には沢山あるが、その「お金」がなかなか手に入らない。
 誠に四百四病の病より「貧」ほど辛いものはない・・・。
昔から「貧乏」である為に如何(どんな)に多くの悲劇が行われたかは言うまでもない。特に「貧乏」のうえに、「病気」や「心の悩み」が加わるとその人達の生活は、まさに此の世の地獄、かくて甚だしいのは無心の幼児を道連れに「一家心中」まで起こり場合もあり、そのような人の全てを先ず、「貧」から救い出す方法(てだて)がないかと思うものである。然し、不況の時代と見聞する。職を探しても職場はそうざらにある訳でない・・・。

 思うに現代の医学が日に、月に進歩しつつあることを喜ぶものであるが、だが然し如何(どんな)に行き届いた医療を受けても治らぬ、などと云う処を見ても、まだ現代医学では完全な治療効果をあげ得ないことであり、勿論医者にかかれぬ「貧乏人」の中には医者にかかれば治る人も居られるで在ろうが、そのような人を救い上げるとともに、全ての人を病人にする以前に、生涯健康で通させる方法はないものであろうか。
 然るに、お互い生身の身体(からだ)を持っている一人一人である。

 それにまた心の悩み、即ち心配事のある人は「この心配事さえなかったらなぁ」と思う。例えば「夫婦間の不和」「親子の不和」「親族との争い」「父または息子の酒乱」「息子の暴力」「浪費」「不良」「先天的な障害」「結婚難」「失業苦」「上役との不和」「借金の苦しみ」「事業の不振」等々、そういう心配事のある人は、その為に安眠も出来ず、毎日悲しみの日々を送るのであろう・・・。

 さて、これら三つの悩み、即ち「金がない」「病気」「心の悩み」とは、そのうちどれ一つあっても、その人は本当の「幸福の人」とは言えないのかも知れない。
 然し、今は科学が発達している時代である故に「心の持ち様」が損なわれている様に散見される。

 本来は科学の進歩同様、我々の考え方も進まねばならぬのではなかろうか・・・。
これら三つの苦悩を全て無くして、誰でも幸福に浸ることは出来得る道はないのであろうか・・・。

 その道がどのような道であるのか・・・。

これから皆様方と一緒に訪ねていくことにしたいと思います。

 想うに春は草木が芽を出し、軈て地上に色とりどりの百花が咲き乱れる。
夏は、草木がいずれも深い緑をたたえて力一杯の繁栄を誇っている。
秋は、草木が其の実を結んで収穫に忙しい。
冬は、草木が悉く枯死せるかと思いきや、この間に春への準備を整えている。

 斯くの如く、春夏秋冬の草木の秩序ある年々の営みの奥には、草木をして、このように在らしめる大きな宇宙の法則。即ち大きな生命の作用があるに相違ないことは、何人(なんびと)にも信じられる。かかる大生命の作用は、勿論、人間その他の生物にも其の作用を及ぼして、其の繁栄をなさしめているのであり、其の特色は其処に一切偏頗(へんぱ)が無いと云う事である。如何なる生物にも、如何に正しい者にも、正しからざる者にも、偏頗無く太陽の光と熱とを与え、雨を降らし、水を施し、空気を与えるのが、其の特色なのである。

 つまり万物と万人とを栄えしめるのが、大生命の作用であり、万物の間に大調和があるのもその為であられるので私達もまた、この大生命の作用に準じて、平生すべての人が栄えるように行動する事が、大生命の作用に依って生かされている人間として、最も正しい生き方である事を知らねばならない。

 これを実際生活に当て嵌めて言えば、すべて各国間が平和を欠き、或いは各個人間が調和を欠いて世の中が騒がしく、人々が不幸な生活をするようになる。其の根本原因は兎角、国家でも、個人でも身贔屓、利己主義が過ぎて、多と共に栄えようとする精神を欠くからであり、言い換えれば、大生命の等しく万物を栄えしめる心に背いている行いが、各国と各人の幸福な生活を乱す基となるのである・・・。

例えば・・・或る一団が共同で仕事をした。其の利益を一団が栄えるように分配し、使用すれば問題が起きない事が多い。然し、其れを誰かが、或いは銘々が、自分独り多くの分け前を取ろうとすれば、其処に不和が生じ、不幸が芽生えるのである。
この簡単な例によっても理解されるように、全ての人々が幸福に暮らす道は、常にすべての人が栄えるように各人が行動するにある、と云う事であろう・・・。

 例えば茲に素晴らしい科学の利益がある。其れを或る国が利用し、他国を征服する為に用いたとする。他国を征服する為に使用(つかう)事になれば、他国が脅威を感じて其処に不和が生じ、其の対策の為に・・・、それから其の国々の不幸、国民の不幸が生じる・・・。
 然し、其れ等を悉く自国と他国とが共に栄える為に使用する心構を持ち使用したならば、その為に幸福は大きく増しても、不幸が増す事はないであろう。
此の事は科学の発達に依り、一切の利益も、等しく万人を繁栄せしめる道に沿うて使わねばならぬと云う事を、大自然、即ち親なる神が教え給うものであろう。

 斯くて各国と、各個人が等しく幸福に栄える精神指導は、常に万人が共に栄える、宇宙の繁栄道に遵うに在りである。

 斯くの如く、科学の発達による便利をも含めて、あらゆる場面に於いて、前回に述べたような人々を幸福にする一大指導精神が発見されてくると自分が尊いこと、即ち「己」の大切さが分かってくる。
 そのような感性に目覚めた者は、万物を見る目がそれ以前とは違ってくる。
言わば森羅万象の全てを生命的に見る眼、大生命の個別的顕現「物事をはっきりと顕すこと」と見る眼が啓けたりするもので、其処に生えている一本の草や一本の木を見て「神格化」さえ覚えるようになるものである。

このことを我が師の言葉をお借りするならば「宇宙の繁栄道、大原則」であるという。

 「宇宙の繁栄道」とは?
目に見える現象界の奥にあって「現象界を斯くしめている」目に見えぬ宇宙の大法則のことである。それは永遠の過去から、永遠の未来にわたって日夜に万物を生じ、万物を育て、且つ万物を栄えしめつつ、然もその間に大調和在らしめている道のことである。
そのように全ての生き物をその胎内で育てている「宇宙」そのものは、生きているに相違ないと見るのが師の、そして私自身の着眼点である。
なぜならば、生き物は生き物からしか生まれないからである。
宇宙を大きな生物、即ち「大生命」とはこのことを指し、云うのであり、所謂人類は「小生命」である。
故に宇宙はそのまま大きな生命であって、その大きな生物の作用が万物を栄えしめているのであると、我が師、そして私は信じるのである。

 私達は「小生命」たる人間として、このような「大生命」の作用を端的に「宇宙の繁栄道」と、そう呼んでいる訳である。
従って私達のいう「宇宙の繁栄道」「宇宙の大法則」の事であり、所謂「大生命の作用」を云うのである。

 この宇宙間には斯くの如く、万人を繁栄、幸福に導く「一大鉱脈」が在る事を知った者は幸いである。自己の繁栄を希う者は、この道に帰一すれば良い、自己の健康を希う者もこの道に精進すれば良いのである。
この宇宙がそのまま一つの大きな生命である事を知り、人間を始めとして、万物は皆その大生命の胎内に生じている小生命であること。
言い換えれば、万物は皆、「大生命」の個別的顕現であることを理解し、「大生命」と「小生命」たる万物は一体である知り、悟るのがそれであろう。
その様な生命観、一体観を宗教的に把握するのを仏道では「悟道」とか言うが、それは科学的な教理や実験、推理に依らずに、その人の心身が浄化し尽くしている時に「パッ」と直感的に感じる、その体験体得が「悟り」であり、「所謂大生命と小生命とが一体になった事を感じた」その瞬間であり、まさしくそういった体験こそが、「惟神の大道(かんながらのみち)」で在るに相違ない。

斯くの如く小生命なる人間も尊い存在であるが故に、自分の心掛けに依っては、其処から素晴らしい智恵を幾度も引出し得る事も出来ると信じられよう。
世の多くの諸人達よ、これから志を立て万人を等し栄えしめんが為の着想につき、大生命の宝庫の鍵を開けられるべきであろう。
言うなれば、その時、その場に於ける、苦心と努力が神の御心、即ち「惟神の大道」に添うて居れば幸福に繋がって行く。そして不自然な自己本位の利己主義が、不幸の因(たね)となるのである。

 自然は正しく神の理(コトハリ=こころ)に添うて努力する者、精進する者、神恩に報いて感謝、奉仕する者には絶対に不利益な精算はしない。
正しい心に精算が現れ来て、心豊かに暮らせ得るのである。

以前、本報に寄稿した「苦は楽の種」という原稿があった。
その原稿の内容に対し、ある御仁から御質問を頂戴した。
「苦労」と一言に括っても「必要な苦労」と、そうでない言わば「しなくても良い苦労」と両方在るのではないか、そういった主旨であった。
そして更に質問は続き、「悦び」から人は成長できぬものだろうかと、そう仰っていた。
成程、確かにそうかも知れぬ、と一面ではそう思う。
然し、これは表裏一体のものでなければならぬとも感じた。

 「運命」とは、読んで字の如し「運んだ命」である。
お互い一人ひとり、心と身体が一つになって、一時間、一日、一ヶ月、一年と進めて通った道筋、過去からが「運命」である。

 また「因縁」という言葉がある。
言葉は違っても「運命」という言葉と同じものであろう。
「因縁」も「因」が心であって「縁」は年月、時間である。
この過去歩んだ道程が自己中心主義のものであるのが「悪運命」であり、「悪因縁」である。反対に、神恩に報い、親や社会の人の幸いを中心とした道筋の歩み方が「善運命」であり、「善き因縁」である。
「大生命」の偉大なる御徳を我が心として、他を活かす者は活かされ、他を繁栄せしめる者は自ら繁栄し、自己本位で他を繁栄せしめない者は自らも繁栄しないことは必然である。
神の御心を我が心とせず、自らの使命に叛く人は生活にも悦びがなく、感謝の心は更にない。自分だけの満足をひたすらに独占しようとして全ての愛を失い、その代償として苦しみは増すばかりである。
世の中に尽くしてゆくことが人生の意義であり、また私達は世の中から無限の恩恵を受けている。「共存共栄」、即ちお互いに与えあってこそ本来の世の中が成り立つのである。

 そしてこれは己のことばかりではない。このようにして作った「悪因縁」「天借(てんしゃく)」である。即ち自分のみならず、その家の子孫に受け継がれるものである。
本来、生まれてきた子供には何の罪も科もないはずである。
然し乍ら、生まれながらにして先天の病を持つ子が生まれたり、その子供が生まれ落ちて後に謂われのない暴力を受けたり、迫害を受けることもある・・・。
それはまさしく祖先や親、或いは宗教的に言う「前世」の残した「悪因縁」のもたらす「災厄」に他ならない。

 然し、反対に考えるのであればその生まれ落ちた子供はその「悪因縁」を払い、「天借」を返すことの出来る、その大きな力を、運命=因縁を持った子供なのである。
そしてその子供を大切に育てることに依って、またはその色々な苦労を背負ってしまった子供の場合は、酷であるかも知れないが自らの不断の努力に依って、自らの、更には子孫末代までの幸福、繁栄の道を模索せねばなるまい。
その為には与えられた命に対して心の眞底より感謝の誠を捧げ、与えられた艱難辛苦も神慮の試練として迎え、それらを悦びとして迎える心構を養うことである。

 今回のこの御質問は私自身の考察を深めるためにも非常に有意義な御質問であり、有難いものであった。この場をお借りして一言、御礼と感謝の念を表させて頂くこととする。

 現代は物質(もの)が豊富にあり、何でも簡単に手に入ってしまう世の中故か、与えられることに慣れてしまい、其の事に感謝の念を抱くことが出来ていない人達が多く見受けられる。
 恩恵は権利を主張して求めるようなものではない。其の人間の世の中に尽くす行為に対して自ずから与えられるものである。
労せずして得たようなものは、決して長くは身につかないばかりか、結果は元も子も無くなるであろう。行き詰まって人間は思案する。自分自身に良くないことと云う事が判れば直ちに不業績の心の持ち方を更える事である。そして結果が転換するほどの善い行いを積極的に断行することである。

 人間いくら理論が通り、頭が良くても、財産があっても大生命(かみ)の法則、即ち「大宇宙の繁栄道」に添わねば、運命的に負けて終いである。徳積とは過去の悪行が次第に消えていくものである。
 なるが故に、人間、即ち小生命(かみのこ)は天地自然の無限なる大愛に感謝し、自分以外の人の幸福の為に善根を施す徳を積む事の実践が大生命(かみ)より信頼篤く、御神恵多き、尊い人であり、このように人間の本性が最も尊いもの、善なるものであることを知る者は幸福である。

 以上私達はこれまでに、私達小生命は宇宙大生命と一体である事を知(さと)り、従ってまた、私達の小生命は本来、この大宇宙に鳴り亘るものであることも知(さと)った訳で、このことは言い換えれば、私達もまた宇宙の繁栄道の体現者であり、現世に於ける任務・・・即ち人生の目的は我々が現世にある間に宇宙の繁栄道を実践しつつ、万人と共に豊かに幸福な生涯を送るにある、ということである。
 斯くて私達の尊さは、宇宙間の万象をして、大生命の尊さと同じである、ということである。

 昔、お釈迦様が「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたそうであるが、若しこれが釈迦自らだけの事を仰ったのであれば釈迦は大変な独善家であろう。
 が、しかし、本当はそうではなく、釈迦は全ての人の本性が「天上天下唯我独尊」であると言われたのだろうと信ずる。それは釈迦が三十五歳の十二月八日に悟りを開いた時「我と大地有情と同時に成道(じょうどう)す」と仰った。
 この言葉は即ち釈迦が悟りを開いてみたならば、この世のありとあらゆる生命(大地有情)が悉く同時に成道している(自分と同時にそのままを本来悟っている)ことを知ったと云う意味であるが、その事実に依っても釈迦は全ての人の本性の尊さを知っていたものと察せられる。

 天照大神を始めとする八百万の神々においても、この世のありとあらゆる生命に対し偏り無くその尊い恵みを与え給う。また、天照大神からの御皇統を受け継がれる天皇陛下においては一年三百六十五日、日々欠かすことなく全人類の繁栄と幸福をお祈り下さっている。

 斯くの如く人間の本性が最も尊いものである。
 また、その本性が善であることを知る者は幸福である。

 昨今、親子間、家族間においていたましい事件が後を絶たない。

 昨年であったか、父親に馬鹿にされたと言って、十五歳の少年がその父と母を殺し、その上爆発物を仕掛けて遺体を消失しようとした事件があった。
 恐ろしい極みである・・・。

 子供を馬鹿にすることも迂闊に出来ない・・・。いや、父親は馬鹿にしたわけでは無かろう・・・。

 しかし、ここに於いて世の中の全ての両親(おや)は我が子の善なる本性を信じ、進んで我が子に惚れ込まねば成るまい。
 学校の成績がどうであろうと、いま如何に無能が現れていようとも、その本性は宇宙、即ち大生命と同じように尊くまた、他日に至れば万人の繁栄の為に尽くす者であると思えば粗末には扱えないと云うことである。

 私達は若き日の不良児や学業不成績の者が他日有用な人格になった、幾多の事実を知っているはずである。

 斯くの如く、子供の良き本性を開拓してやる道は、ただ親が子供の善性を絶対に信じて、それを常に言業(げんぎょう)に表すという、日夜の親の行いに依る。全ての親は心から子を愛し、それが立派な人物に成長するのを望み乍ら・・・。
 不良にしてしまわぬ為には、あくまで本性の善を見て、それを育み続けることであろう。若し子供に不良の兆しが見えたなら、尚更その子の善なる本性を見てその子を愛育するならば、その時は子供も必ず親孝行な良い子供に成長していくのであり、万一そのようにしても尚、子供が親に迷惑をかける場合、その子を責める前に、先ずその親が因果について反省すべきなのである。

 その為に親・・・全ての大人達はこれらの反省を活かし、困難に負けること無く、挫けることなく、明るい未来へと邁進すべきである。
 大生命には行き詰まりが無く、常に明るい希望、未来を惜しみなく我々に与えて下さるのである。神、そして両親に与えられたこの命、この身体で全身全霊を以て打ち込み、いざ世の為、人の為に楽しく、明るく起動させ、身命に従い徳業に邁進し、神から人として授かった五体、五感、五情、五味、考えれば手の指も、足の指も五本、これらを正しく、充足に働かせることが何よりも大切である。
 この事に気付き、心と身体を生き返らせ、新しい息吹の基に邁進する、その姿こそを子供に見せ、伝えていかねばならぬのである。それ即ち「宇宙の繁栄道」に沿って生きることに他ならない。

 それこそが繁栄と幸福への道であり、人として、親として、最大の財産作りとなっていくのである。

                                              了

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2006年11月 5日 (日)

繁栄と幸福への道 ~その4~

ここまで続けてきたこのシリーズも今回が一応の最終回となります。

かなり間隔が空いてしまいましたが、全四回を出来ることならば通して読んでいただけると幸いです。

繁栄と幸福への道 第四回

 以上私達はこれまでに、私達小生命は宇宙大生命と一体である事を知(さと)り、従ってまた、私達の小生命は本来、この大宇宙に鳴り亘るものであることも知(さと)った訳で、このことは言い換えれば、私達もまた宇宙の繁栄道の体現者であり、現世に於ける任務・・・即ち人生の目的は我々が現世にある間に宇宙の繁栄道を実践しつつ、万人と共に豊かに幸福な生涯を送るにある、ということである。
 斯くて私達の尊さは、宇宙間の万象をして、大生命の尊さと同じである、ということである。

 昔、お釈迦様が「天上天下唯我独尊(てんじょうてんがゆいがどくそん)」と言われたそうであるが、若しこれが釈迦自らだけの事を仰ったのであれば釈迦は大変な独善家であろう。
 が、しかし、本当はそうではなく、釈迦は全ての人の本性が「天上天下唯我独尊」であると言われたのだろうと信ずる。それは釈迦が三十五歳の十二月八日に悟りを開いた時「我と大地有情と同時に成道(じょうどう)す」と仰った。
 この言葉は即ち釈迦が悟りを開いてみたならば、この世のありとあらゆる生命(大地有情)が悉く同時に成道している(自分と同時にそのままを本来悟っている)ことを知ったと云う意味であるが、その事実に依っても釈迦は全ての人の本性の尊さを知っていたものと察せられる。

 天照大神を始めとする八百万の神々においても、この世のありとあらゆる生命に対し偏り無くその尊い恵みを与え給う。また、天照大神からの御皇統を受け継がれる天皇陛下においては一年三百六十五日、日々欠かすことなく全人類の繁栄と幸福をお祈り下さっている。

 斯くの如く人間の本性が最も尊いものである。
 また、その本性が善であることを知る者は幸福である。

 昨今、親子間、家族間においていたましい事件が後を絶たない。

 昨年であったか、父親に馬鹿にされたと言って、十五歳の少年がその父と母を殺し、その上爆発物を仕掛けて遺体を消失しようとした事件があった。
 恐ろしい極みである・・・。

 子供を馬鹿にすることも迂闊に出来ない・・・。いや、父親は馬鹿にしたわけでは無かろう・・・。

 しかし、ここに於いて世の中の全ての両親(おや)は我が子の善なる本性を信じ、進んで我が子に惚れ込まねば成るまい。
 学校の成績がどうであろうと、いま如何に無能が現れていようとも、その本性は宇宙、即ち大生命と同じように尊くまた、他日に至れば万人の繁栄の為に尽くす者であると思えば粗末には扱えないと云うことである。

 私達は若き日の不良児や学業不成績の者が他日有用な人格になった、幾多の事実を知っているはずである。

 斯くの如く、子供の良き本性を開拓してやる道は、ただ親が子供の善性を絶対に信じて、それを常に言業(げんぎょう)に表すという、日夜の親の行いに依る。全ての親は心から子を愛し、それが立派な人物に成長するのを望み乍ら・・・。
 不良にしてしまわぬ為には、あくまで本性の善を見て、それを育み続けることであろう。若し子供に不良の兆しが見えたなら、尚更その子の善なる本性を見てその子を愛育するならば、その時は子供も必ず親孝行な良い子供に成長していくのであり、万一そのようにしても尚、子供が親に迷惑をかける場合、その子を責める前に、先ずその親が因果について反省すべきなのである。

 その為に親・・・全ての大人達はこれらの反省を活かし、困難に負けること無く、挫けることなく、明るい未来へと邁進すべきである。
 大生命には行き詰まりが無く、常に明るい希望、未来を惜しみなく我々に与えて下さるのである。神、そして両親に与えられたこの命、この身体で全身全霊を以て打ち込み、いざ世の為、人の為に楽しく、明るく起動させ、身命に従い徳業に邁進し、神から人として授かった五体、五感、五情、五味、考えれば手の指も、足の指も五本、これらを正しく、充足に働かせることが何よりも大切である。
 この事に気付き、心と身体を生き返らせ、新しい息吹の基に邁進する、その姿こそを子供に見せ、伝えていかねばならぬのである。それ即ち「宇宙の繁栄道」に沿って生きることに他ならない。

 それこそが繁栄と幸福への道であり、人として、親として、最大の財産作りとなっていくのである。

                                                  了

後日日を改めて、全文を一つのエントリとして掲載したいと思います。

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2006年9月14日 (木)

繁栄と幸福への道 ~その3~

今回で三回目を迎えたこの連載ですが、やっと当社の会報にも載せる運びとなり、八月の最終号から掲載し、連載の方はもう既に前回、前々回の分は掲載致しました。

次号では今回の分を掲載する予定であります。

また、掲載にあたって、第二回までの評判でなかなかの高評価を頂戴し、与えられたスペースが多くなった為、今回はここまでの三回の中で一番の長文となってしまいました。

読みにくいかも知れませんがどうか御容赦頂きたいと思います。

繁栄と幸福への道

 斯くの如く、科学の発達による便利をも含めて、あらゆる場面に於いて、前回に述べたような人々を幸福にする一大指導精神が発見されてくると自分が尊いこと、即ち「己」の大切さが分かってくる。
 そのような感性に目覚めた者は、万物を見る目がそれ以前とは違ってくる。
言わば森羅万象の全てを生命的に見る眼、大生命の個別的顕現「物事をはっきりと顕すこと」と見る眼が啓けたりするもので、其処に生えている一本の草や一本の木を見て「神格化」さえ覚えるようになるものである。

このことを我が師の言葉をお借りするならば「宇宙の繁栄道、大原則」であるという。

 「宇宙の繁栄道」とは?
目に見える現象界の奥にあって「現象界を斯くしめている」目に見えぬ宇宙の大法則のことである。それは永遠の過去から、永遠の未来にわたって日夜に万物を生じ、万物を育て、且つ万物を栄えしめつつ、然もその間に大調和在らしめている道のことである。
そのように全ての生き物をその胎内で育てている「宇宙」そのものは、生きているに相違ないと見るのが師の、そして私自身の着眼点である。
なぜならば、生き物は生き物からしか生まれないからである。
宇宙を大きな生物、即ち「大生命」とはこのことを指し、云うのであり、所謂人類は「小生命」である。
故に宇宙はそのまま大きな生命であって、その大きな生物の作用が万物を栄えしめているのであると、我が師、そして私は信じるのである。

 私達は「小生命」たる人間として、このような「大生命」の作用を端的に「宇宙の繁栄道」と、そう呼んでいる訳である。
従って私達のいう「宇宙の繁栄道」「宇宙の大法則」の事であり、所謂「大生命の作用」を云うのである。

 この宇宙間には斯くの如く、万人を繁栄、幸福に導く「一大鉱脈」が在る事を知った者は幸いである。自己の繁栄を希う者は、この道に帰一すれば良い、自己の健康を希う者もこの道に精進すれば良いのである。
この宇宙がそのまま一つの大きな生命である事を知り、人間を始めとして、万物は皆その大生命の胎内に生じている小生命であること。
言い換えれば、万物は皆、「大生命」の個別的顕現であることを理解し、「大生命」と「小生命」たる万物は一体である知り、悟るのがそれであろう。
その様な生命観、一体観を宗教的に把握するのを仏道では「悟道」とか言うが、それは科学的な教理や実験、推理に依らずに、その人の心身が浄化し尽くしている時に「パッ」と直感的に感じる、その体験体得が「悟り」であり、「所謂大生命と小生命とが一体になった事を感じた」その瞬間であり、まさしくそういった体験こそが、「惟神の大道(かんながらのみち)」で在るに相違ない。

斯くの如く小生命なる人間も尊い存在であるが故に、自分の心掛けに依っては、其処から素晴らしい智恵を幾度も引出し得る事も出来ると信じられよう。
世の多くの諸人達よ、これから志を立て万人を等し栄えしめんが為の着想につき、大生命の宝庫の鍵を開けられるべきであろう。
言うなれば、その時、その場に於ける、苦心と努力が神の御心、即ち「惟神の大道」に添うて居れば幸福に繋がって行く。そして不自然な自己本位の利己主義が、不幸の因(たね)となるのである。

 自然は正しく神の理(コトハリ=こころ)に添うて努力する者、精進する者、神恩に報いて感謝、奉仕する者には絶対に不利益な精算はしない。
正しい心に精算が現れ来て、心豊かに暮らせ得るのである。

以前、本報に寄稿した「苦は楽の種」という原稿があった。
その原稿の内容に対し、ある御仁から御質問を頂戴した。
「苦労」と一言に括っても「必要な苦労」と、そうでない言わば「しなくても良い苦労」と両方在るのではないか、そういった主旨であった。
そして更に質問は続き、「悦び」から人は成長できぬものだろうかと、そう仰っていた。
成程、確かにそうかも知れぬ、と一面ではそう思う。
然し、これは表裏一体のものでなければならぬとも感じた。

 「運命」とは、読んで字の如し「運んだ命」である。
お互い一人ひとり、心と身体が一つになって、一時間、一日、一ヶ月、一年と進めて通った道筋、過去からが「運命」である。

 また「因縁」という言葉がある。
言葉は違っても「運命」という言葉と同じものであろう。
「因縁」も「因」が心であって「縁」は年月、時間である。
この過去歩んだ道程が自己中心主義のものであるのが「悪運命」であり、「悪因縁」である。反対に、神恩に報い、親や社会の人の幸いを中心とした道筋の歩み方が「善運命」であり、「善き因縁」である。
「大生命」の偉大なる御徳を我が心として、他を活かす者は活かされ、他を繁栄せしめる者は自ら繁栄し、自己本位で他を繁栄せしめない者は自らも繁栄しないことは必然である。
神の御心を我が心とせず、自らの使命に叛く人は生活にも悦びがなく、感謝の心は更にない。自分だけの満足をひたすらに独占しようとして全ての愛を失い、その代償として苦しみは増すばかりである。
世の中に尽くしてゆくことが人生の意義であり、また私達は世の中から無限の恩恵を受けている。「共存共栄」、即ちお互いに与えあってこそ本来の世の中が成り立つのである。

 そしてこれは己のことばかりではない。このようにして作った「悪因縁」「天借(てんしゃく)」である。即ち自分のみならず、その家の子孫に受け継がれるものである。
本来、生まれてきた子供には何の罪も科もないはずである。
然し乍ら、生まれながらにして先天の病を持つ子が生まれたり、その子供が生まれ落ちて後に謂われのない暴力を受けたり、迫害を受けることもある・・・。
それはまさしく祖先や親、或いは宗教的に言う「前世」の残した「悪因縁」のもたらす「災厄」に他ならない。

 然し、反対に考えるのであればその生まれ落ちた子供はその「悪因縁」を払い、「天借」を返すことの出来る、その大きな力を、運命=因縁を持った子供なのである。
そしてその子供を大切に育てることに依って、またはその色々な苦労を背負ってしまった子供の場合は、酷であるかも知れないが自らの不断の努力に依って、自らの、更には子孫末代までの幸福、繁栄の道を模索せねばなるまい。
その為には与えられた命に対して心の眞底より感謝の誠を捧げ、与えられた艱難辛苦も神慮の試練として迎え、それらを悦びとして迎える心構を養うことである。

 今回のこの御質問は私自身の考察を深めるためにも非常に有意義な御質問であり、有難いものであった。この場をお借りして一言、御礼と感謝の念を表させて頂くこととする。

 現代は物質(もの)が豊富にあり、何でも簡単に手に入ってしまう世の中故か、与えられることに慣れてしまい、其の事に感謝の念を抱くことが出来ていない人達が多く見受けられる。
 恩恵は権利を主張して求めるようなものではない。其の人間の世の中に尽くす行為に対して自ずから与えられるものである。
労せずして得たようなものは、決して長くは身につかないばかりか、結果は元も子も無くなるであろう。行き詰まって人間は思案する。自分自身に良くないことと云う事が判れば直ちに不業績の心の持ち方を更える事である。そして結果が転換するほどの善い行いを積極的に断行することである。

 人間いくら理論が通り、頭が良くても、財産があっても大生命(かみ)の法則、即ち「大宇宙の繁栄道」に添わねば、運命的に負けて終いである。徳積とは過去の悪行が次第に消えていくものである。
 なるが故に、人間、即ち小生命(かみのこ)は天地自然の無限なる大愛に感謝し、自分以外の人の幸福の為に善根を施す徳を積む事の実践が大生命(かみ)より信頼篤く、御神恵多き、尊い人であり、このように人間の本性が最も尊いもの、善なるものであることを知る者は幸福である。

  つづく・・・

補足:この文章の高評価を頂いていることに際しまして、今回の文章を書くきっかけを下さったmergeさんに心より感謝の辞を述べさせて頂きたいと存じます。

mergeさん、本当に有難う御座いました。

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2006年8月22日 (火)

繁栄と幸福への道(仮) ~その2~

前々回のエントリの続きです。

今回もまだ会報に掲載していない為、仮称です。

次回からは(仮)がとれる予定でいます。

それでは

繁栄と幸福への道(仮) ~その2~

 想うに春は草木が芽を出し、軈て地上に色とりどりの百花が咲き乱れる。
夏は、草木がいずれも深い緑をたたえて力一杯の繁栄を誇っている。
秋は、草木が其の実を結んで収穫に忙しい。
冬は、草木が悉く枯死せるかと思いきや、この間に春への準備を整えている。

 斯くの如く、春夏秋冬の草木の秩序ある年々の営みの奥には、草木をして、このように在らしめる大きな宇宙の法則。即ち大きな生命の作用があるに相違ないことは、何人(なんびと)にも信じられる。かかる大生命の作用は、勿論、人間その他の生物にも其の作用を及ぼして、其の繁栄をなさしめているのであり、其の特色は其処に一切偏頗(へんぱ)が無いと云う事である。如何なる生物にも、如何に正しい者にも、正しからざる者にも、偏頗無く太陽の光と熱とを与え、雨を降らし、水を施し、空気を与えるのが、其の特色なのである。

 つまり万物と万人とを栄えしめるのが、大生命の作用であり、万物の間に大調和があるのもその為であられるので私達もまた、この大生命の作用に準じて、平生すべての人が栄えるように行動する事が、大生命の作用に依って生かされている人間として、最も正しい生き方である事を知らねばならない。

 これを実際生活に当て嵌めて言えば、すべて各国間が平和を欠き、或いは各個人間が調和を欠いて世の中が騒がしく、人々が不幸な生活をするようになる。其の根本原因は兎角、国家でも、個人でも身贔屓、利己主義が過ぎて、多と共に栄えようとする精神を欠くからであり、言い換えれば、大生命の等しく万物を栄えしめる心に背いている行いが、各国と各人の幸福な生活を乱す基となるのである・・・。

例えば・・・或る一団が共同で仕事をした。其の利益を一団が栄えるように分配し、使用すれば問題が起きない事が多い。然し、其れを誰かが、或いは銘々が、自分独り多くの分け前を取ろうとすれば、其処に不和が生じ、不幸が芽生えるのである。
この簡単な例によっても理解されるように、全ての人々が幸福に暮らす道は、常にすべての人が栄えるように各人が行動するにある、と云う事であろう・・・。

 例えば茲に素晴らしい科学の利益がある。其れを或る国が利用し、他国を征服する為に用いたとする。他国を征服する為に使用(つかう)事になれば、他国が脅威を感じて其処に不和が生じ、其の対策の為に・・・、それから其の国々の不幸、国民の不幸が生じる・・・。
 然し、其れ等を悉く自国と他国とが共に栄える為に使用する心構を持ち使用したならば、その為に幸福は大きく増しても、不幸が増す事はないであろう。
此の事は科学の発達に依り、一切の利益も、等しく万人を繁栄せしめる道に沿うて使わねばならぬと云う事を、大自然、即ち親なる神が教え給うものであろう。

 斯くて各国と、各個人が等しく幸福に栄える精神指導は、常に万人が共に栄える、宇宙の繁栄道に遵うに在りである。

つづく・・・・。

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2006年8月 7日 (月)

繁栄と幸福への道(仮)

今回は前回のエントリの続きではありませんが、うちの会報にこれから連載する原稿の第一稿です。

これについては四回の連載を予定している原稿ですので、当ブログでも同様に連載していこうと思っております。

若干宗教的な色彩が強いと思いますがその辺りはどうか御容赦願えれば、と思います。

繁栄と幸福への道(仮)

 人間の幸福を妨げているものはいろいろあると思うが、そのうち主なものは先ず病気心の悩み(心配事)、それに貧乏と云う事の三つであるように思われる。

 この三つのうち一つもない人があったら、その人はすでに「幸福な人」であるが、大抵の人がこのうち一つか二つ、或いは全部を持って苦しんでいるのではないかなどと思う事もある。

 いや、そういうことを言う自分自身、此の処健康を害して病院通いを繰り返していた私は、つくづく健康の優れないのを悲哀に感じたもので、「先ず人間は働かねば」と思っても、体調の優れない体ではその気力もなかなか出ない。

「食欲がない」「食べられない」「痛い採血」「苦い薬」「検査」・・・・。
病気には金持ちと貧乏人、地位の高低などの区別はない。
それこそ、医者の言うなりに、医者の言うことを「ハイ、ハイ」と信仰してしまう。
それも治ればよいが、働き盛りの若さで死んでしまう人もいる・・・。

 金のない者は、何かにつけ「金さえあればなぁ」などと思う。
確かに、実際は金さえあれば都合良く行く事が金のない者には沢山あるが、その「お金」がなかなか手に入らない。
 誠に四百四病の病より「貧」ほど辛いものはない・・・。
昔から「貧乏」である為に如何(どんな)に多くの悲劇が行われたかは言うまでもない。特に「貧乏」のうえに、「病気」や「心の悩み」が加わるとその人達の生活は、まさに此の世の地獄、かくて甚だしいのは無心の幼児を道連れに「一家心中」まで起こり場合もあり、そのような人の全てを先ず、「貧」から救い出す方法(てだて)がないかと思うものである。然し、不況の時代と見聞する。職を探しても職場はそうざらにある訳でない・・・。

 思うに現代の医学が日に、月に進歩しつつあることを喜ぶものであるが、だが然し如何(どんな)に行き届いた医療を受けても治らぬ、などと云う処を見ても、まだ現代医学では完全な治療効果をあげ得ないことであり、勿論医者にかかれぬ「貧乏人」の中には医者にかかれば治る人も居られるで在ろうが、そのような人を救い上げるとともに、全ての人を病人にする以前に、生涯健康で通させる方法はないものであろうか。
 然るに、お互い生身の身体(からだ)を持っている一人一人である。

 それにまた心の悩み、即ち心配事のある人は「この心配事さえなかったらなぁ」と思う。例えば「夫婦間の不和」「親子の不和」「親族との争い」「父または息子の酒乱」「息子の暴力」「浪費」「不良」「先天的な障害」「結婚難」「失業苦」「上役との不和」「借金の苦しみ」「事業の不振」等々、そういう心配事のある人は、その為に安眠も出来ず、毎日悲しみの日々を送るのであろう・・・。

 さて、これら三つの悩み、即ち「金がない」「病気」「心の悩み」とは、そのうちどれ一つあっても、その人は本当の「幸福の人」とは言えないのかも知れない。
 然し、今は科学が発達している時代である故に「心の持ち様」が損なわれている様に散見される。

 本来は科学の進歩同様、我々の考え方も進まねばならぬのではなかろうか・・・。
これら三つの苦悩を全て無くして、誰でも幸福に浸ることは出来得る道はないのであろうか・・・。

 その道がどのような道であるのか・・・。

これから皆様方と一緒に訪ねていくことにしたいと思います。

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2006年7月17日 (月)

苦は楽の種!

 ガキの時分、父や母から「苦労は買ってでもせよ」などと、しばしば云い聞かされたものである。
私達は人生に於ける辛酸を寧ろ自ずから進んで求めるくらいの心構えが必要では無かろうか。
人間は此の世に生かされる限り「苦」はつきもの、「苦の娑婆」だとも人は云われる。
総ての人がこれで良いとは云えない。あらゆる人が多少の悩みや苦労は持っているものと思われる。

 1×9の答えは9、2×9は18(1+8で9)、3×9は27(2+7で9)、・・・5×9は45(4+5で9)、7×9は63(6+3で9)、9×9は81(8+1で9)・・・「9=苦」をかければ最後の答えは全て9、即ち苦・・・であるが如く、全て此の世は「苦」がつきものである。
 然れどその9(=苦)を乗り越え10「=充(みつる)」に到達すべく努力をし、真に充実した己を見出すことが賢明である。
 人間、この「苦」から逃避ばかりしていると、何時まで経ってもそれを乗り越えていく力が備わらず、何事にも挫折してしまい、虚しい人生に終わってしまう事になる。苦しみや辛い事や悲しみを、人間向上のための「有難い試練」だと素直に受け入れ、戴いて行く処に価値のある人生修行が生まれるのである。
 運営に対する苦労、対人関係に於いての悩み、嫌いな仕事、家庭上の悩み、種々雑多であるが、中には「触れ合い恐怖」なるものもあるそうで、これは現代の若者に特に多いと見聞している。
 「人」と「人」との間を「人間」と謂う。此の世は男と女の為せる社会である。成る程、うまい付き合いならそれでも良い。然し付き合いも不調をきたすと、「苦」や悩み、時と場合で怒りも生ずる・・・。一方、争いや傷つく事を避けたい心理は、一面では優しさに通ずる。・・・取り越し苦労だろうが、人は本来、一人では生きられぬように生まれついている。私は幼稚な心の発案か・・・ある意味で無頓着な人になりたいと思っている。

 そこで私の師が以前話していた言葉を御紹介したいと思う。

「私個人の生活に於いて、『宜しく衣食住を消極的にして足りる人間』、これが良いと言い切る人間、自分で行こうと決めつけた当時(ころ)、僅か四十五才の時だと記憶している。それから直ぐに実行。七十八才の『悩まない』人生が始まった。『先生はおいくつ?』『はい。七十八才です。』と嘘吹いてきた。自分自身、結構楽しい世の中であった。然れど、光陰は矢の如しとか・・・。知らぬ間に本当の七十八才を夢中で通ってしまって現在は八十六才。高齢ともなると『老苦』と云うくろうもある。尚、八十六才とは『やむ』・・・。病むに通じてか『病苦』と云う。苦労もあるが、あちこち痛むのも生きている証拠だと感謝している。様々な形で人とかかわり合い、人の世話になることで生きている・・・。人生とはそうしたものだ・・・。」

 私も年を重ねたときにそう在りたいと心から思った・・・。
多くの人とかかわり合えば、時に依っては感情の縺れも出よう・・・。だが、それをうまく乗り越えて、より深い結びつきに発展するのではないか・・・。
若い人達を如何に上手く大人社会に迎え入れるか。それは大人の側の責任でもある。
かと云って、素直の心、信じる心、従順な心、敬虔な心、勇気ある心は一朝一夕にして出来上がるものではない・・・。
ゆっくりと造り上げられるものなのである。それも幼い時ほど大事なのである。
子供の理解はとても早いもので決して分からないものではない。
例えば、赤ちゃんが必死で泣いて訴えても聞いたか聞こえないのか、母親も父親も何も答えてくれない。其のことの不安から赤ちゃんは一想(いっそう)声を張り上げて訴えるのである。
その赤ちゃんに対して、声が聞こえたら
「あぁ、聞こえるよ。もう一寸(ちょっと)待っていてね・・・。待っていてくれてありがとうネ・・・。」
と必ず声を交わしてあげることが親と子のしっかりとした「つながり」を築き上げていくものである。
 赤ちゃんの時には玩具(おもちゃ)のように扱い、可愛い、かわいいで育てて、大きくなってからは
「ああしたらいけない、こうしたらいけない」
などと
「行(い)けない、生(い)けない」
と言う。
こうして育つ子供は素直な心や信じる心、従順で敬虔な心、勇気ある心を持つことは出来得ない。
結局は親や周囲の人の態度こそが子供の心を育てていくものである。
 こういう親は肉体だけをつくって、一番大切な 、その魂や心をつくることを忘れてしまっているのである・・・。

 私達は肉体と幽体(ゆうたい)・・・精神、つまり「魂」とで成り立っている。
肉体だけをつくっても、心や魂をつくることを忘れての毎日と成っては大変なことである。
 その大切な魂は・・・生まれてからでは遅すぎる。
それは受胎する前から準備するもので、人間一人をつくり上げていくためには、気を抜いたり、惰性での生活では立派に育て上げられるものではない。
 成人となっても然り。言い換えれば、職業選び、配偶者の選択、生き方などについて「大人」としての自己の決定を行い、社会や組織の中に一定の位置付けを得る時期に入っている訳である。
 そうした踏ん切り、決着をまさにつけようとしているか、或いはその為の準備期間のただ中にある。 このことを先ず自覚してほしいものである。
 其処には「喜怒哀楽」あり、苦しみもあり、辛さもある、憂いもある。
 人間、憂いごと多き人がやさしさがあり、優秀の人の「優」である。

 また、「味わう」という言葉がある。
唯箪に体験するだけではなく、それが持つ意味を充分に理解し、感じ取っていくことである。 苦しみや悲しみをあるがままにそのものとして味わうことに依って、自分の心の糧としてゆくことが出来、そこで初めて他人の苦しみや悲しみも理解でき、温もりの心が養われていくことになるのである。
 苦労をともに味わい、噛みしめて、深みのある人生を悠然として闊歩して行きたいものである。
 今にしてみて昔の人は偉かった。
「苦労は買ってでもせよ」
と。そう・・・。
 「苦楽」と云われるとおり、苦は楽の種でもあった・・・。して、多く辛い事や苦しい事、「種々」な「め」に遭った人程、人生は喜びに満ち溢れるものである。
 それを発見できるのは、そう、感謝の心である!
苦中楽あり、楽中苦あり。晴れたり曇ったりの心の空に花も咲けば嵐もある・・・。
冷たい冬に寒難(=艱難)なんぞ梅の花咲く、一目見て枯れ木に見える桜木も、春来たりなば、花の王者だ。人間苦労から逃げてばかりいると、反って苦労がつきまとうものだ・・・。

 世の中を 渡り比べて 今ぞ知る

 先程、言葉を紹介した師の句である。

この句に触れて思う事は、私自身も過ぎ越し方をふり返り見れば、随分と危ない崖っぷちも数多く渡って来たものである。
人は、死ぬに死なれず、生きるに生きられぬ破目に陥る事が幾度(いくたび)なくある。
だから此の世は苦しい、淋しい、辛い・・・。
然れど本当は苦しいのも、淋しきも辛いのも、全(みな)自分であって世の中ではない。

だが・・・、種々のめ(=芽)に遭わされた人こそがものが解るであろうし、人に優しくでき、されるのである。

以前に以前に会報に載せた文章ですがそのまま転載致しました。

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2006年6月24日 (土)

現代の人格者

・・・・・また間隔があいてしまいました。

またもや会報の原稿を転載させていただきます。・・・(サボりすぎですね・・・反省)

ネットサーフィンをしていて色々なブログやサイトをのぞきました。

そこで感じたことや思ったことを基にして書きました。

手本となるべき在り様

 万有は流転し、時は動き流れる! 
動いて止まない、大自然の運行(はたらき)が若葉の山野に何時しか知らず衣を更(か)えた。
深い緑に変えて繁茂してゆく姿は全く鮮やかである。
紫陽花が彩(さえ)て美しく、梅・雨を呼ぶか、はや初夏の季節である。
山河、人を招き渓流に若鮎のピチピチと踊る頃も遠からじ。
人もまた夏着に更えて身は軽く、心も軽い陽気な威勢(いなせ)な人でありたい。
夏こそ人生の最盛期である。

 6月は夏の始まり。
然もこの月は午の月にあたる。
午は方位で鑑(みれ)ば南(=皆身)を指す。
時間では昼の11時から13時の間、即ち正午である。
真っ昼間なるがゆえ勢いがあり、仏教では勢至菩薩(せいしぼさつ)が午年の人と云われるが如く、何事も勢い以て実行すれば目的達成に至るのである。
日中の長い時期、草木も温情と明るさを持続し、人々の成長を目指して大いに伸展してゆきたいものである。
この勢いある好季を迂闊に日を送らず、積徳すれば寒風をさすに至っても畏れ無き余裕ある自己と成れるは必然である。

 而して最盛期の夏であっても、夏ゆけば待たずして秋が、そして終歳の冬が来るように、誰彼の差別も容赦もなく人生の終点は訪れるのである・・・。
時は流れる。時と云う流れに押し流されて、長短はあれど刻一刻「生まれ故郷」に近づきつつあるのである・・・。
それこそどんな高官の士(ひと)でも、悪鬼の如く云われる極悪の人も皆、これこそ実に平等である。下流に向かう筏の如き萬人共に同じ運命にあるのである。

 6月、この月はこの年の上半期、終わりの月である。
暦の上でも分かるように夏至を過ぎ、この日を境に陽の運行は日一日と下り坂となる。
昼の時間も今日より明日、明日より明後日と短くなってゆく・・・。
「一日でも永く生きたい・・・」
この願いはきっとほぼ全ての人が同じであろう・・・。
が、而して長命といっても百歳を数える人は極希で、この人達も漏れることなくいつかは必(きっ)と命(みこと=仏)になる・・・。
人は兎角、明日の命があると思うからうかうかと成さねばならぬことを明日に延ばし、大切なる今日、我に二度と無い今日を無意味に過ごし、後悔を繰り返すのである・・・。
今の若さは、今の元気は何時迄も続くものではない。やがて来る老いの身・・・。これに備えて、今生きている尊さ、・・・いや、生かされている尊さを悟り、生きて甲斐ある人生を精進し、徳を此の世に残したいものである。
今日一日、今日一日に我の全生命を懸け、喜びと感謝に満ちて、充実した真実の命ある一日を生き続ける。世の為、人の為にと・・・。 而して真行が我が身を守り、晩年まで安楽に過ごせ得る依因(ゆえん)であろう。

 諸行は確かに無常である。然し総てのものが変化すればこそ、其処に花が咲き実も結ぶのである。
様々な古き教えに因って善くなり、更に生き抜いてこそ甦るのである。
人間、古腐っては元も子もなくなる・・・。祖先や先達の教えに従い、今までの世を生き抜いてきた諸先輩方、自己の善心を喚起しておられる御仁は例え肉体的に古くとも精神は常に若く活き活きとしている。
否、主たる精神が若ければ、従たる精神も若返っている。
茲に有難く健康の身体で過ごせ得る。従って苦しい目に、辛い目に、痛い目に遭わない。苦い薬も要らない、注射も要らぬ、暇もかからず、金のかからぬ身体で居られる。自然の恵みが手先足先まで、内臓の各部に隈無く行き渡っている・・・。
これこそが真の健康な人ではなかろうか。

 どんな事が現れてもビクビクしない、悩まない、驚かない、心に屈託がない、自分が苦労することに依って人が助かる、たった一つの心をあちらこちらに配達しない・・・所謂心配しない、全てを処理して苦労を苦労としない・・・。
ひたすら尽くして世が明るくなると喜ぶ心には苦労が苦労でなくて、凡てが明るく解決されてサラサラと事が片付いていく。
自分(おのれ)を正しく生かそう、と思う者は自分本位では駄目なのである。
それは他人が正しく生きるのを邪魔しないことで初めて自己を正しく生かすことも出来るのである。
「自分を益々生かす、自分の仕事をいよいよ完全にする。」
この要求が自分自身にない人には人類の意志、思惑は感ぜられない。
世の為、人の為に、学んで弛まず、教えて疲れないものにして、初めて人類の意志に忠実な、己の生命、他人の生命の完成の為に働く人と云えよう。
人間の内で尊敬される人とは、かかる素晴らしい生き方の御仁であり、自己完成に忠実な人は、つまりそういう御仁である。

 人間、「此の世に嫌々生きて来た」では仕方があるまい・・・。
神の分身たる尊い筈の人間が「此の世を嫌がってやっと生きて居る」では、それは不自然の人生、生き方である。
それは人間の目的をあまりにも知らない・・・「哀れな人達よ」と云っても失言ではあるまい・・・。
「人間とは何か?何しに此の世に生まれさせられて来たか」を知り、悟るべきであろう。
己自身が悪運命に泣くと云うことは、全てのものに「調和」が欠けているからである。

 この恵み豊かな大自然の懐に住み、生かされ乍らも、その有り難さ、勿体なさに気付かない・・・。真に尊い自己の本性を悟ることの出来ぬ哀れな人である。
斯くの如き人達が一歩歪(くる)うと恐ろしい悲劇が何処でも転がっている・・・。
親子、夫婦、嫁と姑、友人関係、仕事上の関係、学校での師弟関係など、日常生活で繰り返される対人関係の中で、人は傷つけ、傷つけられ、殺しもし殺されもする・・・。

自己中心性・・・。

そこから出てくる言葉や態度、或いは行いがどれだけ人々を傷つけ、毒しているか・・・。
存在そのものが与える影響も実に大きいのである。人々を動物にするか、阿修羅にするか・・・、日常の関係で決まってしまう。
そのようにして一人ひとりの上に蓄積した怨念や欲情の狂いが、大自然、神仏との関係を遮断し、困難を呼び、禍を招くのであろう・・・。
禍というものは「無理と思ったこと」それ自身の変化ではないか?
「不自然」「不調和」なエネルギーが種々(いろいろ)と逃げ場を失った、挙げ句の果ての限界的爆発と考える。

 人間相互の行為は、その奥底に、皆それぞれ、それだけの深い理由があると見聞する。
人から苦しめられるのは、苦しめられるだけの罪を持っているからであり、褒められるのは、褒められるだけの訳があるからではなかろうか。何事も理由なしに出てくるものではなかろう。
 人を尊び大切に思う心が在ってこそ、人への助言が生きてくるものである・・・。
心の奥底に好意を持っていない人は如何にその言葉や態度が慇懃丁寧を極め足りても、何処やら冷たいところがあり、寄りつきにくいところがある。
言葉や態度に一時の冷静さや峻厳さがあっても、その心の底に好意が潜んでいる際には、なんとなしに一種の感銘を受けるものである。・・・よしや、一時は恨んでも、後になって有難く、懐かしく思うものである。

 要するに根本に於いて相互に好意を持ち合うことが、一番簡単で、一番徹底した礼儀だと思う。この真の意味の礼儀が行われさえすれば、世の中は期せずして楽しく、暢やかに有難くなるであろう・・・。
思いやりの心、好意ある言葉。こういうものをいくら振りまいた処で、損する訳でも減る訳でもない。人に接しては、常に相手に対して良い感じ、暖かい気持ち、平和な、愉快な、なんとなしに懐かしい、有難い、という感じを与えたいものである。

 それには洋々たる度量、臨機応変の才と縦横諧謔(じゅうおうかいぎゃく)の才とが必要である。 その昔、我が国で武技の達人が尊敬の的であったように今は学問というものがそれになっている。

 なれど今度は「真の人格」が標準に成らねばならぬ。
偽善や虚偽で、自己と世間とを誤魔化しているような「偽の人格」、ドーナツ人格者(注釈)を志してはならない! 
ひからびた道徳の絆に尚、黙々として繋がれている人々よ!
目を上げて天を仰げ!地を見よ!
何のこだわりもなくスラスラと伸展して止まぬ大自然の自由さを味わえ!
善なる心構えは如何なる環境にあれ、怨み、妬まない心が確立する。
斯くして幸福と平和な世は其処から地上に築かれるのであろう!
 

注釈:ドーナツのように表面は膨れあがっているが、中身が空洞な人のことを指す。

当社 会報今月分 原稿転載

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2006年5月30日 (火)

生き甲斐のある人生 しょうがない人生

百花爛漫に咲き競い春を彩った四月の花。
その花々が終わりを告げると、つよい晩春の日差しに燃える「つつじ」が山野に全盛と咲き誇る。
天地が若葉に包まれて香り豊かな茶摘み時となる。
『夏も近づく八十八夜』と歌われる八十八夜は初夏の季節感をふりまく。
卯の花の垣根に匂うて『矢車に 潮風つよき 幟かな』 皐月の空に悠然と泳ぐ鯉、五月の風が一番美味しいと謂う。
雄大な心境が沸き立ち、自ずと勝己(正気)みなぎる。

この絶好機、人間(かみのこ)互いに、この大気を吸養し、日々の成長を目指して伸び、栄え、太らせて頂ける。
真行の道を陽々とし暢々(のびのび)と直(ひた)すらに精進したいものである。

人間誰しも、本性は幸福で在りたいと考える。いくらかでも根性のある人なら、人の中で優れた者で在りたいとも思う。それは決して威張りたい為でも出世したい為でもない。
人間として生まれて、人間のクズになることは悲しく、多くの人から尊重される人に成りたいと希(ねが)うのが人情であり、当然であるが故に何人も持って生まれている無上に尊い本性を充分に発起(はっき)する為の努力が大切である。

誰が言い出したかは知らぬが「人間一人の生命は地球より重い」と云う。
この言葉が権威を持つのは、それが生命の本性が持つ偉大さに触れているからであり、そうして大抵の人はこの言葉を聞いた瞬間に、自分の生命にかけがえがないことを考えて「尤もだ」と同感するのであろう。
人権尊重という言葉もここから生じたものであると云えるのではなかろうか。

然し、此の世の人が全部が真に生命の偉大性を知っている訳では無いようである。
一体人間は、何の為に此の世に生きているのであろうか、人間にとって本当の生き甲斐とは何であろうか、もっとはっきり云えば人生の目的は何であろうか・・・。
今の知識人と云われる人ほど、このような大事な問題を忘れているのではなかろうか?
特に今の世に時めいている政治家、教育者、大きな企業の幹部と云われる人達、さらに進んで云えば、世の多くの親達の中にも、この大事な問題を忘れている人が多いのではないかと思われる。
こうして人間の問題を忘れてしまった今の世では、多くの人々は何をすることが人生の目的に叶うのやら、何が善いことであり、何が悪いことであるのやら、方向も目的も解らぬままに、無暗に忙しく落ち着けぬイライラした気持ちで何かに追われて生きているだけのことである。いや、そのように無意味に生き、そして無意味に死んでいく、ただそれだけのことである・・・そうとも思える。この世の中には・・・

生がない人・・・生き乍らも死人の如きもの
正がない人・・・正しくないもの
精がない人・・・精根なし、怠け者
賞がない人・・・尚も、甲斐なき者
祥がない人・・・喜び事なきもの

などと、使用(しょう)・・・の・・・ない人もいる。

そのような人が友達に金を借りた。約束の日が来たので「返してくれ。」と催促された。
するとその人は「も、もう少し待ってくれ、必ず返す。」という言葉だけ返してくる。
何ヶ月か経ってまた返却を求めた。言を左右にして返さない。貸した人はしきりに催促するようになった。然し、借りている男は蔭で貸している男を罵って「あの野郎はたった五,六万の金でネチネチしつこくつきまとうなんて・・・本当にケチなやつだぜ」と・・・。

では、たったそれだけの金を返そうとしない自分はどうなのだと云いたい。
こういう理屈にならぬ理屈を捏ねることを恥としない人が、此の世にはウヨウヨ居る。
「友達」とは「友」に「達する」ことであり、人にとっては大切な存在である。
だが、時として茲に述べてきたような始末に困る友達もいる。心して選ぶべきであろうし、これは「悪寒(あかん)」と思ったら関係を考え直すべきであろう。
現代は勿論、良友に助けられることもあるが、それより得てして悪友に足を引っ張られることも少なくない。 悪徳マルチ商法などはこの典型であろう。

狡い人とは交際を考えるべきであろう。「狡い」と云う文字をみても「けだもの」に「交」わると書く。即ち獣のような人間と交わる人自体が狡くなると云うことであり、「朱に交われば赤くなる」だけのことである・・・・・人を誤魔化したり、騙したり、その時その場を上手くつくろって、相手を倒して喜んで「あっ、儲けた、得した」と舌を出しても、そう長くは喜びは続くものか。反って良心を持っているものは人を欺いた気持ちは何時も晴れぬであろう。それでもよいとしている者、このような者の末路は、柳の下で一人ぼっち、孤独の淋しさに気づいた時は既に遅く、どう仕様もない手遅れでなければ宜しいが・・・・。
とにかく此の世で「地獄の一丁目」とならぬ要(こと)が肝腎である。

三代(私の祖父)が残した六根清浄の大祓詞の中に「莫命傷心神是故(わがたましいをいたましむることこのゆえに)」とあるのは、自己内在の神、即ち己の良心を傷つけてはならぬ、肉体の傷は他人(ひと)には見えて判るが、然し心の古傷は人には見えねど自分が一番知っている。それは自らが、運んできた命であり、運命である。その心の古傷が・・・ちくり、ちくりと、自分を刺して、己自心を苦しめるのである。
故に人間(かみのこ)互いに心、清浄でありたいものである。
人間は誰でも本来、無上に尊く生まれているのである。今一度言い換えれば、人間は誰でも生まれ乍らに宇宙間のすべての知識を持っているのだと言っても過言ではないように思う。

一例を挙げれば、昔日、小さい我が子を連れての墓参の時であった。私の前をヨチヨチと先に行く子がお地蔵さんの前でピタリと足を止め、その方を向き「のうのうさん」と言ったと同時に、もみじのような手のひらをを合わせ・・・合掌したのである。
息子は墓地は生まれて初めて、またお地蔵様と出会うのも初めてなのに・・・。これなどは教えられた智恵ではない。
またお互いが思案に余って苦悩し、懊悩としている時、今まで想像もしなかった良い智恵に思い当たることがある。
此等は全(みな)教えられずに知っている智恵が必要に応じて泉の如く湧いてくる・・・。
悠然として流れる雲、その奥に如何に偉大なる智恵と愛があるのか・・・。
すべては無限であろう大自然の本性、その分霊(わけみたま)として、・・・腐った平和ではなく・・・、自分の一生を献げて惜しまない生き甲斐ある人生、悪誘(あくゆう)を潰す鍾馗(しょうき=勝己)たれ!

~以上 我社 5月 会報原稿をそのまま転載~

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2006年3月 7日 (火)

善心で前進

書きたいことは山程在るのですが、記事にまとめる程、時間がとれません・・・。

反省をしつつ、またまたうちの会報の原稿をそのまま転載させていただきます。

 善心で前進

人は誰しも良く成りたいと心に思うのが本能でありましょう。

ところが、良く成りたいと思って居ながらも結果を見るとその反対に行ってしまった例は沢山あるものです。

人の性は善なり、そうであるはずなのに人間は常に善心と悪心を持っており、それが縺れ合って迷っているように思います。

故に「正義」のつもりが「不正義」であったという反則も出て参ります。

不行跡である父の行為を責めた子供が、遂に父を殺してしまった例など・・・。

世間では一つや二つではありませんがこれ等も随分と難しい問題で、一遍の法理論で結論は出たとしても、それは単なる理屈であるに止まり、決して人間社会の問題としては何等の解決の糸口さえついてはいないのです。

斯くの如き例しは数々の悲劇を起こしています。

この尊い生命ということに何等関心を持っていないのか・・・。異常心理によるものか・・・。

一口に言って感謝、報恩の心が培養されて居らず、勿論、祖先の祀り事など敬神崇祖の心などへの理解などなく、裏面や悪のみが自分の世界で在るかの如き錯覚、つまり偏向心なのです。

人間万事、家庭を愛し、社会を明るく、楽しく、面白や可笑しく、そして良く稼ぐ。この働きが身を護る基になるのです。

自分では「固意(かたい)」と云いふらしても他人から見れば、或いは「狡(ずる)い」とも思われようし、云われもしましょう・・・。

融通性なきを「かたぶつ」と謂うのものです。馬鹿ではないのですが「智」の廻りが鈍いとか云うこともあり、「愚かなり」との部類に数えられる事もありましょう。 しかし、反ってそれに依って得をする例しもあり、事と次第で考慮しなければなりません。

時と場合で解釈も異なり、価値、効力に差が出来ることも多くあり、時機を失すれば無力となり、それにまして邪魔になる、他人から嫌われているうちは信用はないものです。

学問をしたなら、それだけ有為な活用をする責任が在ることと知(さと)る事です。

然る処、『「智者」を尊敬せよ』などと強要する方もいらっしゃいますが、これなどは悪い心掛けであり、愚かな人に過ぎないのです。

学問を修め、知識を得たから偉いのではありません。他(はた)の人が勤労の汗を流して働いてくれた御陰で遊学も勉強も出来たのです。

「俺は苦学したんだ」と威張るのはまだ早い。もっと視野を広くして、此の世に融け入る道を見つけるべきではないでしょうか・・・。

末路は・・・我苦者(がくしゃ)に為らぬように・・・・・。

学も識も象牙の塔にしまう為のものではないのです。

此の世の中の進化の為、人類の福祉の為に、各自の蘊蓄(うんちく)を傾け、尽くす材料以外の何物でもないのです。

無用の長物にしたり、鼻にかけるから蓄膿症になるのです。

難しいことでも学べば易しくなるものです。

易しく話せぬようでは半人足であり、これを「死学(しがく)」というのです。

体験を積み、平易に、打ち解けて寛(くつろ)ぐところに交際は広まり、世渡りは睦まじく平和でありましょう。

親しみを以て接するならば、所謂「渡る世間に鬼はなし」です。罰も、報いも、罪もなく、心は晴れて曇りなく、遂に悪心は追放されることでありましょう。

全てに「善心」で接する人は、大きく「前進」出来ることでありましょう。

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2006年2月25日 (土)

東西南空

最近は公私ともに大変忙しく、なかなか時間がとれません。

ブログも更新したいなあと常々思っているのですがなかなか出来ませんでした。

今回もうちの以前、発行した会報の原稿をそのまま載せさせて戴きます。

東西南空

人間の心と生活には、外見からは一寸見えないところに「汚い」ものを何となく隠そうとする習性の共通が見られます。

人に見せまいとし、見られまいとする「キタナイ」ところを日光にさらして浄化しなければ、いつまでもさっぱりとは致しません。

見えない処を「キレイ」にすることは申すまでもありませんが、清潔にして置ける平常の心掛けと気の付いた時にその場で処理する習慣が最も大切であります。

足の踏み入れる処もない状態では、どうにもならぬにも拘わらず、それに又加えて棄てに来る不道徳者も居ると、益々不潔になるばかりで・・・・・お互いが今少し注意すれば、と思うのです。

それに増しても人の慾心(よくしん)ほど穢(きたな)いものはなく、人の心ほど穢れ易いものはない。

金銭上、物質上、肉体的、名誉地位、権力、趣味興味など、数え上げれば枚挙に暇がない。

家庭の秩序や整頓や交際上の心組みにも不潔さがあります。

お互いに独り独りが努力する道徳心が起こらなければ、家庭も社会も浄(きよ)まらず和やかさも円満もない。 尽くし合う、譲り合う事が美しい人情でありましょう。

清々しい心に依って、古き慣習や伝統などの教えに基づき身体を浄め、汚れを浄め、又汚れては浄めてゆけば少しずつ向上する。 独り独りの精神が社会を明美にするのであります。

自分から行為や人情を総てのものに対して心すべき一人一人が多くなり、大勢となったその時、理想の世の中が出現するものと信じます。

神は先ず、人間に祓いを示し給うことを忘れてはならぬ。

健康上に、人情においても然り。

その本性(ほんせい)を一人残らず授けられて居る。 そしてその本性が現れた時、その人が持つ本能が大きな力となり、働きとなって特徴を現す。 その特徴を惜しまず行使したことが、そのもののあらゆる徳光(とくこう)となり益となり、実績を重ねて一切が備わり、その立場は明るくなり範(はん)となります。

茲に安住の道は拓けて潔(きらび)やかな、正しく、楽しく、実に麗しい道徳が展開されて人心は自ずと鎮まりて、不満も不平もなく、報恩感謝の扶(たす)け合い、信じ合い、譲り合う自然さが、健康を延長して自業(じぎょう)に励む処には邪心は更になく、従って悪や汚れもなく、表裏一体で毎日が楽しくて不自由知らず。 感謝が次々に来たりて全てが結構づくめとなります。

東西南空・・・・・北(汚)ない空(から)ふくの神、とせよ。

以前に書いたものですが、マスコミの現状を眺めていて何となく思い出したので書いてみました。

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2006年2月13日 (月)

「不苦」があってこそ人生 その2

前回、中途半端な形で終わってい、間が開いてしまいましたが、その続きです。

「不苦」があってこそ人生(続編)

しかしながら、それでいて「豆も撒かずに歳をとった」などとボヤいていたが、ボヤいているうちは平安かも知れない・・・。

世の中には不公平で理屈に合わない不合理なものが充満(みちみち)ている。が、然しその中で誠に公平で合理的だと云っても良いものが一つある。

それは節分である。

どんな権力や財力を持ってしても、これだけはどうすることも出来ない。

節分を境に誰彼と容赦なく一つずつ年齢を加えていくという事であり、「俺だけは歳はいらない」という勝手な事は許されない。(※注:数え年で考えています)

それは刻々と過ぎ行く。時の流れをどうする事も出来ないに等しく・・・・・。

然し、以前教えを請うた先生が数え年78歳を迎えられたときに云っておられた。

「己、人生七八(悩)まず。やり甲斐のある歳だ。幾つになっても、七八(悩)まずにいつまでも神様の番頭役で、世の為、人の為にお役に立ちたい・・・。尽くしたい・・・。命に懸けて・・・。」

私も同様に思った。

そうだ!・・・時はこれより春。即ち、種を蒔くには絶好の時期である。

即ち豆まきは種まきであり、資本である。施しもせず、種を蒔かずに幸福を独り占めにしようと思ってもそれは叶う道理はない。

「蒔かぬ種は生えぬ」である。

れた(こころ)の(ひと)は自然に外され、く放り出されて出入りが叶わず、施す事も出来ず、まるで孤独になる。種も卸さぬ者は春の暖かき節に分けられて棄てられる。

所謂「汚仁者疎遠(おにはそと)」である。

福は内とは自らの事業の為には苦難もあり、困難に遭う事もある。それを乗り越えるのも皆様の御陰と自ら不撓不屈の精神こそ「不苦(ふく)」であり、座って考えていても決して福は来ない。「そうだ、一奮張り、手豆足豆、実行しよう!」吾家(わがや)の繁栄を知るのは善なる施しからである。

これ即ち「不苦者宇智(ふくはうち)」である。

一年にとると一月は丑(陰)の月、二月は寅(陽)の月であり、丑の陰を払い、寅の陽を迎え一陽来福(いちようらいふく)となる。

丑寅(北東)を鬼門と世間の人は言われる。つまり、虎の顔に牛の角を生やすと鬼の顔に見える処から「鬼門」と言うのだそうである。

「福は内」と大声をあげても、鬼の居る家は福の神は入れようもない。天の数は奇数、陽数であり、地にあるものは陰であり偶数である。

この陰と陽が合体しなければ何事も上手く行かない。

家庭も男と女。主人が居て奥さんがあって、夫婦一体でなければその家は栄えない。

主人は外を飛び歩き、奥さんも負けず劣らず外を飛び歩いて居ては駄目である。

家内(かない)というからには、家の中に居るのが一番良い。宀(うち)の中の女が一番安心である。

だが主婦の家族観も、新しい時代と共に「自分中心の生き甲斐」へと変化してきたようであるがどうか見るも恐ろしい・・・オッカネェー・・・・「夫苦魔女(ふくまめ)」とならず、「富久真女(ふくまめ)」になって頂きたいものである。

夫婦愛対し、男女交わって和合が出来、福が来る。

お正月に供える鏡餅。あれは夫婦の和合を形取り、陰陽を象ったものである。

幸福とは何か。

それは仕合わせから始まる。それぞれの家から始まる。

仕合わせは何から生まれる。それはそれぞれの人の愛から生まれる。

愛なき処に幸福はない。相手の心を受け入れて愛が生じる。愛することを知るものは幸いなるかな。

人を愛し、自然を愛して無限に楽しき日々を送れる。尚、感謝する事を多く知る者は幸いなり。天地に感謝し、人に感謝して喜び尽きざる者の生涯は素晴らしいものであろう。

そう成る為に先ず、「神我と共に坐します」神念(=信念)を持つ事である。その信念は如何なる境遇に出会っても、常にこころは愉快に溌剌としていられる。

境遇の変転というものは決して自己の思うようには行かぬものである。

けれども、この心の持ち方というものは修養一つで常に可能な事である。

信仰を持ち、真行の生活を営み、真業にいそしむ事でこの世は本当に住み良い人生である。    

~終わり~

会報の原稿をそのまま転載した為、かなり宗教色が強くなってしまった感がありますが、御容赦賜りたいと思います。

皆さんの今年の豆撒きは如何でしたか?

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2006年2月 8日 (水)

「不苦」があってこそ人生 その1

書きたいことは山程在るのですが、最近あまり時間がとれないので、今回はブログ用ではなく、うちの神社で発行している会報2月号の原稿記事をそのまま掲載させていただきます。若干、宗教的な色合いが強いかも知れませんがどうか御容赦賜りたいと思います。

「不苦」があってこそ人生

正月の種々の行事も終わり、二月の声を聞くと間もなく節分を迎え、さらに立春という暦の上では大分春めいた日がある。

しかし、気候的、気温的には冷たい雨や雪の降る日もあり、寒波、寒風の荒れ狂う季節でもある。随って二月、この月を如月「衣更着」とも呼ばれ、遠い昔からこの月は寒かったのであろう。

だが、厳寒の月のうちにも春の息吹と共に春の足音も、もうすぐ其処まで来ているような、時には梅一輪、梅一輪の暖かさの日もある。

そう、信仰は夏は涼しく、冬は暖かい心行きで過ごしたいものである。

この世に生かされる人の幸福の基は家庭の温かさであろうと思う。

「骨肉の争い」などの言葉が現代ではよく使われているが、これなどは非常に醜いことで、人は神の分身でありながら「下の下」の、最低の人と云う外はない。

人の幸福の基は家庭から。善き人生も、悪しき人生も、その善し悪しに依って分かれてくる。

故に、敬神崇祖の念を深め、家族が心を合わせ、忙しい中にも暇を作り大自然、即ち神様への奉仕を通じ御教示(みおしえ)に帰することで、感謝と報恩の気持ちは深められ、家庭に於ける朝な夕なの神拝の積徳、清い心で仕事に就き、安らぎの心で眠りに就けるのである。

それこそが二十四時を一層意義あらしめ、正しく、美しい人生を創りあげていくことが出来る根本である。 夭(わかい)屰(ぎゃく)の本字だそうである。

大自然、「親なる神」は私たち人類を始め、この世に於ける全ての物を愛し給うて居られ、「誠の心」を持ち、恵みお護りくだされるのである。

また、祖先は見えざる力を添えてお助け下さるもので、上を敬い、祖先を尊び、子孫を愛することに依って幸福の基が育て上げられる。要するに神仏のご加護を戴いて、家庭は円満に治まり、子孫まで正しく栄えて行くことが出来る由縁である。

円満には少しも角がない。つまり角突き合いも出来ない、争いが生じない。

いつでも和やかな心、明るい心で親切で、思いやりのある心、有難うと云う心、すみませんと云う心、感謝のあふれる家庭には悪魔も病魔も、貧乏神も入る隙もない。

随って伸々とした心が伸心(=信心)で、至って健康な身体で居られるのである。

元来、神事、神祀り、或いは昔からの行事は人間の全人格を統一する尊い道で、真に人間らしい人間として生きる為に為さねばならぬ大切なものであると思う。

で、在るけれども今の世では神棚も祀らぬ家庭が多いと見聞する・・・。

その家、その人の末路を考えると気が気でならない・・・。だが、現代では様々な観点から、止むを得ない事であり、他人のことで疝気を病んでも致し方ない。いずれにせよ、昔から繋がってきた尊い祀事も現代では「簡単」、「略式」・・・それ等はまだ良い方で、「やらない」、「面倒くさい」、「照れくさい」で済ませてしまう人が多くなって来たようで、節分の豆撒きなどもせぬ家もある。

・・・・・・・・書いてみると長いですね。という訳で無理矢理分けて、次回に続きます。

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